9.文芸部


 放課後。

 夏希、健太、利乃は、文芸部活動のため図書室に集っていた。部長のアキラも一緒だった。

 四人はテーブルに着いて、おのおの読書に耽るなり、たわいない雑談に興じている。図書室は十七時を過ぎると人足が途絶えるため、文芸部としては最適な活動場所だった。

 夏希は今日借りたばかりのルポタージュを読んでいた。彼の向かいには利乃が座っており、小説を読んでいるがあまり集中していない様子だった。彼女は時たま、夏希のとなりに座っている健太に目線を向けていた。

 その健太はというと、


「中学の頃、なんか伝統だとか言って、体育祭で十段ピラミッドを作ることになったんすけど」


 部会が始まってからまったく本を読む気配もなく、ずっとアキラに話しかけていた。


「十段? それはまた、無謀な段数だな」


 と、アキラが不思議そうに反応すると、


「そうなんすよ。まあでも、当日は成功したんすけどね」


 と、健太はいっそう声音を高くして話した。


「で、ピラミッドって、一番下の段の奴らがすげえ大事っていうか、きついんですけど」

「もしかして、大橋君がそうだったのか?」

「いや、オレは下から二段目でした。それでも結構辛かったんで、一番下、特に中央の奴は半端なくきつかったと思うんですよ」

「まあ、そうだろうな」

「で、その超重要な大黒柱に選ばれたのが、柔道部の稲葉いなばって奴だったんですけど、先輩、なんでそいつがやることになったか分かりますか?」

「体格がよかったからではないのか?」

「それもあったんですけど、みんなから『百人乗っても大丈夫!』って言われてたからなんすよ! ははは!」


 と、盛り上がるように言う健太だったが、


「そうか? そんなに丈夫な体躯をしていたのか」


 アキラはきょとんとした眼差しを向けただけだった。


「あ、はい。そうなんすよ」


 健太はすぐに笑みを取り下げる。

 となりにいた夏希は小さく溜め息をついた。利乃は広げた本で顔を隠し、「ふふっ」と笑い声を漏らしながら両肩を震わせていた。


「かろうじて利乃にはウケたか」


 と、健太が呟くと、


「あんたの話が全然通じてないことに笑ったのよ。勘違いしないで」


 と、利乃が容赦なく言う。

 健太は小さく舌打ちをして、今度は夏希の方を向いた。


「東江は、意味分かったよな?」

「ああ」と、夏希は本から目を離すことなく頷く。

「だよな。面白かったよな」

「いや、そうでも」

「マジかよ。ふざけんなよ。オレが滑ったみたいじゃねえか」

「ものの見事に滑ってたでしょうが。大人しく認めなさいよ」


 利乃がそう突っ込む。


「なんだ? 先ほどの大橋君の話には、なにか高尚な意味が隠されていたのか?」


 三人のやりとりを見て、アキラが不思議そうに訊ねてくる。

 夏希は読書を中断し、


「先輩が真剣に考えるほどの意味はないので、安心して大丈夫ですよ」

「んだよ、お前まで冷たいなぁ」


 健太がふてくされたように返す。


「そもそも東江はずっと本読んでばっかで、オレの話なんてろくに聞いてなかっただろ。ったく真面目に読書に耽りやがって、なんのために文芸部に入ったんだか」

「読書するために決まってんでしょうが。あんたこそなに言ってんのよ」


 と、利乃が指摘する。

 健太は「いやいや」と手を振り、


「読書するだけなら部活入る必要ないだろ。ありえねえってそんなの。ずばり東江は、出会いを求めて入ったに違いない」

「あんた、文芸部をなんだと思ってんのよ。大体、邪な気持ちで入部したのはあんたの方でしょ?」

「大橋君は、邪な気持ちで入部したのか?」


 利乃の言葉に、アキラが鋭く反応する。

 健太は慌てて身を乗り出し、


「いやいや! オレは至って純情かつ健全な気持ちで入部しましたよ! むしろ利乃の方が」

「は、はあ? あたしがなんだって言うのよ」

「お前はなんで文芸部に来たんだよ。オレが入るって言ったら、当然のようについてきやがって」

「あたしは元々、文芸部もいいかなぁって気になってたし、小説読むのも好きだったし。ていうか、またあんたの見え透いた下心向けられる相手が気の毒で」

「あーもう! 分かったから、それ以上はなにも言うんじゃねえ」


 利乃の言葉を遮る健太。蚊帳の外であるアキラはハテナマークを浮かべるように首を傾げていた。

 傍観していた夏希は「ちょっといい?」と割って入り、


「大橋の寝ぼけた憶測はさて置くとして」

「さて置くんじゃねえよ。少しは検討してくれよ」

「まったく必要性を感じない。というか、大橋には前に言わなかったか? なんで俺が文芸部に入ったのか」

「あ? あー、そういや去年聞いた気がする。あれだろ、西城さんが死ぬからって」


 利乃とアキラが『え?』と声をそろえ、夏希に視線を向けてくる。


「俺が紗英さんに言われて、西城さんと毎日登下校してるのは知ってますよね? 女の子一人だと色々危険だからって」

「ああ。紗英さんとは、もがみ荘の管理人だったか」と、アキラが確認してくる。

「そうです。西城さんの叔母さんで、実際は管理人代理らしいんですけど」


 話が逸れかけ、夏希は「ああ、いや」と気を取り直し、


「それで、西城さんって水泳部で、遅くに下校する時もあるから、それで時間合わせるために俺も部活に入ろうと思って。文芸部にしたのは読書が好きだからですけど、そもそも西城さんのことがなければ、入部はしてなかったかなと思います」

「そうだったのか」


 アキラは納得したようだった。

 しかし、利乃は首を傾げ、


「でも、ハルちゃんが死ぬってどういうこと? 確かに夜道は危険だと思うけど、ちょっと大げさなんじゃ」

「うん、俺も過保護なんじゃないかなと思ってた。実際に、一緒に下校してみるまでは」


 それから夏希は、一年前の春を回想しながらゆっくりと語り始めた。



 *



 去年の四月某日。

 入学後、夏希は初めて、部活終わりの千春と下校することになった。

 時刻は夜の七時頃。薄明の空にぽつぽつと星が見え始めていた。

 夏希は校門近くのベンチに座り、千春が来るのを待っていた。遅くとも七時前には帰れると聞いていたが、時計を確認するとすでに七時を回っている。

 この時はまだ、千春に連絡を取る手段はなかった。電話番号もラインも交換していなかった。

 夏希はポケットからスマホを取り出す。するとタイミングよくライン通知が表示された。


【紗英さん:そろそろ帰ってきてる頃?】


 もがみ荘の管理人である紗英からだった。夏希は短い溜め息をつき、返信する。


【まだ校門前です。西城さんが来なくて】

【紗英さん:少し遅いわね】

【俺に気づかず、先に帰ったってことありません?】

【紗英さん:それはないんじゃないかしら】


 夏希は、紗英からのメッセージが続くのを待った。

 しかし、彼女はなにも言ってこなかった。仕方なく夏希が返信する。


【大体、大げさじゃありませんか? 一緒に帰れなんて】

【紗英さん:でも、夜に女の子一人はねえ】

【それは分かりますけど、この辺は物騒でもないですし、もがみ荘までそこまで距離があるわけでも】

【紗英さん:でも、やっぱり心配だから】

【なにがそんなに心配なんです?】

【紗英さん:千春に会えば、分かると思う。まだ来ない?】


 夏希はあたりを見渡してみたが、それらしき人物は見当たらない。

 室内プールがある体育センターの方からは、千春はおろか水泳部員らしき生徒がやってくる気配もない。


【来てないですね。やっぱり先に帰ったんじゃ?】

【紗英さん:夏希君、校門のどこにいるの?】

【近くのベンチに座ってます】

【紗英さん:じゃあ、ベンチの後ろとか見てみた?】


「後ろ?」


 夏希は立ち上がり、ベンチの裏手に回った。

 すると、緑地に突っ伏している女子生徒の姿が見えた。夏希は「ええ?」と疑問を漏らし、恐る恐る近寄ってみる。


「西城さん?」


 声をかけてみると、その女子はゆっくり右手を挙げた。

 夏希はふたたびスマホを操作し、


【見つけました】


 と、紗英に返信して、ラインを閉じた。


「西城さん、大丈夫?」


 ふたたび呼びかけると、千春は倒れたまま夏希の足に掴まり、しがみつくように力を込めて這い上がってくる。

 途中から夏希も腕を貸し、彼女を起き上がらせた。制汗剤によるシトラス系の、甘酸っぱい香りが漂った。


「立てる?」


 と、夏希が訊ねると、


「余裕」


 と、千春は震えた声で答え、校門まで歩き始めた。

 夏希もすぐ千春のとなりに並んだが、彼女の足取りはふらついていた。

 肩にかけているスクールバッグと部活用のエナメルバッグが重たいのか、やや猫背にもなっている。


「エナメルの方、俺が持とうか?」


 夏希からの提案に、千春は少しだけ考えたのち、


「うん」


 腕をぷるぷると震わせながら、エナメルバッグを手渡してくる。案の定、バッグはかなりの重さだった。

 が、エナメルバッグがなくなって以降も、彼女の不安定な歩様は直らなかった。


「危ないっ」


 ふらつく千春が電柱にぶつかりそうになった。夏希は慌てて彼女の両肩を掴み制止させる。

 千春は「あ」と発しただけで、何事もなかったようにまた歩き始める。

 けれどその後も、躓きそうになったり車道側に出ようとしたり、海岸通りでは危うく浜辺に落ちそうになって、散々な下校だった。


「西城さん、大丈夫?」


 夏希は再三そう訊ねたが、千春は疲弊しきった表情のまま歩くだけだった。

 なんとか無事にもがみ荘に帰り着くと、玄関で紗英が待ち構えていた。


「私がお願いしたわけ、分かったかしら?」


 おしとやかに訊いてくる紗英に対し、夏希はうなだれるように頷いていた。



 *



「へえ。部活後の西城さんってそんな感じなんか」


 話を聞き終え、まず健太が所感を語った。


「教室でも寝てばっかだけど、それだけ水泳に打ち込んで疲れてるってことだよな」

「誰かさんは部活で疲れてるわけでもないのに寝てることあるわよね」


 ちくりと、利乃が毒づくように健太を見やる。


「そ、それは今どうでもいいだろ」


 と、健太が慌てて反論すると、


「大橋君は授業をおろそかにしているのか?」


 と、アキラが疑問をぶつけてくる。


「いやいや、ごくたまにっすよ! 利乃はちょっと大げさなんです。それより、あれだな東江、西城さんがそんなんなら、確かに一緒に下校してやった方がいいな、うん」


 健太は強引に話題を戻す。利乃が「ふっ」と、苦笑をこぼしていた。


「西城千春は遠方の出身だったな。もしかして特待生なのか?」

「あ、そうです。学費全額免除だから、期待されてる選手なんだと思います」


 アキラからの疑問に、夏希が答える。


「ハルちゃんが下宿なのは分かるけど、東江君はどうしてもがみ荘に? 家から遠かったの?」


 利乃が訊いた。


「いや、駅七つくらいしか離れてなかったから、通おうと思えば通えたんだけど。おふくろから頼まれて」


 夏希は、自分がもがみ荘に下宿することになった経緯について話した。

 もがみ荘は元々、千春の祖母が管理していた。しかし祖母の体調が芳しくないことから去年、千春の叔母である紗英が管理人代理を引き受けることになった。


「去年ってことは、夏希が入ったのと同じ頃ってことか?」


 健太が訊ねた。


「ああ。紗英さんは楽天家なところがあるから、かなり安請け合いしたみたいで。ご飯の用意とか洗濯とか、下宿人の世話をする必要があるって知らなかったらしいんだ。紗英さん、家事とかほとんどしない人だから」

「じゃあもしかして、東江君は、もがみ荘に家事代行で呼ばれたってこと?」


 と、利乃が驚いたように訊いてくる。

 夏希は「おふくろから行くように言われたから、呼ばれたとは少し違うけど」と答えつつ、


「学校からも近いし、住み込みのバイトって考えたらそんなに悪くないかなって。ただ、下宿人は少ないとは聞いてたけど、まさか同い年の女子がいるとは思わなかった」

「それが西城さんだったってことか。ていうか、もがみ荘にはお前と西城さんしかいねえんだろ?」


 健太からの疑問に、夏希は小さくかぶりを振った。


「本当はもう一人いたらしいんだけど、留学中らしくて。結果的に二人だけになっただけ。紗英さんもああいう人だから、あんまりもがみ荘に帰ってこないし」

「じゃあ東江、もはや西城さんの世話をするためだけにいるようなもんじゃねえか」


 夏希は返答に窮した。

 健太は続ける。


「ていうかお前、家事ってなにやってんだよ? 飯作ったり掃除したりとかか? まさか洗濯までやってるなんて言わねえよな」

「さすがにそれは、西城さんだって女の子なんだし、任せられないでしょ」


 利乃があっさり否定する。

 実際のところ、下宿を始めた頃は三人で家事を分担していた。洗濯物を干すのは紗英の役目だった。千春も自分の分だけは手伝っていた。

 今ではすべて夏希の仕事になっているが、打ち明けることは控えた。夏希は曖昧に頷くだけに留めた。


「そういえば夏希君は、前に西城千春と夕食の買いものをしていたことがあったな」


 アキラによって、新たな起爆剤が投下される。

 案の定、健太が「なんだと?」と食いつき、


「二人で夕飯の買い出しなんて、もう完全に新婚夫婦じゃん。お前ら本当にただの友達なのか? 付き合ってないんか?」

「俺はそういう認識だけど」

「東江君がそうでも、ハルちゃんの方は違うってことない? もう一年以上も一緒に暮らしてるんだし」


 健太に続き、利乃がそう訊ねてくる。

 夏希は「うーん」と小さくうなり、


「お互い、あんまり話さない方だから。よく分からない」

「ふーん。そういうものかなぁ」


 利乃は頬杖をつき、不思議そうに夏希を見つめていた。健太やアキラも、似たような眼差しを向けてくる。

 夏希は視線だけを窓の外に逃がした。体育センターは校舎の陰に隠れ、ここからでは目視できなかった。



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