3.帰路
日永の春も日暮れ時、帰路は見事な茜色に染まっていた。
遠くのどこかで鳴く猫の声が聞こえてくる。夏希は歩道の先にたたずむ三毛猫を見つけ、車道を挟んで反対側の歩道にも、別の白い猫がいるのを確認した。
二匹の猫は、互いを呼び合うように鳴いた末、三毛猫の方が、行き交う車とのタイミングを見計らって車道を横切っていた。二匹はそのまま路地へと入り込んでいった。
夏希はちらりと、となりを歩いている千春を一瞥する。彼女は歩きスマホをしていて前を見ていない。
今日は互いに、部活がない曜日だった。
放課後になると、二人でまっすぐ下宿まで帰る。学校からは徒歩で二十分ほどの距離。
普段であれば、この二十分は互いになにも話さず歩くことが多い。
「西城さん」
けれど、この日は夏希から沈黙を破った。
「今日の昼休み、本当に寝てたの?」
「は?」
千春は、スマホから視線を逸らさず訊き返した。
「いや、本の題名、よく当てられたなと思って」
「だけん言いよぉやん。寝とったって」
「方言出てるけど」
「東江君しかおらけん、どうせ」
夏希相手なら構わないという判断に聞こえるが、実際は誰といようと方言になるのが、彼女の現状だった。
「西城さん、いつ俺が読んでる本、見たの?」
「東江君に声かけた時」
「あの一瞬で覚えたってこと? 結構長かったのに」
「は? 覚えられるでしょ。バカにしよぉと?」
「ちょっと見くびってたかも。西城さんの記憶力。いや、観察力かな? 色々と仮説を立ててたんだけど」
「仮説?」
「なんで西城さんが書名を当てられたか。それもあんな正確に」
千春はきょとんとした瞳を向けてきていた。
「本当は私がずっと起きとって、東江君がなんば読みよぉか観察しよったってこと?」
「その可能性も考えてたけど、それだといくつか辻褄が合わないんだ」
「ふぅん?」
「だって西城さん、あの時完全に寝ぼけてたよね」
「それは忘れて」
「それは無理」
「くそが」
小突くように肩先をぶつけてくる千春。
勢いは軽かったが、ちょうど二の腕に入ったため少し痛かった。
「女の子がくそとか言うの、どうかと思う」
「方言やけん」
と、こめかみを掻きながらのたまう千春。
夏希は嘆息した。
「あの寝ぼけ方は演技じゃないだろうから、西城さんが寝てたことは確実だと思うんだ」
「だけん忘れてって言いよぉやん」
「無理。あと、西城さんが仮に起きてたとしても、俺のことを観察している理由がないなと思って」
「あっそう」
千春がどうでもよさそうに相槌を打つ。夏希は「うん」と頷いたきり口を閉ざした。
互いの間に横たわった沈黙の中を、穏やかな風が通り抜けていく。
海岸通りであるこの道の風は、潮気を帯びた独特のにおいがあって、時おり妙な具合に鼻をつく。においを追うと、防護柵の向こう側に広がっている雄大な海にたどり着く。春潮の海は淡い藍色で、波の動きも緩やかだった。
浜辺では、ランドセルを置いた子供たちが駆け回っていて、パキパキと、打ち上げられた貝殻を踏み鳴らして楽しんでいる。夏希も密かに耳を澄ませ、小気味よく鳴る純粋な音色のあとを追っていた。
「東江君も、当てたよね」
不意に、千春の声が流れてくる。
振り向くと、海の彼方を焼く夕陽が眩しくて、彼女の表情が読み取りづらかった。
「なに?」
「だけん、当てたよねって」
夏希は理解に苦しんだ。
「なんの話?」
「なんだっけ、あの、泳法がどうとかって」
「ああ」
千春に出された質問の方か、夏希は思い当たった。
「自分でもびっくりしたけどね。でも、ずぼらな西城さんなら、回答なしもありえるかなと」
「誰がずぼらって?」
「西城さん」
指を差すと、一瞬で払いのけられた。
「くそが」
「また言ってる。しかも無表情怖い」
「表情筋が硬いだけ」
「そんなの威張られてもね」
「威張りよらんし」
「でもさ、結果的に俺は当たったわけだから、やっぱりずぼらだって考えも間違いじゃなかったんじゃない?」
千春は首を横に振った。
夏希は「そう?」と疑問に思い、
「根拠は?」
「あれ、見て」
彼女は足を止め、岸の下に広がっている海浜を指差す。
夏希も、立ち止まって視線を向けたが、数人の子供が遊んでいる以外に変わった様子はない。
「え、なに?」
と、夏希が小首を傾げると、
「ほら、あの、文字」
と、千春が強調するように言う。
よく見ると、浜辺の砂上に文字が刻まれているのが確認できた。
なんと書かれているのか、読み取ろうとした刹那に細波に飲まれ、波が引くと文字はほとんど消えて見えなくなっていた。
「東江君が当てられたのは、あーゆーこと」
千春が補足するように言った。
「どゆこと?」
夏希には理解できなかった。
「だけん、私はずぼらじゃなかて言いよぉと」
「んん?」
ますます困惑する夏希に、千春は小さく息をつき、
「じゃあ、これあげるけん」
と、ブレザーのポケットから取り出したなにかを手渡してくる。
それは、丸められた小さな紙くずだった。
「ゴミ?」
と、夏希が訊くと、
「そう」
千春はあっけらかんと答え、ふたたび歩き始めた。
夏希も彼女のとなりに並びながら、丸まっていた紙くずを広げてみる。
それは昼休みに使っていた付箋で、千春の字が刻まれていた。
『クロール』
「?」
夏希の疑問は晴れなかった。
「分かったかね、ホームズ君」
千春が訊ねてくる。幾分、得意げな口調に感じられた。
夏希は苦笑し、
「もしかして、ワトソン君って言いたかった?」
「それ」
「格好つかないね」
「どっちでもよくない?」
「助けてのび太君って言うほど違うと思うけど」
「は?」
「伝わらないか」
夏希は頭を掻いた。
それからもう一度、手にしていた付箋を見やる。
「で、これ結局どういう意味?」
「晩ご飯、なんか決めたと?」
「先に質問したのは俺なんだけど」
「私の質問の方が早かった。三時間くらい」
「伏線だったのか。いや、布石?」
「よかけん、決めたと?」
「まだ」
「くそが」
千春はまた肩で小突いてくる。先ほどと同じ位置に当たって、やはり痛かった。
苦笑いを浮かべながら、夏希は付箋を丁寧に折りたたみ、ブレザーのポケットにしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます