紙とペンと足りぬ、のは

綾坂キョウ

たゆたってたゆたって、あなたがいない

 揺蕩たゆたう世界の、ほんの一隅ひとすみで。わたしはあなたを想っています。


 兎角とかく、この世界に深く息づくには、幾らか空気が足りぬのです。足りぬ分が、きっとあなた。喘ぐように水面みなもへ顔を突き出したとても、どうにもやはり足りぬのです。


 それならいっそ、そういうものかと貝にでもなり、息を潜めて仕舞えばいいものを。ばかね、所詮はおかに上がることだってできぬのに。この上にそらを夢見るなんて。


 でもしようがないのです。だって水底みなぞこには、あなたがいない。あなたがいないの。


 わかっているの。あなたはもう、此処ここへは戻ってなど来ないのでしょう。それは愛がないからだとか、そんなふうになじるつもりなんてないのだけれど。せめて、わたしの想いだけでも届けられたら、それで満足なのだけれど。一片ひとひらでもいいから。一片だけでもいいから。


 ひたすらにひたすらに、こうして連ねた言の葉を。例えば紙にでも記して、それを風にのせたなら、あなたのもとまで届けてくれるかしらん。はらはらと舞ったそれは、きっと空気の重さに負けて、やがてふくりと水を含んで、それは、もう。たぶん。また水面に還ってきてはとろけてしまうのでしょうけど。


 なら、だったら、いっそわたしがそちらへ行けたなら。薄い空気に喘ぎ喘いで、やがて干からびたわたしをあなたは受け取って。抱擁の一つでもしてくれたなら、泪の一粒でも流してくれたなら、きっとわたしは微笑んで、満足のうちに綺羅めく星のうちに交ざって、それで、それで。


(自棄になってはいけないよ)

(黒白暖簾が棚引く街は、最早わたしの居場所などではなく)

(自棄になってはいけないよ)

(自棄になってはいけないよ)


 誰かが扉を叩いています。たんたんと柔らかに。用心など、わたしには要らぬものですから、つつと開けましたところ、泣き腫らした女が一人、立っているではないですか。

 なにかと問う前に、お願い、と。紙とペンを渡してくるので。その真白い面に、なにか書こうと。

 黒いインクの、じくりと染みる。まるで、わたしと世界のように。それは、もうどうしようもない、どうしようもない。


 彼女はそれを見て、ほたほたと泣きなから笑うのです。やはり、と。解っていたの。そう、解っていたのね、貴女わたしも。


 どうせ、紙とペンでは足りぬの。紙とペンではどうすることもできないの。紙とペンでは。紙とペンだけでは。それではあなたに、欠片も伝えることなどできなかった。あなたを引き留めることなど、できなくて。


 たまごいろした最果ては、かといって尽きることもなく、何処までも絶望的に滲んでいくから。それを巻き戻すには、やはり。この喉奥から絞り出す、有りったけの。それこそ、ばかみたいにえて、吼えて、吼えて。原初のような、剥き出しのこころで、そうするしかなかったのね。


 でもね、そんなのはもう、おそくて。わたしはもう貴女でないから。届かぬと解っていながら。どうしようもないとしりながら。

 すみ色に塗りたぐったそれを、泪のぶんだけ重くして。あなたの足りぬぶんだけまた喘ぎながら、はらはらと引きちぎって、裂いて、裂いて、裂いて、裂いて。また沈んでいくことをしりながらも、なんどだって宙に向かって風にのせるのです。

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紙とペンと足りぬ、のは 綾坂キョウ @Ayasakakyo

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