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「……これがボクの最初の殺し。人の皮を剥ぎ捨てた、最後の夏だった。夏じゃなかったら生きのびられなかったさ、こんな仔犬一匹が。

 ボクは猟犬だ。生きるも死ぬも地獄の底、命を殺して夜をわたる獣さ。

 ……で、まだ準備できないの?」

 ぞっとするほど乾いた声でジナイーダが訊ねた相手は、脂汗を流しながら、震える万年筆の先で紙を小刻みに叩き続けていた。そのこめかみに黒い拳銃を押し当てたまま、ジナイーダは机の上にあったチョコレートをひとつ口に放り込み、いら立ったように足を鳴らす。

「オジサンはさァ、人間だからさァ。殺すと死体が残っちゃうんだよ、他殺死体がね。だから仕方なく自殺をお膳立てしてあげてるっていうのに、シベリア鉄道より長い遺書を書くつもりなのかい? ボクのどうでもいい生い立ちも喋り終わっちゃったじゃないか。ちなみに、ボクの生い立ちを聞けるのはこれから死ぬ奴の特権なんだからね。ホラ、今なら飛び降りか首吊り選ばせてあげるっていう特別キャンペーン中なのにさァ、このままだとボクが代わりにキミの頭を撃ち抜く通常コースになっちゃうよ。それともはるか昔の貴族みたいに斬首をご所望かな? ムッシュ・ド・パリに匹敵するかは知らないけど、ボクだってそれなりの使い手だよ。最近、練習してるんだ。……」

 爪先がタップダンスを踊るように、上質な絨毯を叩く。銃を突きつけられた男の唇から苦悶の呻きが漏れた。この期に及んで、なんとか助かる手段を探して這いずりまわる醜い火を、ジナイーダは見た。ああ、光っている。命が燃えている。それが美しくとも、醜くとも、ジナイーダにとってそれは何にも勝る獲物なのだ。

 万年筆の先が滑り、何本めか分からない書き損じの曲線を画く。

 ジナイーダは爬虫類じみた温度のない瞳で、それを見ていた。男の指から、万年筆が落ちる。インクが、血の染みのように紙に広がった。

 猟犬は舌なめずりして引き金に指をかけ、宣言する。

「早く死ねよ。恨み言なら地獄で聞いてやるから」

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