4

 じっとりと湿った空気は、開いた窓から流れ込む樹木の囁きのせいかもしれない。

 男は、暖炉に少しだけ火をいれて、お茶をいれていた。夏だからそれほど部屋が暑くならないように調節していて、暖炉の蓋は開いていた。そこから漂う熱風のせいか、それとも昨夜から腹に巣食うじくじくとした痛みのせいか、ジナイーダは脂汗を滲ませながら、いつものようにベッドに踞っていた。

 病気になっても医師にみせてはもらえない。だから言うだけ無駄だった。しかし、味わったことのない疼きが、黒炭の奥で燻る熾火のように下腹部を焼いていた。

「ナージャ」

 男の声。粘っこい、絡みつくような呼び声にいやいや返事をしようとした瞬間、刺すような痛みに体を折った。どろりと、こぼれる。初めての悪夢が甦った。押さえつけられ、蹂躙された。その足の間から、何かが。

 真っ赤な輪。花のような形に広がったそれに、ジナイーダはひきつった悲鳴を喉からこぼした。

「女になったか」

 べっとりとした血の痕を指でなぞり、男は唇をだらしなく歪めた。熱く濡れたシーツに怯えて身を起こしたジナイーダの肩をつかみ、強引に横たわらせる。鉄の臭いに興奮したように男の額には汗が浮かんでいた。

「まだここは平らなくせに」

 乳首を摘ままれ、その鋭い痛みと、腹のなかで疼く鈍痛の両方に苛まれて、ジナイーダは身をよじった。脳に針を刺されたような苦痛。生きているかぎり、逃れられない苦痛。首をそらして、掠れた声で囁く。

 クルチナのせいで……

「こちらを向きなさい、膝で立って」

 蛇には、心を許せない……

「ナージャ。来るんだ」

 止まらぬうめき声が血のように滴る。痛みは鈍く、重く、胎の奥でとぐろを巻く大蛇のようにおぞましかった。体はその重たい熱を拒み、あとからあとから黒い血が溢れた。

 ちがう。

 これはわたしのものじゃない。

 この男が、何年もの夜をかけてわたしに注いだ、穢らわしい毒素だ。白い血、赤い精液。陶器人形が割れた傷口から、憎悪が溢れだしている。

 今、わたしはこの男を拒んでいる。孕むための卵を排除しようと、血を流している。闘う準備が整ったのだ、けして、女になったのではない。

 そう、女ではない。

 子宮が重たく震える。この苦しみを生むもの、血を流す臓器、そう、これが、クルチナだ。ポプラの葉のように揺れ、キランソウの葉のようにざわめいている、永遠につきまとう呪い。

 ちがう。

 ちがう。

 これは永遠なんかじゃない。

 ずっと違和感を抱いて生きてきた。ついにそれが破裂したのだ。生まれながらに肉体に抱えた神の過ちが今砕け散り、無数の破片が内部に突き刺さった。壊れろ、と喚く。この臓器は異物だ。

 これは、ボクのものじゃない。

「ボクにさわるな」

 叫び、男の手を払いのける。男が息を飲んだのがわかる。ベッドの微細な振動は、虐げられた年月によって獣の感覚を鋭敏にした。息遣いの変化を読み取り、男が怒りを以てジナイーダの腕を掴もうとしたのを、身をひねって避けた。ベッドから転がり落ち、強かに体を打つ。足の間から、どろり、と塊が流れ落ちる。汚ならしい、と思い、もっと流れろ、と思う。女の証だと、くそくらえ、と歯を食い縛りながら、ぬめる血だまりを裸足で踏んで男の手から辛くも逃れる。暖炉は目と鼻の先だ。眼球が痛いくらい熱い。黒い火かき棒が床に落ちていて、その先端が炎のなかに消えていた。

 血の痕を残しながら這いずって、その赤々と燃える炭火の中へ手を突っ込んだ。

 地獄に堕ちるしか逃げ道はない。いや、逃げ道などではないのだ。道などない。本当は聞こえていた、欲望のままに人を殺す、獣の呼び声が導く闇へ。掌を焼かれながらジナイーダは考える、ここで死ぬか、獣になるか。答えを出すのも体が動くのも同時だった、とうにわかっていた。

 二度と戻ってはこられまい。

 腕を引き、残された力を振り絞って立ち上がる。血に濡れた体が月に照らされ、林檎のように赤く輝いた。その脳裏に、一瞬だけ、あの青の瞳がよぎった。

 さよなら、天使。

 振り下ろした火かき棒は、男の腕の隙間を抜け、禿げた頭蓋を打ち砕いた。


 北向の窓から抜け出すとき、ジナイーダは下半身のみでなく、灰色の頭から血をかぶり、全身が生まれたての胎児のように赤黒くてらてらと光っていた。

 一度だけ、振り返った。家の影は黒々として、やけに明るい、炎の照らす水晶のような夜空に、狼の牙と似た三日月が白々と輝いていた。孤児院の建物は見えなかった。あの天使たちがいた路地裏も。

 裸足で、天使のいる町を飛び出し、荒野へ駆け出した。

 いちめんの闇のなか、何百もの花の匂いがして、どこかで夜露の落ちる音が聴こえた。夜の世界は輝いていた。血の臭いも、裸足も、なにもかもを包みこむ優しい昏い水のような闇。伸びてくる手も罵倒もない、名前を呼ぶ声もない。自分を女のように呼ぶ声は。

 ああ、ここが棲みかだったのだ、と、ジナイーダは荒野の真ん中で立ち止まり、月に向かって吠えた。それは、狼そのものの声だった。血を流す獣が、自由になった歓喜の叫び、そして──この世でたったひとつ美しいと信じたものを、永遠に失った慟哭だった。

 殺せ。

 殺せ。

 地獄に堕ちろ。

 それがお前の運命なのだ。

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