3

 少女は歩いている。体の奥が痛んでいるように、足取りは重い。ときどき袖から覗く手首には、掴まれた痕がある。

 しかし、たまたま積み荷からこぼれたらしいフランス製の口紅を拾ったおかげで、果物を買った女と品物を交換することができた。

 この路地裏だ、と石畳をこする。血の痕が残っている。暗がりで、美しい青が一対閃いた。

 ジナイーダは一歩踏みいると、果物を詰めたかごを掲げて、下手くそな微笑を浮かべた。

「来たよ。……」

 かすれた声を聞いた少年も、花が咲くように笑った。

 少年は、恐らくだが、施設から逃げ出してきたらしい。同じように逃げた子や、捨てられていた子で集まり、彼をリーダーに路上で生きているのだと知った。うらやましい、とジナイーダは、子どもたちの優しいかんばせを見つめながら思った。善なるものは、あの地獄から脱け出すことができるのだ。

「わたしもここにいられたらな」

 いるといい、と言うように、少年は材木のベンチを軽く叩いた。ジナイーダは力無くかぶりを振った。

「院長に見つけられたら、ここのみんなも施設に入れられちゃうよ。あいつ、どうしてか、わたしの行くところがわかるんだ。どこに逃げても見つかる。

 あの男、いつか……」

 殺してやる、と口にすると同時に、優しい手が肩に触れた。びくっと身を震わせたジナイーダの眼を覗きこみ、少年はゆっくりと、首を横に振った。絹糸のような髪が揺れる音が聞こえるほど、ゆっくりと。ジナイーダはその眼に吸い寄せられるように言葉を失い、少し遅れて、はっと我に返った。

「ごめん、わたしがまちがってた。…」

 天使の前では、こんなことを口にしてはならない。ジナイーダは自分の爪を噛み、戒めた。

 しかし、代わりに面白い話ができるわけでもない。歌がうたえたらな、と思う。子どもたちは、よく知らない子守唄をつなぎあわせ、凍える夜の慰めにしている。

 ジナイーダの知る歌は、近くの工場で流れる労働讃歌か、あの洗濯女の歌だけだった。

 少年に、名前を訊こうか、と何度か思った。けれど、彼は文字が拙いし、それに、その名を知ることが…ジナイーダにとっては、気恥ずかしかったのだ。イリヤ、アルセーニィ、イヴァン、アレクセーイ、ユーリィ、…どんなありふれた名前であっても、その一単語はきっと、とても特別なものになってしまう。それを知るのは、修道院に入る覚悟を決めるようなもので、名前について考えるたびに体のなかで火が燃えあがった。いや、そもそも、天使に名前などあるのだろうか。

 天使の青い瞳。それをみるとき、修道院の薔薇窓よりも尊いものを見たような気持ちになる。それだけで満たされる。

 夕暮れが近くなり、折檻を恐れたジナイーダは子どもたちに別れを告げた。自分は屋根のあるところへ帰るのに、こんなにも怯えている! 慈悲あれども家はなく、屋根あれども平穏はない。なんという不条理だろう。子どもはみな、不幸だ。

 冷え冷えと建つ孤児院の裏で、洗濯女は今日も民謡を口ずさんでいる。ジナイーダは立ち止まって、ぼんやりとその女の背後で、耳を傾けた。

 女はふと振り返り、立ち尽くす子どもを見つけた。おや、女の子かな、男の子かな、とジナイーダの痩せたかんばせを見て首をかしげ、なんだい、職員さんのおつかいかい、と低い声で訊ねた。ジナイーダは首を横に振った。

「クルチナって何」

 洗濯女は、ああ、とため息のような声を漏らした。

「悲しみだよ。古い言葉さ。……」

 悲しみ、とジナイーダは繰り返した。

「クルチナが表す悲しみっていうのはね、何も、今起きていることや、昔の出来事を悲しんでるものじゃないんだよ。人生の悲しみさ。どんなに幸福な瞬間でも、クルチナが消えることはない。

 生きているかぎり、女であるかぎり、クルチナからは逃れられないものだよ」

 生きているかぎり、女であるかぎり。

 唇のなかで囁けば、乾燥した皮膚がぴりりと切れて血の味がした。

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