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孤児であったジナイーダ・チャンが育った施設はもともと修道院で、青黒い湿った生け垣と、鉄の門がはりめぐらされた、古い底冷えのする牢獄に似たところだった。
のちにジナイーダが精神病院や強制収容所の写真をみたとき、「あの施設そのものだ」という感想を抱いた。その門前に、ジナイーダは、そのフルネームを印した紙と一緒に篭にいれられ、捨てられていた。
溢れかえる子供にたいして世話をする大人は足りず、やがて子どもたちは、自分たちの社会を形成した。ちいさな地獄があちこちの足元で生まれていた。
人は生まれながらにして邪悪なものだ。囲まれて蹴られたあと、痣をさすり、石を噛みながら、ジナイーダはそう思った。
そんなある日、施設長らしい中年の男が、子どものなかから、「お手伝い係」を選びだした。お手伝い係は、男に呼ばれ、男に頼まれたことをする。それがなんであれ、真夜中であれ。選ばれるのはひとりだった。
呼ばれたのは、ただひとりの混血児の少女だった。
どうして自分だったのかは分からない。ジナイーダは、孤独だったからだと思っている。
弱い動物たちは、群れることで身を守る。群れからはぐれた個体は真っ先に狙われる。一際小柄で、無口で、どこか異国の澱みをたたえた子どもは、どうしようもなく必ず輪のふちから滑り落ちた。
はじめて真夜中に呼ばれたのは、夏至だった。
明けた朝、太陽が耐えられなかった。ジナイーダはカーテンにくるまり、暗がりで震えた。八歳だった。灰色の服の赤い染みは、いつまでたっても消えなかった。
陶器の人形は、割れたら戻らない。
男は怪しまれないために、普通の「お手伝い」もジナイーダにやらせた。子供には重たい桶での水汲みから掃除、ジナイーダは耳だけで聞き覚えた民謡を口ずさみながら、あかぎれからの出血で色が落ちなくなった赤黒い爪で、少しずつ「お手伝い」をこなした。代わりに、林檎や、パンを、他の子より多くもらえた。
「お手伝い」は、無償ではないのに、誰もやりたがらなかった理由を、ジナイーダは察している。子供たちは知っていて、自分を生け贄にしたのだ。みんなで協力しましょう、と子供にもわかるように平易な言葉に書き換えられ、壁に掲げられたスローガンは、とうに薄れて消えかかっていた。
おつかいを頼まれたときは、誰にも見つからないように、北向の窓から出て、生け垣の隙間から外へ向かう。道端の人びとの視線を避けるため、遊びにいく途中の子どものように素早く走って、蒼白い顔と痩せほそった手足を見られないようにした。
それでも、配給の列に並ぶときは、胸に貼られた名札とみすぼらしい格好から、すぐに孤児院の子だと知れた。何度も品数をごまかされかけて、そのたびに全身で噛みついて抵抗して、なんとか取り分を回収した。
白パンや林檎はどれもこれも小さかったけれど、無いよりはましだった。これは自分のだ、とジナイーダはしっかり胸に抱え込む。あの男が夜な夜な自分からむしりとっていくものだから、いつも飢えている。体も、心も、氷の人形みたいにからっぽの、穴ぼこだらけ。血だらけの魂はぼろきれ同然だ。
民謡を口ずさむ。意味はわからない。窓の外で、洗濯女が歌っていた。もの悲しい、しわがれた声で……。
あれは風が枝を曲げているのではない
キランソウの葉がざわめいているのでもない
あれは私の心臓のうめき声
ポプラの葉のように揺れている……
クルチナ、という題名だけを知っていた。幼いジナイーダには詞の意味はわからず、ただその調べにみちみちた静かな苦しみだけを、身を以て知っていた。
レニングラード包囲のときの市民ですら、ジナイーダほど惨めではなかっただろうと思われた。痩せこけた手足や、眼窩が目立つ顔よりも何よりも、そのすみれ色の瞳に宿る底のない暗闇が、この少女の魂の状態を表していた。
不意に、曲がり角で、自分の二倍ほどの背丈もある誰かがぶつかってきて、ジナイーダは石畳に転がった。起き上がる前に、背中を強かに蹴られた。抱えていた紙袋の口から、小さな林檎と丸い黒パンが転がりでた。男は拾おうとする。痛みにかすむ視界でそれを捉え、ジナイーダは執念で、男の足首に噛みついた。尖った犬歯が刺さるよう、浅く皮膚をちぎるように突き立てた。男は思わぬ鋭い痛みに足を振り上げ、ジナイーダは吹き飛ばされて路地に転がり込んだが、紙袋から逃げ出した林檎は彼女の背後にあった。
くるぶしを食い破られた男は何か怒号を撒き散らしていたが、何かに気づいたように喋るのをやめ、舌打ちすると身を翻して去った。ジナイーダは不思議に思って、何かいるのかと、背後の路地の暗がりを振り返った。
そこには、たくさんの子どもたちがいた。青や、緑や、茶色の目が、じっと路地裏から男とジナイーダを見つめていたのだ。神の瞳のように。
みなしごだ、とジナイーダは思った。施設に入れてすらもらえなかったのか、逃げ出したのかはわからないが、彼らはみな、ジナイーダと似た匂いをしていた。
路地裏に置かれた廃材を屋根がわりに、マトリョーシカみたいに大きいのから小さいのまで、孤児たちがより集まって、落ち葉の陰のリスたちみたいに暖めあっていた。大人のコートの裾を引きずって着ていて、肌は薄汚れて、髪は魔女のほうきのようだ。だけど、瞳は燃えていた、闇で光る星のように。
命だ、とジナイーダは思った。燃えている。今まさに生きようとしている、霧の向こうの太陽……。
地面に這いつくばった少女に、子どもたちは心配そうな目を向けていた。こっちへ来る? と言うように、痩せこけた彼女よりまだ小さな手をのべた子もいた。
ジナイーダは迷って、その手に触れられなかった。自分は施設の孤児で、今は「お手伝い」の途中で、日暮れまでに帰らなければ……。
しかし、暗がりに散らばった品物を探すのも嫌になってしまっていた。集めなければ罰せられ、飢える。飢えの苦しみは知っている。だが、どうせ夜にはむしりとられるのだ。体の奥からすべてを。
動かず、俯いたままのジナイーダに、子どもたちは口々に囁いた。けして大きな声は出さなかった。痛いの。だいじょうぶ。…
答えずに下を向いた視界に、ぼろぼろのつま先が見えた。顔をあげると、プラチナ・ブロンドに、目が醒めるような青い瞳をした少年が、林檎をこちらへさしだしていた。心臓型のそれは、確かにジナイーダが落としたものだった。
ジナイーダは、しばらくぽかんと眼を見開いて座り込んでいた。こんな風にされたことなんて、かつて一度もなかった。落としたものを拾って、差し出されるなんて経験は。
彼は、美しいけれど、けして雲の上の王族ではなかった。まとうコートは大人用のぼろで、靴は紐で巻いて補強していても先が剥がれている。唇は栄養不足で皮膚が乾き、うっすらと滲んだ血が夢のように赤かった。林檎を持つ爪の先は割れ、白い指は砂に汚れていたけれど、それは貴い天使の像が年月によって負ったもののように思えた。彼の金と銀に輝く頭に、ジナイーダは光の輪すら見たのだ。
「あげるよ。…」
何をされても悲鳴ひとつあげないジナイーダが、初めて外で発したのは、低く、かすれた声だった。
少年は目を見開く。睫毛のふるえが、水面にきらめきを落とすように瞳の色を際立たせた。綺麗な子だ、とジナイーダは思った。綺麗な子だ、自分が見ていいとは思えないほどに。
少年は膝をつき、ジナイーダと視線をあわせた。目の高さに林檎を掲げ、ゆっくりとした手の動きで、何かを伝えようとしているのがわかった。口がきけないのか、と気づく。間近で見た丁寧な身ぶりは、鳥の羽ばたきのように見えた。
「あげる。……」
美しい眼に体の緊張を解かれてしまいそうなのを、顔を逸らして、両手を胸の前にだし、差し出される林檎を突っぱねた。
少年は少し首を傾げて、壁を作ったままのジナイーダの掌に、なにかを書いた。それはキリル文字のようだった。優しく触れられたことがないジナイーダはすっかり頭が真っ白になって、雪人形のように体が溶けて水になって、ぜんぶ流れていってしまうような気がした。
き、み、の、も、の……
間違いがある文字列を一所懸命に書いて、少年はまた、彼女の掌に林檎をそっとあてた。ひとつの果実をふたりで持つ、ふしぎな絵のような構図になった。どこかで、こんな絵を見たことがある。ふたりでひとつの、心臓のように赤い果実を……。
「わたしのものだから、だから、きみにあげる」
どう言ったらいいのかわからず、ジナイーダは弾かれたように顔をあげて叫んだ。声はかすれて、ろくに大きな声はでなかったが、路地にその声は響いた。
少年が持つ林檎を見たとき、強く何かを感じたのだった。落とした林檎は、いつも奪われるばかりで空っぽだと思っていた体から、不意に転がりでた真っ赤な心臓のように見えた。わたしのもの。わたしの林檎。わたしの心臓。それを持つ天使を見たとき、言い知れない光を見た。捧げたい、と強く感じた。何を?──魂を。この、傷だらけの魂を。
ただでさえ足りない食べ物を失って、愚かとは全く思わなかった。だが、悔しかった。たくさんの子どもたちに分け与えられるほど大きくない赤に、ジナイーダはつらくなった。もっと大きければ。自分が、もっと大きくなれれば。
また来る、と言い残し、半ば逃げるようにジナイーダは立ち上がって、まろぶように通りへ歩き出した。次の配給はいつだっけ。また次もおつかいを頼まれるはずだ。夜と引き換えに。
路地の入り口で、よろけながらジナイーダは振り返った。まだ少年はこちらを見ていた。
「ジナイーダ。……」
声がないのなら名前を教える意味もなかったかもしれないが、ジナイーダは自分の胸を指して言った。少年は、わかった、というように頷いた。
あんなに美しいものがこの世にあるなら、生きていてもいいかもしれない。
手が届かなくてもいいし、二度と会えなくてもいい。あの子がこの世にいるというだけでいいのだ。
天使はいる。信じるかぎり。
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