第4話:田舎に観光バブル1

 しかし、加藤吉宗の家の敷地が、場所的にバスの出発場所として一番良い場所

なので、山田賢一村長が、620坪のうち、道路に一番近い100坪を売って

くれと言ったので、内々に、了解した。そうして1972年の12月には、

いつも静かな、山村に、大型ダンプカーが、行き来して、プレハブ小屋がいくつも

でき工事作業員が泊まり込みで工事を続けた。道の駅の経営を加藤吉宗と息子の

末吉にやって欲しいと、山田賢一村長に、加藤吉宗が言われ了解した。


 マイクロバスの運転免許所得のために、加藤末吉と、木下康男、松下恒夫の

3人が、村の予算からマイクロバスの免許取得費用を出してもらい、近くの

自動車学校に通い出し、1973年3月には、3人とも、マイクロバスの

免許を取得した。


 その後、加藤吉宗の家の入り口の約150坪に大きなプレハブが建ち、

そこにバスの停留所と事務所が出来た。加藤吉宗には7千万円が入金された。

 そうして1973年を迎えた。その後、急ピッチで工事が進んでいった。

 1973年11月5日、加藤末吉の奥さんが気持ちが悪いと言うので、

産婦人科を受診すると妊娠と言われ1974年6月6日が予定日とわかった。

 やがて、1974年となり、1974年6月6日に無事に生まれ、

加藤美代子と命名した。1975年になると、完成予定が前倒しされて、

1977年4月完成予定となった。


 1976年9月には加藤吉宗の家の入り口に、奥相模観光という名札が着き

、停留所には、奥相模と書いてあった。1976年10月には、高尾行きの

マイクロバスが走り出し、高尾駅まで20-30分で到着した。加藤末吉と

、木下康男、松下恒夫の3人が、毎日、午前9時と午後5時着の2便を

運行を始めた。1977年になり、高速道とは、この奥相模IC以外は、

全て完成し、やがて1977年3月1日に、高速道路と奥相模ICが完成した。

 完成すると、ものめずらしさも手伝って、多くの観光客が道山村を訪れて、

土日のマイクロバスは、満席で戻ってくるようになり、50台分の駐車場と

加藤吉宗の家の庭を臨時に50台分の駐車場として用意したが、土日、

昼前に満車となった。


 村の民宿だけでは、訪れる宿泊客に応じられないので、急遽、加藤末吉と

友人の大工6人も集めて、木造2階建ての宿を、3ヶ所、8畳の洋室20室の

宿を3軒を1億円で建築した。1室2~6名定員として1部屋1万円とした。

 それでもゴールデンウイーク、4月以降10月迄の土日と7月25日~

8月25日までは予約で一杯になった。人手が足りなくで、アルバイトを

雇うほど、盛況だった。


 ベーベキュー施設も同様で、今迄、10個のバーベキュー施設が2つだった

ので、もう2つ作り、10個から15個のバーベキューセットとして、

最大60セットとなったが、野菜や肉を切り分けるスタッフがいないので、

納入業者にあらかじめ切って持ってくるようにお願いしたほどだった。

 それでも、混雑するシーズンは、全部、埋まる日が増えてきた。


 夏休みになると、林間学校をしたいと言う要望が寄せられたので、現在、

廃校になった中学校の跡地を3千万円かけて改修し、100人が泊まれる

宿泊施設を作った。そうして、林間学校や、秋のきのこ狩り、野菜、果物、

山菜、きのこの収穫体験、紅葉の見学に泊まり込みで来られる施設として

完備した。4-6月の土日、学校の夏休みの林間学校、秋の収穫体験、

紅葉見学などに、予約が入り、シーズンの土日は、予約が取れない

状態となった。


 そして、校庭にバーベキューが出来る場所を作ると、日帰りバーベキュー

の申し込みを受け付けると、春から秋のシーズンの土日や、水、木定休の

人達の利用が増えた。これらはまさに高速道路のお陰だった。都心から車で

1時間程でこられる、穴場として、旅行雑誌に取り上げられてから、

特にバーベキューは、11時~17時・春、秋、11-19時・夏、

中心に好調だった。

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