紙とペンと女刑事(飛沫痕)

村上 ガラ

第1話

  ……何て事をしてしまったんだ……。


 黒岩陽一は自分の手にべっとりとついた、妻の由香子の血を見ながら呆然と立ち尽くしていた。




 陽一は由香子と共同で一般住宅の新築やリフォームに伴う内装やインテリアコーディネートの工事を請け負う会社を経営していた。小さな規模の会社だが、由香子の営業力や経営手腕で、そこそこの利益を出していた。


 ただ陽一はその由香子の押し付けてくるやり方に辟易とする部分が無いではなかった。


 由香子は何よりまず会社を経営するうえでの利益を優先し、部材の品質を落とすこともいとわなかったが、職人気質の陽一は納得のいく材料を使い、顧客の満足度をあげたかった。


 ここ何週間も、今手がけているクライアントの物件で意見がぶつかり合っていた。


 先程のいさかいもそうだった。


 「あなたいったい何を考えているの!発注業務は私の仕事でしょう!」


 陽一が勝手に発注していた、壁紙を見つけ由香子は怒り狂った。


 「あなたの頭どうなってるのよ!小学生並みの計算もできないの!」


 温厚な陽一だったが、さすがにそこまで言われると腹が立ち、思わず由香子に手を上げてしまった。初めてのことだった。


 「なにするのよ!」


 そのことは由香子の怒りに油を注いだ形となり、由香子はデスクの上にあった設計用のペンをつかむと陽一の手の甲に突き立てた。


 元々、気の弱い陽一はいつも由香子の言いなりの生活に嫌気もさしていた。


 「何するんだ!」陽一はデスクの上にあった木材作業用の特大のカッターナイフで思わず由香子に向かっていった。






 妻の由香子を手にかけ放心していた陽一は、屋外から聞こえてきたバイクの走り去る音で我に返った。カーテンの隙間から覗のぞくと郵便配達員が走り去るところだった。まずい。今の諍いをきっと聞かれた事だろう。








 「まあ、念のためってことですよ」


 地元の警察から刑事が――女性刑事が鑑識課員を連れて陽一の家に来たのはそれから1か月後の事だった。


 「奥さんの姿が見えないってご近所の評判で。社交的な方だったようでたくさんの人が心配なさってて」


 『女性刑事』と言うと何やら期待を抱かせてしまうようで恐縮だが、申し訳なさそうな笑顔を浮かべながら黒岩の家の玄関に立っている、間村と名乗ったこの刑事は、ごく普通の、40代かと思しき『おばさん』だった。若いころはさぞや可愛かったろう、と思われる大きな瞳のタヌキ顔が、おそらく年を重ね、本当にタヌキになってしまった……とまでは言い過ぎだろうか。その顔は、『刑事』どころか『警察関係者』とも、いやそれどころか、『外で働いている女』としての切れの一つも感じられない間延びした感じが満載だった。


 そして、顔だけは小顔なのだが、その下の体は間違いなく健康診断では注意を受ける『軽肥満~肥満』の範疇だろう。近くによると意外に背が高く、そのやや太めの体つきと相まって、非常な圧迫感を以て玄関の大部分を占領していた。もう一度顔に目をやると、顔だけ別物のようにちょこんと小さい。何となくその全身像はボーリングのピンを思わせた。そして、もともとあまりおしゃれに興味がないのか、もっさりした、PTAの会合にでも着ていきそうなパンツスーツに、一応女性として身だしなみには気を使ってますよ、と主張するためのようなテキトーな感じのスカーフを首元にあしらった、大きな、だが『ごく普通』の『おばさん』と表現するしか特徴のない人物だった。


 しかも風邪でも引いているのか、鼻をぐずぐず言わせている。


 「いや、別にかまいませんよ」


 陽一は少し緊張しながらも笑顔を作って答えた。


 「それに、言い争う声や物音を聞いたという証言もあったので」


 刑事は付け加えた。陽一は思った。あの郵便屋だ、と。


 「まあ、念のため、ですから」


 刑事は少し赤い目をしながら、バッグの中をごそごそと何かをさがしているようだった。その時ポトリ、とバッグから何かが零れ落ちた。


 すかさず鑑識員が、


 「間村刑事! 臨場前に現場を荒らさないでくださいよ!」と苦い顔で言った。


 「ご、ごめんなさい」


 そう答えながら、間村が床から拾い上げたものは……小さなぬいぐるみ……もしかしたらフクロウがその原型なのではないかと思われる、キャラクターのぬいぐるみだった。


 間村は恥ずかしそうに笑いながら陽一にそれを見せ、


 「いえ、娘がね……高校生の娘がいるんですけどね、これを持って行けって。限定非売品で、プレミアもので、お守りになるからって。ご存知ですか?フクロウって『不苦労』って書くこともできるから、って縁起物なんですよ」


 そう言うと、もう一度それを見て微笑んでから大切そうにバッグにしまった。そしてまだ何か探しているようでバッグの中を覗き込んでいた。


 やがて探し物をあきらめたようで、間村は鑑識員に合図を送り、鑑識作業が始まった。


 おそらくルミノール反応を調べているのだろう。暗幕を張って液を吹き付け、ライトを当てている。


 ―――-何も出るもんか。


 陽一は心の中で毒づいた。


 ―――-この1か月間俺が何もしないでいたとでも思っているのか、この俺が。俺は内装の専門家だぞ。クロスも家具もすべて取り換えた。カーテンもだ。何もかも新品だ。何の痕跡も残っていない。由香子の遺体は絶対にばれない場所へ移し保存してある。どこかへ埋めるなんていう、発見されるリスクの高いことはしない。綺麗に消すだけだ。


 内装業をやっていると取りきれない汚れというものにもよく出くわす。そういったときに使う薬品には、恐ろしいほど強力に、何もかもなかったことに―――つまりさまざまなものを溶かして消す、という事ができる溶解剤がある。陽一は、いずれそれを使い由香子の遺体を処理するつもりだった。


 陽一の見守る中、鑑識作業は進み、やはり、何の痕跡も発見できぬまま作業は終了したようだった。


 「……いや、大変失礼しました。ご協力感謝いたします」


 間村が深々と頭を下げた。


 陽一は安堵し、


 「刑事さんも大変ですね」とねぎらう余裕ができた。


 間村はまだ、恐縮し頭をぺこぺこ下げていたが、ふと、といった風情で陽一に尋ねた。


 「ところで、その手の甲はどうされたんですか」


 間村は由香子がペンで刺した陽一の右手の甲の傷を見逃してはいなかった。


 「……ああ、これは……誤って自分で傷つけてしまって」


 間村は傷から目をそらさずに


 「まだ、新しい傷ですね。……お怪我されてから1か月ほどと言ったところかしら。かなり深いお怪我のようですが、ご自分で?」と問いかけてきた。


 陽一は、その間村の案外に鋭い指摘に再び緊張し、


 「ええ、作業中だったので、ついうっかりと。注意不足でした」


と用意していた言い訳を答えながらも、焦りを押し隠すそうと必死に平静を装った。


―――大丈夫だ。あのペンも、何もかも、もう産業廃棄物として処理されているはずだ。


 ふうん、と間村は頷き、陽一から目をそらした。


 陽一は、再び安堵し、心の中でやれやれ切り抜けたぞ、と独り言ちた。


 「ところで、申し訳ありませんが……紙を……ティッシュをおかりできませんか?」


 突然間村がそういった。


 「……ティッシュ……ですか?」


 陽一は少し驚いて答えた。


 「ええ。実は花粉症なんですが、今日、ティッシュを持ってくるの忘れちゃって……。少しで結構なのでいただけないかと。このお部屋には置いてないんですね」


 間村はくしゃみを我慢しているようで、今度は明らかに目を赤くさせていた。


 陽一は思った、そうか、さっきバッグの中をかきまわしていたのは、ポケットティッシュを探していたのか、と。


 「もちろん、お安いご用ですよ」


 もう危機は脱したのだ、と言う思いが陽一の胸に去来した。ティッシュを渡してさっさと帰ってもらおう……。そう思って隣室からティッシュの箱を持って戻ってきて、あることに気づき、陽一は愕然とした。


 陽一は思い出したのだ。このティッシュは、あの後、部屋の内装を変える前にこの部屋から出したものだった。あの後、この部屋にあったものはすべて捨てるつもりだった、いや、捨てたつもりだったが、改装前に部屋のものを室外に出していたあのとき、丁度ティッシュを手に取った瞬間に、クライアントからの電話があって、そのまま失念してしまっていた。そっと視線をティッシュの箱に落としたが表面は……何の汚れもついていなかった。何の変わりもなかった。だが、陽一は胸の動悸を覚えた。


 「どうしました?」間村は陽一に尋ねた。


 「いえ……」陽一は血の気が引いて行った。


 「それかしてくださいよ」鼻をむずむずさせた間村がティッシュの箱に手を伸ばした。間村にまじかに寄られると、男性としては小柄な陽一は、まるでビルの陰に入ったごとくに、自分の周囲が暗がりに変わったように感じた。


 陽一はティッシュの箱を握りしめた。


 「いえ、これあまり入って無い様なので、新しいのをお持ちしましょう」


 そういって陽一は踵を返そうとしたが、間村の方が早かった。


 ひったくるように、間村は陽一からティッシュの箱を奪った。


 なんでもないボックスティッシュの箱。取り出し口はほこりよけのビニールが張り付けられているティッシュの箱。その中の1枚を間村が引っ張りだした。


 赤黒いしみのついた1枚のティッシュがテーブルの上に引き出された。


 由香子の血を吸った紙。おそらくあの時、由香子の首から飛び散った血液は部屋の隅に置いていたこのティッシュの箱まで届いたのだ。飛んだ血痕はビニールの隙間から入り込み、箱の中のティッシュに落ち、染み込んだのだ。


 「鑑識さん、これ急いで調べて」


  さっきまでとは打って変わった、力のこもった間村の声が響いた。


 そして続けて言った。


 「血液一滴からでも、いろいろなことが分かるんですよ。まず誰のものか。そして静脈のものか、動脈のものか。これが万一頸動脈からの出血なら……そう、もしこの位置であなたが……仮に奥さんの頸動脈を切りつけたと仮定するなら」


 間村はそこでいったん言葉を切り、薄い笑みを浮かべながら天井の一角を指さし言った。


 「天井近くまで飛び散っているはず。波打つ弧を描きながら。そうあのあたり」


 その間村の横顔はさっきまでの”さえないおばさん”は影をひそめ、何やら取りつかれたような狂気を思わせた。


 そしてとどめに間村は言った。


 「張り替えたクロスの下に痕跡が残っているはず」


 陽一はその場にへたり込み、


 「もう少しだったのに……」とうめき声ともつかぬ声を挙げた。


 間村はそんな陽一を鼻をすすりながら見下ろした。まるでそびえたつビルのように。


 「おかしいと思ったのよね、このリビング。生活感がないんだもの。普通どこかに置くでしょう、紙」


と言い、もう我慢できない、と言った様子でポケットから「セレブライフ」と書かれた、“柔らかティッシュ”を取り出すと盛大に音を立てて鼻をかんだ。


 途端に鑑識員から、怒声が飛んだ。


 「間村さん! 現場を荒らすなって言ったでしょう! 外に行ってやってくださいよ!」






 

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紙とペンと女刑事(飛沫痕) 村上 ガラ @garamurakami

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