ユメの猫

ならさき

ユメの猫

「ネコになったらどこに行きたい?」


 「はぁ」と聞く気のないため息をつきながら、手に取っていた箸をテーブルに置いた。

「どうしたんだ急に?家事が面倒になったとか?」

 私の妻はいつもそうだ。いつもよくわからない話ばかり問いかけてくる。一昨日の夜はひたすらハツカネズミの生態について聞かされたもんだ。

「あのな、サヤ。仕事で疲れている夫にそんな突拍子もない話題をふっても、それこそ何も出てこないってもんさ。良かったな僕で。普通の旦那だったらもう口聞いてもらえないかもしれないぞ?」

 「そんなことないわよ。」と一言返事を返すと、サヤは食器をカチャカチャと片付けはじめる。私の普段の一日は、終わりを告げようとしていた。


 深夜だった。私は床につくと、いつもよりも深い眠りへと入っていった。ベッドに吸い付かれる感覚に陥る。隣からは妻の寝息が聞こえた。

 その日は珍しく夢を見た。それは、ネコになる夢だった。少しみすぼらしいトラ柄の野良猫だ。私は短い四足をせっせと動かして、見下ろしてくる人間を尻目に道を闊歩していた。普段いそいそ会社へと向かう普段の私の足取りと、痛烈な差があった。それがたまらなく気持ちよかった。

 目を覚ますと、朝ごはんのいい匂いが漂っていた。キッチンで妻がニコリと笑っている。

「どうしたのあなた、楽しい夢でも見れた?」

「どうしてだい?」と聞き返すと、

「だってあなたの口元のニヤけた寝顔、面白かったんだもの。」

と言われた。

 そうか、普段私はそんなに疲れた寝顔をしていたのか。そんなことを思いながら、また重い足を上げて会社へと向かった。

 その晩も、またあくる晩も、私はネコになる夢を見た。日を重ねてくごとに、私は不思議に思った。思えば、妻がネコの話をしてからの出来事だった。

 普段と変わらずサヤは食器を洗い始める。シンクに弾かれる水の音は、どこか切なげだった。

「サヤ、ネコの話を覚えてるかい?あの夜の日の話だけど。」

「ええ、覚えてる。『ネコになったらどこに行きたい?』でしょ。」

「ああ、そうだ。あの日僕は答えられなかった。けれど最近よくネコの夢を見るんだ。僕がネコになって、色んな街の景色を見て、自由に歩いてく。そして色んなとこに行って、気がついたんだ。僕はネコになったら、きっと君のそばに戻ってくる。君の服の日差し心地いい匂いを嗅ぎながら、君の膝元に座るんだ。」

 そう答えると、サヤはふふっと笑った。

「どうした?僕らしいかい?」

「いいえ、違うの。あの日私は全く同じことを考えてたの。私もネコになったらあなたのそばにずっといたい。あなたの膝に頬をすりながら、のんびり座ってたい、ってね。私は寂しかったのかもしれない。ずっと愛情が欲しかったのかもしれない。ただ、あなたに振り向いて欲しかっただけなのかもしれない。」

 妻は再び食器を洗い始めた。しかし、先程とは見違えるくらい、妻の背中は嬉しそうだった。


 その晩も夢の私はネコであった。その時、ふと思いつく。

「この世界の妻は何をしているのだろう?」

 私はずっと妻と見てきたまちの景色へ、短い足で歩き始める。

 すると、1匹の見知らぬ黒い猫が私の向かいの道路を通り過ぎた。不思議と知っている面影があった。

 私はその時直感でわかったのだ。

「サヤだ…あれはサヤだ!!」

 私は必死で鳴くと黒猫は振り向いた。嬉しそうに尻尾を横振りしながら、駆け足で道路を横断してくる。


 それは突然にやってきた。


 1台の白いワゴンが、黒猫を跳ねていった。


 立ちすくんだ。動けなかった。

 これは夢だ。これは夢なんだ。私の作りだした世界。現実じゃない。だから頼む。頼むから……

 元の世界へ帰してくれ


 勢いよくベッドから起き上がると、隣の妻から寝息が聞こえる。珍しく、妻が早起きをしなかった。その額にはダラダラと汗をかいていた。

「……苦しかったろう、今はゆっくりおやすみ。」

 私はサヤの額にキスをしたあと、会社へ向かうべく玄関を出た。日常が帰ってきたのだ。


 今日はいつもよりも日差しが強かった。つんざくような光は、先程の未練を残すようだった。

 今朝のことが相当きてしまっていたのか、何も考えられずにいた。何となく目を落とすと、ふと入ってきたのは黒い猫だった。

 とても嫌な予感がした。それは夢の中の妻にそっくりだった。

「やめてくれ。」

 反対車線には、必死で声を上げるトラ柄の野良猫の姿があった。


「あれは、僕だ。何も知らず必死で妻を求めようとした、醜い僕だ。」


 夢で足が止まったことに、突然とめどない嫌気を感じた。

 鳴いてるだけなんだろう。ただお前はそうしているだけなんだろう。

 不思議と向かってくるワゴン車は怖くなかった。気づいたら道路の真ん中に体が飛び出していた。


 バンという音に合わせて真紅の血が舞った。黒い猫が悲しそうな表情を浮かべてたのが見えた。そして、気は遠くなっていった。


 すきま風の入る部屋。

 サヤは目を覚ましたあと、ゆっくりと涙が頬をつたった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ユメの猫 ならさき @Furameru

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る