第18話 決壊(または女達の顔)

 どうして此処に来たいだなんて思ってしまってんだろう。愛花は真由の背中を見ながら思った。

 そうだ、この女が困ればいいと思ったし、息子が無様な状態であるなら見てやろうと思ったから。

 ピーンポーン。

 オートロックのエントランスでインターフォンを鳴らす。

「あ、サチ君!いるのね!よかったわあ」

 同時に自動ドアが解錠される。

「え?おふくろ?」

「あら、もう開いた。みかりちゃんママも一緒よ、行くわね」

 この女は、困ってなんかいない。それどころか。

「さ、行きましょう。ああよかった、サチ君元気そうで」

 ねえ、みいちゃん…どうしてあの男とこの女を選んだの?


「あ、みかり。宅配のお兄さんかと思っちゃったよ。開けちゃった」

「うん?」

「なんかさあ、俺ままとみかりまま。一緒に来るってさ」

 ピーンポーン。またエントランスの?

「あれ?下のドア開かなかったかな?…はーい。あ、今度こそ、お兄さん。ハイ、開けますね」

「お部屋、汚いねえ。ままたち怒るかもねえ」

 足裏がじゃりじゃりとする。外で話でもするかな。ファミレス、ちょっと歩くけど…。

 ピンッポー。あ、これこれドア前だ。仕方ないな。


 別に部屋の中で死んでいればいいなんて、酷いことは思っていない。

 だけど不幸になっていてほしい。私はその姿を見たかったのに。そうしたら精一杯慰めてあげるのに。そう、大事な大事なみいちゃんを無くした同志として支えあうことだってできるかもしれないのに。

 普通のインターフォン対応、どういう事?もうみいちゃんの事なんてどうでもいいの?嫌だ。元気な姿なんて見たくもない。

「ああ、早かったね。おふくろ…みかりまま…ごめんね、散らかってって」

 もう涙が出そうなのを堪える。そうね、そうよね。休日の一人暮らしの男、なんて、こんな感じでしょうね。ぼさぼさの頭、スウェット、雑然とした部屋。そりゃあ少し痩せたかも知れないが大した事ないじゃあないの。死ぬほどには程遠い。

「ちょっと外出る準備するよ…」

「そうね、そうね。急だったもんね。でも心配だったのよ、電話も通じなくなっちゃっうし」

 男は足の裏をパッパッと払う。ひどい部屋。掃除もせずに。あなただけのお家じゃないのよ?そしておもむろにそばにあった布で足裏を拭う。

 え?それ…

「ちょっと!サチ君!それ、みいのワンピースでしょ!何してるのよ!汚い汚い汚い!何なのよ!アンタたち!何なのよ!」

 もう嫌!嫌!ワンピースを掴み、エレベーターへ向かう。

「え?みかりまま…」

 男の声、女の視線、それらを浴びている自分の背中さえ汚らしい気がしてくる。もう嫌。

 エレベーターが下に着くと、乗り込もうとしてきた宅配の男と目が合う。男のぎょっとした顔が目に焼き付く。

 そりゃあ急に鬼の形相で号泣したオバちゃんが出てきたらびっくりするわよねぇ、ごめんねぇ。くくくっ。笑えて来る。あは、あはは。嫌だ、こんな笑い方、お葬式のサチ君みたいじゃない。嫌だ、憎い。あは、ははは。でも止まらない。愛花は泣きながら、怒りながら、笑っている。膜のように顔を覆う涙、鼻水、汗、化粧…ワンピースで乱暴に顔を拭うとそのままそれをエントランスのゴミ箱に投げ込んだ。



「…みかりままも疲れているのよねえ」

 当たり前のように部屋に上がり込む。

「さてと!お掃除とお洗濯、美味しいもの作ってあげるわ」

「…あー…いやそんな…いいんだけど…」

 真由はまっすぐに寝室を開ける。こんな大きいベッド、いやらしい…。

(あ、みかり)

「いいって言ってんだろ?」

 思っていたより強い声が出る。

「え?」

 その時振り向いたおふくろの顔がみかりを突き落とした女の顔に重なって俺は悲鳴を飲みこむと同時にその顔の真ん中に拳を叩き込んだ。

女がどんな顔だったかなんて覚えていない。でもこれはあの女だ。あの女の顔だ。このまま殴り続ければおふくろの顔に戻るのだろうか?俺は暴力的な喧嘩なんてしたことないけどなるほど、殴るほうも痛いってこういう事かとか、今の感じは何か良かったな、上手く入った?っていうか、あ、そうそう親指はこうしておかないとこっちの骨がどうこうってあるんだったよな。でも何発殴っても殴り続けてもおふくろの顔には戻らなかったし、うんそうだね、血だらけでそもそも顔なのかもよく分からないもんな。

 妙に納得したころにチャイムが鳴っているのに気付いた。

 あ、宅配のお兄さん。


「あれ?お兄さん、今日は?」

 いつものロゴが入った段ボールではない。

「あ、ハイ、えっと」

 中で中年の女性が血だらけの顔で倒れているのが見えた。

 エレベーターから飛び出してきた女性と同じ年代くらい…何か関係があるのだろうか?

「あ!荷物ってこれかあ!サンキュ。ごめんね。ちょっと今、親子喧嘩。もう終わり。気にしないで」

 無意識に配達員コマダはいつもの動作、ボールペンを差し出し、サインをもらい…

「じゃ、またよろしく」

 バタン。目の前でドアが閉まる。

 …これは警察に電話する案件?親子喧嘩?

 ここに来るのは今週3度目だ。毎度エレベーターを待つ間見るともなしに送り状を見る。水、レトルト食品、日用品。

 一度に注文しろよと思いつつ。

 そこそこ女にもてていい仕事してそうなのに、きっと最近クビにでもなっていつも家にいるんだろう。同棲してた女も出ていったのかもな。ざまあみろ。

 配達の度にドアの隙間から見える部屋が日に日に汚れ、男がくたびれていくのが小気味よかった。

 だけどなあ…俺がこんなに汗かいて働いてんのになあ。それでも生活できるっていいよなあ。ああいう感じの奴はまあすぐ立ち直ってしかも前よりいい仕事とか女を当然のように手に入れて生きていくんだろうなあ。

 …電話、するべきだろうか?

 まあ。また2.3日たてば配達で来るかな。うん。きっとそうだ。

 そして妙な配達物の事は忘れた。


 この子は誰だろう?

 サチ君?わたしを殴った?顔が熱い。スカートに血が垂れている。いやだ、あの血みたいで恥ずかしい。

 サチ君が?こんなことする?嘘。誰これ?

 みかり…そうね、みかりちゃんのせいね。

「ご飯作るわ…何食べたい?材料買ってくるね」

「…」

 部屋の外に出てホッとする。

 えーっととりあえず顔直して…ああ、スカート…バッグで隠そう…

 ぼんやりしている間にエレベーターに乗り、外に出ていた。

 どちらへ向かおうか途方に暮れた。

 右か左か、それだけの選択に疲労を感じ座り込みたくなった。

 大きな宅配のトラックが通り過ぎる…がバックしてくるのを何だろうと見ていると降りてきた男が何かを言っている。私に向かって?顔の真ん中が熱くて重い。

「すみません、さっき、やっぱり、でもよかった。救急、呼びましたので」

 ああ、さっき部屋の前から匿名で電話しときゃあ良かったな。配達遅れちゃうよな。俺ってそういうとっさの判断がだめだよな。

 エントランスの階段に女を座らせて、空を見上げた。

 ひこうき雲。

 コマダはその軌跡を目で追う。

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