「また会いに来たよ」

卯月

青年と人魚

「やあ、また会いに来たよ」

 青年は、分厚いガラス越しに話しかけた。

 大きな水槽の中で泳ぐ人魚が、彼の来訪に気づき、ガラス近くの岩場に上がってくる。美しい顔に笑みを浮かべ、水に濡れた唇を開いてぱくぱくと動かすが、声は全く聞こえない。

 だから、彼の言葉も、彼女には届いていないのだろう。


 水槽の前に立つたび、青年は複雑な気分になる。

 長く豊かな黒髪が絡みつく、すべらかな白い肌。青緑色にぬらぬらと光る鱗も、はしばみ色に輝く瞳も、まるで宝石のようだ。

 彼女が、未知の生物を研究するこの研究所にいるからこそ、容易に何度も会いに来られるのではあるが……こんなに美しく無垢な生き物を、本来の居場所から引き離して閉じ込めるのは、間違っているのではないか。そう、考えてしまうのだ。

 人魚は岩に腰かけ、身体を軽く揺らしながら、楽しそうに口を動かしている。きっと、歌っているのだろう。青年は呟く。

「ああ……一度でいい。君の歌を、聴いてみたいな」


   ◆


「やあ、坊ちゃんはまた来てるのかね」

 遠隔投影魔法で水槽の様子が映し出された研究室に、所長が入ってきた。青年は所員ではないが、父親が研究所のパトロンであるため、出入りを容認されているのだ。

 人魚を監視していた所員が、報告する。

「はい。『君の歌を聴きたい』と言っていました」

「――それは問題だな。無理だとは思うが、勝手に水槽に侵入されないよう、警備レベルを上げるか」

 所長は、空間に映された人魚に目をやる。研究室に響く歌声には、意味のある言葉らしきものは特にないが、ひたすら美しい。

「容姿に惑わされがちだが、あれは恐ろしい生物だ。歌声を直接耳にした人間を発狂させ、海に飛び込ませて捕食する」

 研究者たちが聞くのは、防御魔法を通過させ、呪力を軽減した歌声だ。

「意思疎通ができるような知能もないしな。坊ちゃんのことなど、美味そうな餌としか思っておらんよ」


 映像の中の人魚が、小さく舌なめずりをした。



〈了〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

「また会いに来たよ」 卯月 @auduki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ