第3話 サクラの花びら抱きしめて…
奇しくも、ちょうど今年が10年目にあたる。そして高志の書いた4月18日は約1カ月後。寧々の22回目の誕生日。そして、昨日のテレビで今日あたりが桜の満開と伝えていた。あの校庭の桜の花びらを取りにいかなくては…。
急いで支度をして部屋を出る。電車を乗り継ぎ、中野駅で降りておよそ20分歩くと10年前と何も変わらぬ懐かしい校舎が透明な陽光の中に見えてきた。そして、金網ごしに学校で一番大きな桜の木が今まさに咲き誇っていた。青春手前の多感な時期に出会った一人の男の子の姿が、はっきりと頭の中に浮かんだ。その時、一陣の風が吹き花びらが舞った。寧々は手を広げ花びらを受け取ろうとした。何回か試みてようやく一枚の花びらを捉えることができた。用意してきたまっさらな封筒の中に入れて自宅へと戻った。
4月18日。浅い春の空は抜けるように青かった。寧々は自分の部屋で大きな深呼吸をひとつしてから家を出た。どんな服装で行こうかと考えたが、着飾るよりも普段のままの自分を見てもらいたいと、いつも学校に行く時と同様、ブラックスキニーにデニムジャケット、インナーはホワイトカットソーというカジュアルな恰好にした。再び母校の小学校を目指す。
すでに桜の木に花はなかったが、先日持ち帰った花びらを入れた封筒がバックの中にある。高志は桜の木の下と書いたが、今学校は防犯上の理由から校庭内には入れない。ただ、学校のシンボルでもあった一番大きな桜の木は今も悠然と寧々を迎えてくれた。約束の時間より早く着いた寧々は、桜の木を背にして待つことにした。
高志は来るのだろうか。おばあちゃんの家で高志のあのメモを見た時、寧々は高志が必ず現れると思ってしまったが、今になって急に不安になった。自分がすっかり忘れていたように、高志も忘れ去っているかもしれないのである。
時計を見ると、約束の午後2時を5分過ぎていた。
『やっぱり来ない』
心の中で帰る準備を始めた時だった。一人の男性が美しい大気の中をゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。寧々はじっとその人を見つめた。その姿が次第に大きくなってくるにつれ、顔がはっきりわかるようになってきた。人生で一番成長する時期に会っていなかったのだから、それが高志であるとは断定できなかった。でも、微かに面影があるようにも見える…。『高志君…』と心の中で叫ぶ。先方の男性も寧々をしっかりととらえた。薄い笑顔を見せ、軽く頭を下げた。
「どうもお待たせしました。浜口寧々さんですよね」
「ええ、そうです」
「やっぱり来てくれたんですね」
まっすぐ寧々を見つめながら言った。けれど、そこに笑顔はなかった。
「高志君…?」
寧々は必死の思いで言った。
「ごめんなさい。高志の兄の亮二と言います」
その瞬間、寧々は全身の力が抜けるように感じた。やはり、自分の思い込みだったのだ。
「高志君は?」
「二か月前に癌で亡くなりました」
「そんな…」
喉の奥からかろうじて出たかすれた声。寧々は両手で顔を覆った。
「大丈夫ですか」
「………」
言葉にならなかった。胸の奥が痛むような音がする。
「辛い思いをさせてごめんなさい。お話ししたいことがあるので、近くの公園まで一緒に来ていただけますか?」
学校の近くに公園があることは寧々も知っていた。というか、寧々と高志もよく遊びに行っていた場所だ。二人とも無言で移動する。
「ここでいいですか?」
亮二がベンチを指す。
「はい」
横に座った亮二が鞄の中から封筒を取り出した。
「この中に弟の写真が入っています。約二年前のまだ元気だった頃に撮ったものです」
封筒を受け取った寧々は震える手で写真を取り出した。そこには日焼けしたたくましい姿の高志が写っていた。やんちゃな顔をしていた小学生の男の子が、きりっとした凛々しんイケメンの男性になっていた。
「高志君、かっこよくなってる…」
「そう言っていただけると弟も喜ぶと思います。その頃はまさか弟が癌になるなんて誰も想像していませんでした…」
湿り気を帯びた亮二の声を聞き、寧々も泣きそうになったが必死にこらえた。
「ごめんなさい。つい思い出してしまったものですから。それから、このブローチをあなたに渡してほしいと、弟から預かりました」
亮二が寧々に差し出したのは桜の花びらの形をしたブローチだった。二か月前に亡くなった高志には、今年の桜の花びらを持ってくることはできなかった。だから、これを用意したのだろう。寧々は、そのブローチを亮二から受け取り両手で握りしめる。指先から彼の温もりが伝わってくるようだった。寧々は、幸せと哀しみを同時に味わっていた。
「嬉しい…」
「喜んでいただけて良かったです」
「お兄さん、ひとつだけお聞きしたいんですけど、高志君は今日のことをずっと覚えていたのでしょうか」
「ええ、もちろん覚えていました。僕がそのことを知ったのは最近ですけど」
「そうだったんですか」
「弟はそれなりにモテましたから、女の子のほうから結構アプローチされていました。だけど、誰とも付き合っている様子はありませんでした。ですから、僕や両親は弟が女性に関心がないのではないかと心配したほどです」
高志は一途に自分のことを思い続けてくれていた。それなのに、自分はすっかり忘れていたのだ。
「でも、弟は癌になって余命半年と宣告を受けた時、すべてを僕に話してくれました。自分には小学校の時にずっと大好きだった人がいる。その人に10年後も好きでいると約束した。そして、その証として10年後に小学校の校庭にある一番大きな桜の木の下で再会することになっていると」
景色がゆっくり歪む。ずっと我慢していた涙が、寧々の目から流れた。
「今日この場所に来るべきか僕は悩みました。もしあなたが来て、弟のことを知ったら辛い思いをさせてしまうだけになるのではないかと。でも、弟は、あなたが来ようと来まいと必ずこの場所に来たでしょう。弟はそんなヤツです。だから、そんな弟の強い思いに応えるために、僕はここへやって来ました。ただ、本当のことを言えば、あなたがこの場所に来ないことを願っていました。弟の思いは僕がここへ来るだけで達成されると思ったからです。それなのに、あなたはいらっしゃった。さすが弟が大好きになった人です。本当にありがとう。弟に代わってお礼申し上げます。でも、どうかその思いは今日で終わりにしてください。今となっては弟もそう願っているはずです」
「無理です。できません。私は高志君が私に約束してくれた思いの深さに、つい先日気づきました。だから今日ここにもし高志君が来てくれたら、私は高志君と思いをひとつにすると決めたんです。そして、高志君は約束どおり来てくれました」
寧々は高志の写真とブローチを胸に抱きしめて言った。
「だから、今日で終わりになんてできません」
「辛いですね…。今は無理かもしれませんが、いつか時間が解決してくれると思います。あたのためにもそうあってほしいと思います」
寧々には亮二の言葉がどこか遠くのほうから聞こえてくるようだった。
「お兄さん、お願いがあります」
そう言うと、寧々はバッグの中から封筒を取り出した。
「この中に桜の花びらが入っています。それを高志君の仏壇に供えていただけませんか」
「わかりました」
自分はまだ公園に残るからと言って、そこで亮二とは別れた。寧々には一人になる時間が必要だった。
先ほど高志の兄は今日で終わりにしてくださいと言った。確かに高志がいなくなった今、自分の恋はここで終わりにすべきなのかもしれない。でも、さっき高志の自分に対する思いを聞いて、高志との本当の恋は今日から始まるのだと寧々は思ったのだ。高志が10年間私のことを想い続けてくれたように、これからの10年間は私が高志を想い続ける。そこで初めて二人の恋は成就する。恋が終わる。
「高志君、それでいいよね。その後は私も新しい恋をするかもしれないけど、その時は許してね」
サクラの花びら抱きしめて… シュート @shuzou
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