ペンと血と

@con

第1話

 入院中の父の見舞いに行き、帰りぎわに何か持ってきて欲しいものはあるかと尋ねたところ、紙とペンを持ってきてくれないかといわれた。

「毎日、暇でしかたがなくてよ。窓からの景色でもスケッチしてれば気がまぎれると思うが」

 次の見舞いのとき、私は鉛筆、油性と水性のボールペン、万年筆、A4レポート用紙の罫線ありなしの二種類、大学ノートを買って父のところへ持っていった。

「なーん、こんなにはいらなかったのに」

 憎まれ口を叩いた父の表情は、しかしながらあからさまにうれしそうで、「匡はいつも用意周到だったからなぁ」と付け足したりしていた。

 私が知る限りでは父はスケッチのような芸術方面の趣味を持ってはいないはずであった。だからたぶん本当は日記とかメモとかを書くつもりに違いなかったのだが、自らの行為を宣言することへの気恥ずかしさに対する韜晦だったのかもしれない。


 父は高校を卒業してすぐに地元の役場に就職して、そこで母と出会い、それから数十年にわたって少なくとも子の私から見れば良くも悪くも特筆するような出来事もなく仕事を全うした。最後の数年、部長かその手前ぐらいの役職になっていたようだが、父は自分の仕事のことを私に話すことはなかったので、私からも積極的に聞き出すことはなかった。それに、身近なことはその気になればいつでも確認できるという感覚もあった。

 数年前に母が死んだ。母と最後にあったのは死の数か月前で、そのときは心身ともに元気そうに見えたのだが、脳の出血だとかで唐突に亡くなった。それから父は広くなった一軒家でずっと一人の生活を続けていた。何度か私のマンションに一緒に住もうと誘ったのだが、父はかたくなに自身の家と地元を選んだ。年に数回の帰省のときに、父の様子をさりげなく観察してみた限りでは、父の人生は新聞とテレビとラジオと散歩と週刊誌で完結しているように見え、それなりに余生をたのしんでいるように思えた。


 父は肝臓を患って入院していた。長年にわたる宿痾がいよいよというところまで来たという結末だった。父の肝臓について、父は仕事を退職してからは滅多に酒を呑まなくなっており、それは仕事上のつきあいとかストレスから解放されたものだとばかり思っていたのだが、あるときに当時まだ生きていた母から「お父さんは肝炎なんだよ。しかもかなり進行してる」と教えられた。そういうことも、父は家族にあまり話したがらない人だった。


「何か食べたいものとかあれば次に来るとき持ってくるよ」

「匡が好きなものでいいが」

「もうすぐこどもの日だし、柏餅とか食べる?」

 しかし父はもう普通の食べものはほとんど口にしなくなっていた。医者は「アルコール以外なら食べすぎない限りはこの際まあいいでしょう」といっていたが、私があれこれ買ってきて勧めても「いいから匡が食べんね」というだけであった。

 次のときに地元で老舗の和菓子屋で買った柏餅を持っていったが、果たして父は食べなくてもいいといった。

「お父さんの分も匡が食べればいいが」

 父は意識はまだはっきりしていたので、私のことを小さな子供のように扱って、私にたくさん食べさせたいというわけでもないようだった。私がものを食べているところをただ眺めて過ごしたいように感じられた。


 去年の秋、父の数日後の入院をひかえた日、実家から隣の県へ二人で日帰りの旅行に出かけた。二人で遠出するのも最後になるかもしれないと、口には出さなかったが私たちはお互い確信していた。

 私たちは観光名所として有名な神社を訪れた。むかし、私がまだ小学生のころに家族三人でも来たことがある場所だった。父は「前に来たときはあっちの方に車を停めたかねぇ」なんてことをいっていた。駐車場から神社まで一キロメートルぐらいの道のりを歩きながら、父は平素と変わらずあまりしゃべらなかった。舗装された平地でも歩くことが辛そうに見えた。私も特別な話題は思いつかず、父がひいきにしているプロ野球チームのことなどを話したりした。

 神社は私の古い記憶の中にある風景よりもずいぶんと世間擦れしていて、由縁やご利益が疑わしい軽薄そうなおみくじや願掛けの仕掛けがたくさん用意してあった。

 その中に、願い事を書いた人型の紙を水が入ったかめの中に沈めて、紙がかめの底に沈む前に溶け切れば願い事が成就するというやつがあった。私はそれをやってみたいというわけでもなく、こういうのはだれがどういう根拠で思いつくのだろうと意地の悪い目で品定めをしていた。

「匡、せっかくだからそれやろうか」

 私の意図を知ってか知らずか、父は私に二人分の料金の小銭を渡してきた。私は料金箱にお金を入れて、そのすぐ隣りに備えつけられた引き出しにしまってある薄い紙を二枚取り出し、一枚を父に渡した。私たちはそれぞれ少し離れたところで紙に願い事をしたためた。

 私は「父の病気が良くなりますように」と月並みなことを書いた。私たちは無力だった。私が書き終わっても父はまだ鉛筆を動かしていた。別段、父の願い事をのぞきこむつもりもなかったのだが、ちらっと視界に入ったところによれば「匡の仕事がうまくいきますようご先祖様みんなで……」というようなことが書いてあった。

 私たちはそれぞれの願い事を書いた紙を水の中に沈めた。二枚の紙は水に浸かるとすぐに透明になり、半分の深さも沈まないうちに水の中へ紛れて消えていった。

「匡は何をお願いした」

「お父さんの病気が良くなるようにって」

「そんならお父さんとおんなじだ。二人がかりだから、きっとかなうが。元気になったらまた来ようね」

 それからまもなく父は入院した。


 父は私が持っていったペンと大学ノートをベッドのすぐ横の棚にいつも置いていた。購入時からそれほど日も経っていないのに表紙の厚紙がたわんでいることから、随分と使い込んでいるように思えた。父は大学ノートの中身を私に見せたいといわなければ、見たいか尋ねることもなかった。そのうち聞いてみようと漠然とした思いを抱えたまま時間が過ぎていった。

 夏に入り、父の容態は素人目にも悪くなってきていた。見てすぐにわかるぐらい目が黄色くなっていた。医者の説明によれば、父は三十八度以上の熱とうっすらとした吐き気を常に抱えているとのことで、今後はいままで以上にできる限りのことをしてあげてくださいと宣告された。私が見舞いに来る日、父は朝から熱さましと頭痛薬を飲んでいるということも告げられた。父は普段はほとんど横になって目をつぶっているばかりで、時々体を起こして大学ノートに何かを書いているらしかった。


 お盆よりは前の日だったと思うが、夕方、あるいはもう暗くなっていたので幾分遅い時間だったか、父が危篤状態にあるとの連絡が病院から来た。私は急いで病院に向かった。新幹線の車内で父と母との断片的なエピソードを思い出したり、葬儀やそれに関連する手続きのわずらわしさに辟易したりした。窓の外は真っ暗で街灯や車のヘッドライトといった光点が目に入っては一瞬で通り過ぎていった。

 私は受付で父の名前を早口でまくし立てた。もう顔なじみになっていた受付の事務員は私の姿を見るなり私が向かうべき場所を直ちに教えて、返す刀で「○○さんのお子さんがお見えになりました」と内線でどこかに告げた。

 父はまだかろうじて生きていた。死んではいなかった。しかし既に意識はなかった。呼びかけて、手を握ったらたちまち目を覚ますような奇跡をほんのかすかに期待したがもちろんそんなことは起こらなかった。父からはもうなんの反応も返ってこなかった。

 握り締めた父の手は思いのほか冷たかった。こういうふうに父の手を握ったのはいつ以来だったのか、もうはるか遠くに離れて思い出せなかった。私たちは二人ともいつのまにか歳を取って大人になって老いていた。父にできることを私はもう何も思いつかなかった。

 その晩、父は息を引き取った。


 明くる日、私は病院に行っていろいろな書類にサインをしたり同意をしたりお金を払ったりした。それから父が最後を過ごしたところに行って、持って帰るものを整理した。着替えや身の回り品をキャリーケースにつめていると、看護師がビニール袋を持って私のところにやってきた。

 中には父のそばでよく見かけていた大学ノートが入っていた。最期の瞬間、父はノートに何かを書いているときに盛大に血を吐いてそのまま意識不明となったそうである。それで、ノートは血で染まっていた。看護師は「こちらで処分することもできますが」といったが持って帰ることにした。

 私はいまだにノートの中身をいろいろな理由を作って確認できずにいる。恨み言や秘密の暴露、不実の告白とか、私へのとっておきの遺言がしたためられているわけではないのだろう。案外、本当にスケッチが描いてあったりするのかもしれない。単なる日記かもしれないし、母や私に対する何かの言葉なのかもしれない。私にはよくわからなかった。思えば父と母の馴れ初めもついぞ聞けなかった。ただ、あの日、父が紙に書いて溶かした願い事を少しでもかなえられていればいいのだが――。

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