三日目 下北沢(1)
リリリリ・・・と電話の鳴る音がして目が覚めた。
電話に出ると「オハヨウゴザイマス――オハヨウゴザイマス――」と人工的な声が告げた。今日はモーニングコールで起きられたようだ。
一階のレストランでやっている、ホテルの無料の朝食も、とることができた。セルフサービスのコーヒーを入れ、朝のワイドショーを見ながらトーストを食べる。
下北沢には十一時頃に着いた。まだ早いと思ったが、弟にメールする。
[いま下北沢に着いた、昼間までぶらぶらしているわ]
暖かくて、ダウンジャケットを脱いで手に持った。ダウンの下にパーカーを着ていた。今日はパーカーだけで過ごせそうだ。
弟を待つ間、服屋とか、雑貨屋などに適当に入って過ごした。下北沢は、なんだか居心地が良かった。道幅が狭くて、古い建物が多く、都会なんだけど威圧感が無い。
途中ネットカフェの看板を見かけて、あとで寄ろうと決めた。もうすぐ午後一時というころで、弟からメールの返信があった。
[もうすぐ着く。駅前にいて]
*
「いよお、ひさしぶり」
改札口を出たところで待っていると、弟が来た。
ジーンズに長袖の黒いTシャツという格好をしている。弟は僕と違って、とても体格が良い。Tシャツはこんもりと盛り上がり、見様によってはレスラーのようだ。
だが実際のところ、筋肉のように盛り上がっているそれは、ほとんどが脂肪だった。弟は筋肉のような感じで、こんもりと脂肪が付く体質なのだ。
「どっかでメシでも食おうよ、どっか店知ってるか?」
「ああ、そこ少し行った所の店、わりとうまいよ。タイ料理だったかな?」
「おお、じゃそこ行こう」
「今日はおごり?」
「うん、おごり」
「やった。ごちそうさま」
タイ料理店は、薄暗い間接照明の店内に、細かい雑貨や彫刻の置物が、壁やテーブルのいたるところに置かれ、まるで雑貨屋のような雰囲気だった。お洒落といえばお洒落なのかもしれない。店内の八割は女性客だ。
「でかい荷物だね、ホテルに預ければいいのに」
「いや、今日は宿泊しないから」
「え?そうなの」
「友達のクラブイベントに行くから。たぶん夜中いると思う」
「へーそうなんだ。そんな友達が、居たんだな。クラブとか」
「まあ、友達って言うか、知り合いだね」
店員の女の子がメニューを持ってきた。
「トムヤムクンとか好き?」
「いいや」トムヤムクンは嫌いだ。あれを飲むと舌が麻痺する。
「俺はトムヤムクンにするよ。兄ちゃんは、これとか良いんじゃない?」
弟はメニューを指差した。
「どんな味?」
「うーん、カレーのラーメンみたいな?でも食べやすいと思うよ」
「そうか」弟の味覚は信頼できる。僕はそのカレーのラーメンを頼んだ。
「なんか変な気分だな、東京で兄ちゃんに会うと」
「まあ、連休がとれたから、東京に行ってみようと思ってな」
「そうか。いま仕事は何やってんの?工場だっけ?」
「まあな」
「よく休みとれたな」
「工場は福利厚生が良いからな」
「フクリコウセイって何だよ」
「まあ、休みがちゃんともらえたり、休みが多かったりすることだ」
「ふうん」
弟は元気そうだった。最近はあまり九州にも帰ってこなかったので、会うのは一年ぶり位だ。大学生活の話を聞くと、意外にもちゃんと授業に出て、単位取得も順調らしい。
料理が運ばれてきた。
「よくそんなの飲めるな」弟がトムヤムクンのスープを飲む。
「ああ、最初はちょっと・・って思ったけど、けっこう最近はうまいって思えるようになった」
自分のところにはカレーの中に麺が入った料理が運ばれてきた。食べてみると、確かに美味しい。
僕と弟は人間のタイプが全く似ていない。弟は自然とまわりに人が集まってくる人間で、とても友達が多い。地元にいたころ、友達のいなかった僕は、まだ高校生だった弟と買い物に行ったり、カラオケに行ったりしていた。そして人づきあいについてよく、弟に相談していた。
食べながら、なんとなく昔の習慣で、僕はいろいろと相談した。
自分は今まで色々と努力してきたと思うが、幸せを感じられない、というような事を話した。周りの人は彼女ができたり、就職できたりしているのに、と。
話をしている間、弟はせわしなく食べたり飲んだりしながら聞いていた。
「わかんねえよ、そんなの」弟は言った。
「そういう奴らだって、影ですごい努力しているのかもしれないし。努力って言うのは、人それぞれだからな」
「実際たいして何にもやってねえのに、すげえ頑張ってるって言う奴もいるし。逆に、頑張っていても、それが普通だと思っている奴もいるし」
そう言われると、苦しい苦しいと思いながらも、実はそんなに努力していなかったかもしれないと、思い当たる事もある。
「俺はそういう、努力が当たり前にできている奴が、結局一番すげえと思うよ」
僕は黙って聞いていた。
「試験に落ちたこと、まだ引きずってるんだろ」
少し前まで、転職するために資格試験に挑戦していたが、何度も落ちて、もう諦めてしまった。
「もう兄ちゃんは、好きなことをやってみろよ。ずっとやっていてもきつくならないような、ずっと続けられそうなことをさ」
僕にはひとつだけやってみたかったことがあった。
それは小説を書くことだ。
たしかに心残りがあるとすれば、小説を書かなかったことだ。自分の書く小説とは、どんな物語になったのだろうか。
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