6-4

 その瞬間―――ドォンッ――――と、ものすごい音がして室内ドアが重たい衝撃で振動する――――張り詰めていた緊張感が限界に達して悲鳴をあげる。


「きゃっ!」


 ドォン――――ドォン――――壁の内側から力任せにドアを叩きつける。何度もドアが歪み、湾曲したドアの隙間からダッチワイフの姿が覗く――――大丈夫なのか――――心許ない小さな南京錠――――けれど、ドアはぴたりと閉まったまま。南京錠は何事もなかったかのようにドアを守っている――――この小さな鉄の塊にはあの男ひとりを封じ込める力があるのか――――私は思わず嘆息する――――こんなことしてる場合じゃない――――今すぐ家から脱出しないと――――南京錠がいつまで持ちこたえられるかわからない。南京錠が無事でも、扉自体が破壊される可能性もある。


 その時、突然。ドアを叩く音が止んだんだ。何事かと思った――――怖かった。まだダッチワイフが何か考えているのかと思ったんだ。だけど、そうしたら、ひと言、蚊の鳴くようなか細く低い声で、確かに聞こえてきたんだ。疲れ果てて、ため息をつくような久慈川の声。


「……このみっともない無様な姿が、俺の愛の形なんだよ」

「え……」


 ドキッとして、息を飲む。今何を言ったの――――その瞬間、止まっていたのが嘘みたいに、再びドンドンと扉をタックルしてくる。


「――――!」


 私はそっと後ずさりする。心なしか南京錠にも亀裂が入っているかのように思えた。

 急がなくちゃ。私の理性的な部分が警笛を鳴らしている。けれど、奇妙な感覚。ただひとつだけ思った――――もしこんな形じゃなかったなら、彼と友達になれたんじゃないのかなって――――。


「――――急いで愛香っ! ――――」

「――――!」


 床から何者かの視線を感じた――――右足のかかとが何かに触れる。真下を見下ろす。みどりがいた。みどりが私を見ている。まるで、みどりが私を強く諌めてくるようにも思えたんだ。それが最後のお別れの挨拶みたいに――――。


「…………」


 私は未練を振り払って、その場から走り出した。

 背後を気にしつつも、破壊された玄関ドアを跨いで外へと踏み出した。ふっとさわやかな空気が鼻腔に抜ける――――通用階段に身を乗り出して、マンションの駐車場を見る――――赤い光が明滅して、住宅地を真っ赤に染めている。そっか、通報してた警察がようやくマンションに到着したんだ。なんてノロマな大人たちなんだろう。内心、そう思った。


 遅れて、パトカーの喧しいサイレンの音も聞こえてくる。ホッとして人心地ついてしまう――――ようやく長い夜が終わったのね――――通用階段を駆け足で降りる。その時、ふっと考えてしまう――――この《マリーセル》というマンション自体がそっくりそのまま私を恐怖のどん底に陥れるための不気味な怪物だったんじゃないのか。はじめから私が越してくることを見越して、先に居を構えて着々と準備を進めてたあのダッチワイフのことを思うと、どうしてもそう思ってならなかったんだ――――。


「助かったんだ……」


 私はマンション一階の通用廊下の施錠を解いて、一歩踏み出す。その瞬間――――目の前にふっと気配を感じた。


「なに――――!?」


 驚いて立ち竦む。ポーンと、エレベーターが到着する音――――中から、ダッチワイフが出てきたんだ――――。


「ど……どうして……!?」


 一歩、――二歩と、後ずさりする。ダッチワイフは私の目の前に仁王立ちしていた。まるでこれ以上先には行かせないとばかりに――――手元にはあの包丁がギラギラと光っている――――私は咄嗟に、背後に走り出した――――ものすごい速さで迫ってくる――――すぐに追い詰められる――――マンションの廊下の突き当たり。私はその場に崩れ落ちてしまった――――なんで、どうして、どうやって。私は自分の意思とは裏腹に理性が利かなくなってた。突拍子もないことを口走ってしまう。


「お願い許して――――もう降参だからっ」

「…………」

「いやらしいことがしたいんでしょ! それが目的でこんなことしたんでしょ!?」

「…………」


 それでも――――ダッチワイフは微動だにもしなかったんだ。情けないな――――自分の事ながら、こんな風に命乞いしてるなんて。どこかで他人事みたいに冷めた目で自分を見下ろす視点が、そんなことを考えてる。


「何でもするからっ お願い、助けて――――」


 その瞬間――――どこからか声が聞こえてくる。


「か……いか……あいか」


 あ――――。

 聞き覚えのある声。懐かしい声。パトカーのサイレンの音に紛れて、私の名前を叫ぶ声が聞こえてくる。


「愛香――――愛香――――っ!」


 ダッチワイフが、頭上高くに包丁を振り上げる――――それが、私の最後の記憶――――。

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