6-2

 ダッチワイフは四畳半の納戸に見切りを付けると、次に向かったのは洗面所。洗濯機の中を覗く。もちろん私はいない。洗濯籠から、私の汚れたパジャマを取り上げて、匂いを嗅いでいる。何かに気づいたように振り返って、締め切ったバスルームの浴室扉にそっと手で触れる。何かを考えるように一瞬硬直してから、洗面所から立ち去った。さっきバスルームの毒ガスにやられたことを思い出したんだと思う。天井の破壊されたトイレを覗く。渡り廊下と生活空間を分断する室内扉のレバーハンドルを下ろして、ドアをそっと押す。ダイニングキッチンへと踏み込む。辺りを見回している。私が死角に隠れて襲い掛かってくるとか思ってるのか。相当警戒してる。できるだけ死角を作らないよう、アメリカの特殊部隊みたいな身のこなしで、ひとつひとつ物陰を確認している。冷蔵庫を覗く、キッチンを物色――――その時、何かが目に留まった。ステンレスシンクを見下ろしてる。


「なに……?」


 何か目に付くようなものがあったのか――――シンクの上には作りかけで放置したチョコレートがあった。なんだか拍子抜けする。この状況でそんなものに目移りするものなのか。立ち止まっていたのはほんの数十秒だったけれど――――ダッチワイフは再び動き出した。床に転がったままになってるみどりの死体は無視して跨いだ。敵がドンドンと近づいてくる。すぐそばで足音が聞こえる。けれど――――まだ動くタイミングじゃない。じっと息を潜めて、今まで以上に物音をたてないよう気を配らないといけない。ここからが重要だった。緊張の瞬間――――ダッチワイフは私の隠れてる和室を通り過ぎて、リビングへと向かう。やっぱり和室に隠れてるわけないと思ったよう。


 ベッドの下、テレビの裏、調度品の陰――――手当たり次第に乱暴に物色して何も出てこないと一番奥の六畳間の勉強部屋のドアを開けて踏み込む。やった。目論見どおりになった。相手が勉強部屋に気を取られているうちに、私はもぞもぞと動き出す。和室からは遠いし、今なら多少は物音がしても相手に気取られないはず。私は背後のロールスクリーンを引く。スクリーンは半分ほど巻き取られて、掃き出し窓が露になる。内鍵のクレセント錠を回して、ウインドロックも開錠する。窓を少しだけ開けて隙間からベランダに出てきた。ノートパソコンのディスプレイを確認する。ダッチワイフはまだ六畳間の勉強部屋に気を取られてて、ほかのことには無頓着になってる。


「…………」


 私はロールスクリーンを下げてから、掃き出し窓を閉める。ナップザックから取り出した、開封済みのウインドロックの補助錠を二つ取り出して外側から掃き出し窓に施錠する。以前に、窓から侵入されることを危惧して取り付けたものの余ったやつ。私はしゃがんだまま、ベランダの手すりの隙間から地上を見下ろす。さっきもダッチワイフがベランダに来て警戒していた。七階建てのマンションのベランダ。ここから飛び降りたらひとたまりもない。脳裏にワイドショーのニュースの記憶が過ぎる――――炎上した高層マンションから脱出するため洗濯物の端を縛ってつなげて簡単なロープを作る。綱渡りのようにしてマンションから降りてくる光景。もしかしたらこっちの方法もあったんじゃないかと思って、ちょっと後悔する。私は手すりから離れて、中腰のままベランダを向かいにある、四畳間の納戸を目指す。その瞬間――――私はハッとして足を止める。モニターの映像でダッチワイフの行動が予測できた。一瞬遅れて、すぐ真上で部屋の中のカーテンがシャッ、と開いた。六畳間の勉強部屋にあるフィックス窓。頭上には窓辺ギリギリまで身を乗り出して、ぎょろぎょろとベランダを見回すダッチワイフの姿。灯台下暗しなのか――――すぐ足下で身を屈めてる私の姿には目もくれない。カーテンは開かれたまま、ダッチワイフだけが姿を消した。私はノートパソコンのモニター越しに、六畳間の部屋から出て行くダッチワイフの姿を確認すると、ホッと安堵して、フィックス窓を越えて、四畳半の納戸を目指した。


 気づかれて待ち伏せされていたら最悪だった。掃き出し窓を開けて、屋内にあがる最後の瞬間まで油断はできない。四畳半の納戸のクレセント錠は、この脱出のため最初から開けたままにしていた。さっき気づかれてダッチワイフに施錠されていたら全てが台無しになるところだった。やっと家の中に戻ってくる。私は窓を閉めてから物陰に身を潜めて、パソコンのモニターを見た。ダッチワイフは和室の扉には手を掛けず、まだリビングでウロウロしている。いい加減にじれったく思った。そんな場所に私が隠れてるわけないでしょ――――。私はイライラする。その瞬間――――、ダッチワイフは私のベッドに仰向けに寝転がった。嘘でしょ――――何をしてるの。私は困惑する。そうしたら、両手を腰に引っ掛けて、トランクスをずり下げた。下半身の部分だけがくりぬかれた穴から固くなった男性器が露出している。ダッチワイフは不気味なうめき声を発しながら男性器をしごき始めた。しばらくして、白い液体のようなものが尖端から噴射しベッドの上に散らばった。男性器は見る見るうちにしぼんで小さくなる。


「うっ……」


 思わず吐き気が込み上げてくる。

 嗚咽が漏れまいと、懸命に我慢するけど映像を見続けるのは限界だった。私はディスプレイから目を離して空を睨みつける。なぜか頬から涙が伝う。口元を押さえる。思わずぼそりと呟く。


「宇喜田先輩…………」


 全てが終わったら。生き延びることができたなら、絶対に告白しよう。命の危機に直面すると、人はかえって積極的になるっていうけれど。本当のことだってつくづく思った。私は目を瞑って覚悟を決めると再び映像に眼を向けた。



「――――!」


 いない。ダッチワイフがベッドの上にいない。リビングにもいない――――見失ったかと思って、一瞬パニックになったけど、すぐに見つけた。下着を履いて六畳間の勉強部屋にいた。――――何をしてるの…………その瞬間――――ノートパソコンのモニターのひとつの映像が振動して、ガタガタっと大きな物音を発する。「――――!」映像が途絶えて砂嵐になる――――ダッチワイフがカメラに気づいて、取り上げて電源を切ったんだ。

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