4-3

 私はリビングの点検口を塞ぐ書棚を退けて、ソファをそばに引き摺ってきて点検口真下に台になるように置いた。


 ソファの上に立って点検口の蓋を開けて、恐る恐る中を覗きこむ。真っ暗だった。懐中電灯中で照らす。つくりは単純みたい。人ひとりが通れる程度の四角い鉄板で囲まれた狭いスペースがどこまでも先まで続いている。暗いのが不気味だった。私は点検口にあがりこむと、這って奥まで進む。ここでダッチワイフと居合わせたら一巻の終わりだと思う。なんて、悪いイメージは頭から振り払った。


 確かに雅がいうように、奥の方には破壊された石膏ボードの残骸が放置されていた。これが今しがた破壊されものかはわからないけど、残った石膏ボードの縁の部分に、家から持ってきた木の板を釘で固定する。昔にパパがDIYに使った切れ端だった。またいつアイツが侵入してくるともわからない。こうして完全に封鎖しておけば安心。

 反対側の親切なおばさんが居た側も同じように木の板を打ち付ける。こっちの石膏ボードは破壊されてなかった。これで二度と天井裏から侵入されることはない。


 家の中に戻ってくると、毒ガスのバスルームは危ないから放置して、トイレのドアの溝を封鎖したガムテープを剥がしてドアを開けた。明かりをつける。天井の換気扇が落っこちて陶器製の便器に大きな傷ができてしまってる――――そばにはスマホが落ちていた。


「…………」


 私が最後に扉の下の隙間からトイレの中へと投げつけた私自身のスマホだ。放置しちゃったけど無事で良かった。私はラインで雅を呼び出す。


 >>通話呼出・音無雅


「雅?」

「愛香! 心配したんだぞ!?」

「ごめんね、こっちも大変だったんだ」

「あいつは?」

「換気口伝ってトイレに降りてきた」

「どうなったんだ?」

「ASMRだよ……真っ暗だったから毒ガスを投げ込まれたと思って勘違いしたみたい」


 ASMRは心地良いと感じる環境音を収録したもの。私は音フェチで何十種類ものASMRをスマホに落として持ち歩いてる。本来は環境音の中から人間に都合の良いものを抜粋してくるけど、今回は逆の意味でリアルな環境音があいつを騙すのに役に立ったんだ。


「良かった。家の中まで入ってきたのか……!」

「雅が言ったみたいに、本当に隣の部屋の点検口を伝って入ってきたみたい。奥の方の隔壁が壊されてた――――でも完全に塞いだからもう大丈夫だよ」

「見て確かめたのか!?」

「そうだよ……だって、また入ってきたらと思うと……」


 私が言うと、雅はまんざらでもない様子で押し黙ってしまった。お互いに非現実過ぎる状況で何を話したらいいかわからなかったんだ。雅がいう。


「警察は? 通報したんだろ!?」

「うん……まだ時間がかかるって、それまで家の中に篭城するつもりだけど……」

「愛香のパパとか、辻井は取り合ってくれないのか!?」

「そうなんだ……色々手を尽くしたけど、難しいみたい」


 私は雅に笑いかけるようにいった。私は続けていう。


「出て行こうとも思ったけど、あいつが待ち伏せしてる可能性を考えたらずっと危険かなって……」


 私は雅と話している間にも、ノートパソコンのディスプレイからは目を離さなかった。ダッチワイフはマンションの通用廊下に出てきた。またうちの前をぐるぐると徘徊してる。何を企んでるのかは知らないけど、見えないところにいるよりはずっと安心だった。アイツもあいつで私が家から出てくるのを期待してるのかな。それとも、点検口がつかえなくなって八方塞なのかもしれない。


「そうだな……きっと家の中に居た方が安全かも、ご近所さんとかは助けてくれないのか?」

「…………」

「愛香?」

「ん……ああ、そうだね。もちろんご近所さんも助けてくれるから……」


 私は不意に雅に例のことを話す。


「ねぇ、雅……久慈川智って人知ってる?」

「久慈川?」


 理解できないというように、雅は名前を反復した。そっか、雅は同じ小学校でも中学校でもない。今更気づいて自分が馬鹿だったと思う。


「ごめんね――雅にはぜんぜん縁がない名前だよね」


 私は笑って誤魔化した。けれど、雅は深刻な声音でいう。


「うんうん――――知ってる。知ってるよその人!」

「は……?」


 なんで――――縁もゆかりもないはずの雅が久慈川のこと知ってるの。雅は続けていう。


「ほら、私のお父さんって町内会の理事やってるでしょ? それで地域に住む人の名簿を持ってるんだよ――――それで集まりが悪いっていって普段出席しないブラックリストの人の話のとき――――話半分で横で聞いてたんだけど確か久慈川って人の名前出てた」

「どういうこと?」

「しかも……確かマンション《マリーセル》って……ねぇ、それ愛香のマンションだよね!?」

「――――!」


 私はゾッとして怖気だってしまった。全てが繋がったように思えた。

 二重構造のオートロックをパスしてマンション内に侵入できた理由――――長い時を経た計画犯――――管理人が不審者はいないと笑えない嘘を平気でついた理由――――そして、やけに金属バッドや道具の一切合切を、手を変え品を変えて持ち出すことができた理由も――――全てはダッチワイフがもともとの居住者だったからなんだ。


 それも、後から引っ越してきた話をまったく聞かないことを考えたら、私よりもずっと前から定住していた。それにも、不気味なほどの執念を感じる。私は背筋が凍った。


「あ……愛香?」

「――――ごめん、ちょっと鳥肌立っちゃって……」

「それで、その久慈川智って人はなんなんだ?」

「ううん、昔の同級生から話を聞いて、でアルバムを見返したらどうやら昔の同級生だった人みたいなんだ――――私にはほとんど身に覚えがないんだけど」

「みどりはなんていってるの?」

「え――――?」

「もちろん、みどりにも連絡したんだろ?」

「みどりは…………」


 そっか――――そういうことだったんだ。それこそ憶測の域を脱しないけれど、私の幼馴染だから、みどりは殺された。物覚えの良い彼女なら、古い記憶を辿って自分までたどり着いてしまうと思ったから。久慈川にしてみたら一番厄介な存在だった。


「もちろん、でもみどりもあんまり覚えてないみたい」

「そっか。じゃあしょうがないな」

「ごめんね――――ごめん、本当にごめんね――――雅」

「あっ愛香――突然どうしたんだ?」


 私は思わず涙が零れ落ちてしまった。


「全部私のせいなんだよ――――自業自得なんだ――――昔あったことを私が忘れてるせい、だからみどりはあんなことになって――――こうやって雅にも迷惑をかけるから――――」

「愛香……」

「もし久慈川って人に会ったらね、私謝ろうと思うんだよ」

「愛香――何言ってるんだ!?」

「たぶん、全ての発端には私の過去に原因があると思うの――――謝って許してくれるようなことじゃないと思う――――けど、報われない執念がこうして爆発して事件を起こすことになったとしたら――――私も被害者面してるわけにはいかないと思うんだ……」

「それとこれとは話が別だよっ――――第一、愛香は確実に被害者なんだ! 相手がやってるのは犯罪行為! 誰がなんと言おうとも許されることじゃない。何か思うところがあったら面と向かって話し合うべきだろ?」

「うん――――うん――――そうだね、雅の言うとおりだよ……」

「だから愛香! そんな自暴自棄になっちゃだめだ。自分の意思を強くもって――――ただ助かることだけ考えてれば良いんだよ。何も犯人の側にまで同情してやる必要なんてない。今、愛香は恐怖で気が動転しておかしくなってるんだ!」

「……うん」

「愛香、また何かあったらすぐ連絡して――――私はずっと愛香の味方だから!」

「ありがと…………雅」


 そうして、私は雅との通話を切った。あとには不気味な静けさだけが残されていた。


「…………」


 私は、ダイニングキッチンの床に投げ出されたままになってる、みどりのスマホをじっと見つめた――――。

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