4-2

 その時――――どこからか、ガタゴト、ガシャアン――――と、大きな物音がした、スマホを耳にあてがったまま背後を振り返る。――――近い――――確実にうちの中のどこかでけたたましい破壊音が聞こえた。家の中の点検口は全て塞いだはず。冷やりとする。嘘でしょ――――。


「愛香――――点検口って換気口と繋がってるんだよ?」

「――――!」


 ゾッとして背筋が凍った。まさか。


「急いでっ愛香っ――――!」


 私はスマホをポケットに入れたまま走り出した。音のしたほうへと向かう。渡り廊下――――洗面所――――その先、バスルーム。


「――――!」


 浴室扉を開けて絶句する。換気口とフィルターの向こうにアイツがしゃがんでこっちをじっと見つめていた。


「きゃあああああああああああっ――――!?」


 思わず頭がくらくらして、卒倒しそうになる。だめ、今はまだ気を確かに持たないと。ダッチワイフは足でガンガンと激しく換気扇の蓋を蹴りつける。

 ミシミシと嫌な音が鳴って、ほこりが舞う――――頑丈にできてはいない。破壊されるのも時間の問題だった――――何か、何か武器になるようなものは――――時間がない。


 咄嗟に思いついたのは洗面所のそばにあった換気扇の操作盤だ。《乾燥・暖房》のボタンを押して換気扇を起動する。ゴワっと浴室が熱風に吹き荒れる。大気が換気扇に向かって吸い込まれていく。けどダッチワイフは微動だにしない――――それどころかいっそう勢いづいて、蓋を蹴りつけてくる――――換気扇の蓋が歪む、破片が飛び散ってバスルームのタイルに飛び散った――――私は洗面所の収納から洗剤をありったけ取り出す――――聞いたことがある。主婦が幾つかの洗剤を同時に使ったら有毒ガスが発生して手足がしびれ呼吸困難になったって――――難しい理科の知識はないけど、適当に混ぜるだけでいいなら私にだってできる。洗面器を一個取り上げて、劇薬と記された洗剤を全てぶちまけて、バスルームのタイルの上に液体をばら撒いた。浴室扉を閉めた――――バスルームの中からは、相変わらずダッチワイフが換気扇の蓋を蹴りつける鈍い音が聞こえてくる―――ダメか――――そう思った。けど異変が起こった――――バスルームの中から嗚咽に似た声が聞こえてくる――――「うえええっ」―――はじめて聞いたダッチワイフの声――――換気扇で吸い上げられた毒ガスをもろに吸い込んでしまったらしい――――そうしたらドタバタと洗面所の天井で物音が聞こえる。這って、換気扇から逃げる音――――私は天井に意識を集中して、物音を頼りにダッチワイフの後をつけていった。


「待って――――!?」


 私は息を飲む――――奴の向かった場所は渡り廊下の向かいにあるトイレだった。トイレの中の天井の方からガタゴトと音が聞こえてくる。そしてバカっと大きな音が聞こえたと思ったら、便器のある辺りでズドンと、固いもの同士がぶつかり合う激しい破壊音が聞こえてきた。天井ごとダッチワイフがトイレに降ってきたんだ。私は全体重を掛けて背中でトイレの分厚い扉にもたれかかった。背後からものすごい力がドアを押し返してくる。


 ドアノブがガチャガチャと狂ったように回る。――――怖い、怖い怖い怖い怖い怖い怖い――――ただ恐怖の感情だけが頭を支配している。何度も扉が少しだけ浮く。何度も何度も。そのたびに、死がすぐ隣に差し迫っているような気がして生きた心地がしない。心臓が張り裂けそうになる。男の恐ろしい暴力が何度も扉を叩きつける。いや――――いやいやいやいや――――死にたくない。そう思った。そうしたら、ギラギラした薄っぺらいものが、トイレの扉の下の狭いスペースから伸びてきて、私の足のかかとをさっとかすめた。


「ひっ――――」


 短い悲鳴をあげる。左足のかかとの裂けた小さな傷跡から僅かに血がにじむ。


 私は両足をトイレの扉からできるだけ遠ざけた。それでも、薄刃のナイフは何度も出てきて私のかかとスレスレのところの空を掻き切って空振りする。私は恐怖のあまり、食いしばる歯が震えてガチガチと鳴る。だめ――――これじゃああと何分も持たない。まともな力比べになったら、力の強い成人男性には適い様がない。私の力が尽きるのを嘲り笑って、わざと力を弱めて拮抗合戦を演じているかのよう。殺される――――そう思った。


 けれど、廊下に物干し竿が立てかけられてるのを見つける。置き場がなくて、しょっちゅう倒れてくるのがうざったかったけど、藁にも縋りたい今は神様の助けのように思えた。上半身を固定したまま左足のつま先で根元をつつくと、うまく手前に倒れてくる。右手で受け止めた。つまみを回して長さを調節し固定してから、向かいの洗面所の棚につっかけて片側をトイレのドアに引っ掛ける。ぴったりとはまって、トイレのドアを固定する。恐る恐る力を緩めて、そっと離れる――――ドアは開かない。固定されたままになった――――物干し竿をグッと押し込む。更にしっかりと固定された――――トイレの中のダッチワイフも、突然強い力が抵抗するようになったのに気づいたのか、ドアを押す力が弱まる。


「…………」


 不気味な静寂――――諦めたのか。一瞬、そう思った。けれど――――ダッチワイフは助走をつけてドアにタックルしてきた。――――ドンッ――――ドンッドンッ――――と、振動が伝わると、絶妙なバランスで状態を保っている物干し竿が徐々にドアからずれる。やばい――――けれど、身体が空いている今がチャンスだった――――私はダイニングキッチンから重たい棚を引き摺ってくると、トイレのドアの前に立てかけた。物干し竿が外れてしまっても重さと物量でドアを封鎖するためだ。何度目かのタックルを受けて、物干し竿が完全に外れる――――ドキッとした――――このままドアから半身を乗り出して私をトイレの中へと引きずり込むんじゃないかと思った――――けれども、杞憂に終わる。幾つかの重たい家具のおかげで、物干し竿がなくても重量だけでダッチワイフの侵攻を防ぐ。どうにかなったか――――けれど、再びぐっと力ずくでドアを押してくると、家具が頼りなくグラグラと揺れた。まずいかもしれない――――馬鹿力でドアを突破される――――でも他にこれ以上重石に使えるような家具はない――――ミシミシと家具が軋み始めた――――ただの家具が何度も衝撃に耐えられるわけないんだ――――これもあくまで一次しのぎ――――いつか壊れてしまうのも時間の問題――――どうしよう――――頭がフル稼動してる。その時ハッとして気づく――――そうだ、アレを使えばもしかして……――――私は手近な棚にあるガムテープを取り上げた。それをドアの下の狭いスペースから投げ入れるとガムテープを使って、空気が外に漏れ出ないよう完全に密閉する。シュゥゥゥゥゥッ――――と、トイレの中からうるさいくらいのスプレー音が鳴り響く。途端に、ドアを押す抵抗が弱まる。私は待った――――ガタガタッと音がして、中の人の気配が天井へと引き上げていく。がさつな物音からわかる。慌てた様子がおかしかった。そして――――物音は完全に聞こえなくなった。


「…………」


 耳を済ます。まだどこからか聞こえてくる物音を絶対に聞き逃すまいと、聞き耳をたてた。けれど今度こそ本当に何も聞こえなかった。


「終わったの……」


 誰にともなく空に呼びかける。そして、ようやくホッと安堵する。スプレー音は徐々に弱まっていくと、ようやく聞こえなくなった。


「……良かった」


 私は力をなくして、その場に崩れ落ちてしまった。頭が軽い放心状態になってる。


「…………」


 バスルームとトイレ。さすがにもう、抜け道はないはず。全ての隙間を封鎖したんだ。そう思った。けれど――――家中が酷い有様。泥棒に荒らされたみたい。命がけで抵抗したんだから無理ないけど。これからも暮らしていくつもりの家だし、元通りに片付けるのが大変だよ。


「はぁ」


 うんざりしてため息をつく。室内ドアを開けて、ダイニングキッチンへと戻ってくる。トイレのバリケードに使った家具を元に戻さないと、その時――――不意に、背後から視線を感じた。


「――――!?」


 異変を察知した私は振り返る。キッチンの天井に併設された張り出しの換気扇だった。そこから不気味な目が両目でこっちを睨みつけてる。一瞬にして背筋が冷える。私は蛇に睨まれたカエルみたいにその場で硬直してしまった。ガン――――ガン――――と、ダッチワイフは二度ほど換気扇を内側から叩きつけると、恨めしげに私をもう一度睨みつけてから、闇の中へとすっと消えていった。


「…………」


 さすがに今回は諦めたんだ。はあ、なんてしつこい奴なんだろう。鈍い音がドンドンドンドン――――と、隣の空き部屋に向かって引き返していくのが聞こえた。何とか難を脱したけれど、何にせよ一次しのぎに過ぎない。たぶんアイツはまだ諦めるようなことはないんだろうから。

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