罠
3-1【罠】
私はマンションから脱出することを考えていた。
さっきは自殺行為だと思った。でも前言撤回。この息の詰まる空間から早く逃げ出したかった。それにダッチワイフが筋骨粒々で、太刀打ちできないほど強かったとしても、所詮は一人の人間なんだ。いざとなったら準備と対策さえしておけば、切り抜けられないことはない。
そう思った――――けれど、不意に過ぎったそんな甘い考えを切り捨てる。
どうして仲間がいないと言い切れるんだろう。もしダッチワイフから辛うじて逃れたとして、挟み撃ちにされたら一巻の終わり。それも二人、三人とも言い切れない。ベランダの一件から今までダッチワイフは姿を見せなくなった。何の迷いもなくみどりを殺めたような奴。何をしてきてもおかしくはない。その時――――再びラインが着信した。辻井だ。
「…………」
私はちょっとためらったけど、ラインを開いてメッセージを確認する。
>>俺だ、愛香、もう機嫌直してくれよ
>>怒ってなんかないけど?
それは心からの本音だった。けど、辻井はいつものようにしつこくメッセージを送ってくる。
>>何でも言う事聞くからさ?
>>じゃあうちに来て
>>だからそれは無理なんだ。勘弁してくれよ!
>>何でも聞いてくれるんでしょ?
そう送ったらまた沈黙。心底時間の無駄だと思った。
>>じゃあもういいから
>>あいか
「はぁ……もう、ほんとなんなの……っ」
切迫した状況、そしてどうしようもない彼氏。私の苛立ちは募るばかり。
その時、再びラインが着信した。峰田君だった。メッセージを確認する。
>>さっきはすみませんでした
>>ほんとうだよ
>>誘ったのは僕なんです
「…………」
>>そんな変な友情みたいなのいらないから
>>何かあったんですか?
そういえば、と思った。いろいろあったけど峰田君には事情を説明してない。
>>盗撮されたの
>>と、盗撮!? それってマジの奴ですか?
>>そうだよ。それから、家の前に変な男が
>>誰なんです?
>>知らない。他に誰にも言ってないけど、人を殺してるかも
>>え?
「…………」
まだみどりの死体がうちにあることを伝えるのはためらった。なるべく濁して伝えるのが私には精一杯。それでも峰田君になら理解してもらえると思ったから。
>>辻井から話は聞きましたけど、そんな危ない奴、愛香さん心当たりないんですか?
>>ない。ブタも知らない。本当は別に、今はそんなこと気にしてる場合じゃないんだけど
>>そうですね。でも家の中なら安全でしょ?
>>カメラを仕掛けたのもそいつかもしれないの。そいつはカメラがないとわからないようなことも知ってた
>>一度侵入してる?
>>聞き返さないで。そういうことなの。
>>警察に連絡するか、もしくは早くに逃げ出した方が
>>雅もそういってた。けど、どっちもダメ、警察はまともに取り合ってくれないし、逃げようにも相手が何人いるかも分からない。だから誰でもいいから協力してくれる人が欲しいの
>>そうですね
>>こんなこと峰田君にいっても仕方ないけど
>>僕は愛香さんに協力しますから
>>あはは。なにそれ。どうゆうこと?
>>もうしばらく待っててくれませんか? またおって連絡しますんで
>>うん
峰田君のメッセージは途切れた。どういう意味なんだろう。
私は手持ち無沙汰になってしまった。カチカチと、壁時計の秒針が進む音だけが聞こえる。私は考える。今一体何をするべきなんだろう
――――ドンドンドンドン!
「ひっ――――!?」
驚いて飛び上がる。息を飲む。どこからか鈍い殴打音が聞こえる。
「な……なに!?」
ダッチワイフか――――咄嗟に思った。耳を澄ます。
――――ドンドンドンドン!
「…………」
違う。よくよく聞いてみると殴打音は、隣の壁から聞こえてくる。右隣の部屋だ。
「あ……」
私の隣の部屋に住むご近所さん。たしか一人暮らしのおばさんだった気がする。
私は近づいていって、返事を返すように壁をノックした。それから壁に耳を当てる。ゴゴゴゴっと、私の頭の血が通う音が聞こえる。壁の向こうから小さな声が聞こえてくる。
「もしもし? なに? どうしたの? なんかあったの?」
「…………!」
私は思わずホッと安堵してしまった。生の肉声に触れて、その優しさに泣きそうになる。けど、安心感以上に壁の薄さに驚く。これじゃあプライベートも何も無い。パパにいって絶対引っ越してやるから。
「あ……あの」
私は辺りの様子をうかがってから壁に手をつけて、できる限り大きな声でいう。
「玄関に変な人が!」
「え?」
聞き返してくる。私は構わずいう。
「不審者です――管理人さんにいっても取り合ってくれなくて」
「あらまあ、それは大変ね」
おばさんは暢気な様子で続けていった。
「家の前でバタバタやってるみたいだから、気になったのよ」
「…………」
「何かお手伝いできることはある?」
「ええっと……」
心強かった。女性という点でも信頼できる。でもいざとなったら何を頼んでいいかわからない。普段は面識もないご近所さんだから下手にこき使うわけにもいかない。そうして迷っていたら、おばさんの方から話しかけてきた。
「わかった。今からそっちに行くから、そこで話しましょう」
「え……ええ?」
私はあたふたとして言葉に詰まる。隣の部屋からはガタゴトという重たい音が聞こえてくる。おばさんが動き回っているに違いない。けど、会って話して何になるのかな。ただ向こうも善意で協力してくれてる。私はおばさんを待つ。そうしたら、玄関ではなく窓の方からゴンゴンと、ノックする音が聞こえてくる。
「――――?」
――ゴン――ゴン――ゴン……
一定間隔で掃き出し窓を叩く音。
おかしいな。不審者がうろついてるとか事情は説明したけど、まさかベランダの柵を乗り越えてきたの。
「見かけによらず非常識なおばさんなのね……」
私はそっと掃き出し窓に近づいていって、さっとベランダのカーテンを捲った。
「――――ひっ!」
息を飲む。ベランダには洗濯物のようにして血まみれになったおばさんが吊るされていた。ノックと勘違いしたのは、おばさんの頭部が振り子のようにして窓に頭突きしている音だったんだ。
「いやあああああああああああああああああああっ」
私は我慢できなくなり、その場で絶叫した。すぐにカーテンを閉じて、私は頭を抱えてベッドの上で蹲って呆然としていた。こんなことしてていいわけないのに、動き出すことができなかった。
なんで、どうして――――せっかく掴んだ僅かな希望だったのに。一瞬にしてあいつに摘み取られてしまったような感覚。そしてどうしようもない罪悪感に苛まれる。
「ごめんなさい――ごめんなさい――――」
誰にでもなく許しを請うように連呼する。もうたくさんだった。悪夢のようにも思えた。私はそのままスマホを取り上げて、ラインを開く。通話をかける。
>>通話呼出・糸川一臣
相手はすぐ出る。私は絶叫するように息巻く。
「――――あれ、あんたの友達でしょ!?どうにかなんないわけっ!?」
「ぐふぅっ」
「もういいっ!もうたくさんだわっ! はやくアイツをどうにかしてよっ」
「ちょちょちょ、落ち着いて愛香さん。ここ大きい声出しちゃだめなとこだから……」
「…………友達には当たってくれたの?」
「愛香さん、もしかしてそいつ……ずっと昔の同級生かも」
「え――――」
私は飛び起きて、スマホに縋りついた。
「どういうこと?」
「うん。僕の友達に当たったけどみんなのラインには登録されてないっていうんだよ、つまり中学よりも昔の知り合い、小学生とかの頃なんじゃないかなぁって……」
「――――!」
確かに、ブタは私と小学校も一緒だった。考えたくないけど。
「そこで思うんだけど――――僕が愛香さんに恋したのは中学の頃。小学生の頃の当時はゲームと、漫画のことしか頭になかったよ」
「意味わかんない」
「そいつが小学校からの縁で愛香さんにちょっかい出してるとしたら、それは女子として興味を持つ前の段階なんじゃないかなってはなし」
「あ…………」
確かに。悔しいけど一理あると思った。
「じゃあなに? 何か別の理由があるってこと!?」
「わからんよ……だけどいっこ言えるのは僕の伝を当たるよりも愛香さんの過去を振り返った方がダッチワイフとやらにたどり着ける可能性は高いんじゃないかと思うんよ」
「……私の過去の……?」
「もういっこは、どうして愛香さんの家に忍び込めたかだけど……」
「わかるの!?」
「いんや。時間によって開く何かなんじゃないかなって」
「どういうこと?」
「そいつはやっぱり愛香さんの前に現れたんでしょ? 今は入れなくて立ち往生してる。でも愛香さんの家に入れる隠し通路があるんならとっくに侵入してるよね? じゃあやっぱり玄関か窓から侵入してて、それが愛香さんの知らないうちに時間で開くときがあったんじゃないかなって」
「…………」
私は勝手に私に長く恐怖を味合わせるためって解釈して、奴が侵入してこない根本的な理由を考えないようにしてた。でも、よくよく考えてみたらそうだ。ダッチワイフは本当にうちの中へ入ってこられないんだ。だからこそ、一度侵入してからまた外に出た具体的な考察が必要になった。
「何いってるの? それじゃあセキュリティも何もあったものじゃないでしょ?」
「愛香さん、それは短い期間で考えるから矛盾するんよ」
ブタは平然と言った。なんだかバカに説明してるみたいでムカつく。思わず怒った口調になる。
「わかるように言えよ?」
「相手は小学校以来の計画犯。時間は余りあるほどある。今このタイミングで機が熟するって偶然じゃないんよ。少しオーバーにいうと、じゃあ愛香さんがマンションに越してくる前は、その部屋は空き部屋だったんでしょ?」
「――――!」
その瞬間、意味が理解できてゾッとして怖気だってしまった。
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