1-7

「――――お前がやったんだろっ、いい加減にしろよブタっ」

「……!?」


 受話器の声でひっくと息を飲む声。アニメのBGMや、荒い鼻息、そして心なしか、CPUの重たい作動音も聞こえてくる。そうした環境音が、嫌でもディスプレイの向こうの部屋の場景を想起させて嫌な気持ちになる。しばらくして、ようやく相手は口を開く。


「あ……愛香さん、どうしたん?」

「――――っ」


 ぺちゃぺちゃとウェットな太った男の耳障りな声音――心底不快な音。激しい吐き気を催す。今後の人生で二度と聞くまいと心に誓ったほどに、その声は私にとってグロテスクなものに他ならなかった。


「てめぇ……――うちに盗撮カメラつけたろっ」


 理解できないとばかりに、再びの沈黙、そして怖気が立つほどのうわずった声音で相手は笑う。


「うふっ――――それマジ?」

「しらばっくれる気か――――おいっっっ」


 すぐそばに居たら、掴みかかるほどの勢い。スマホが壊れて、マンションさえも倒壊するんじゃないかと思うほどの激しい怒声。私の恫喝に、ブタは心底怯えている様子だった。


「お……怒らないで、やめて、ひっ――許して――ちゃんと真剣に聞くから――もう許して――――」

「どうやってうちに忍び込んだ?」

「ちょちょちょちょちょちょちょちょちょっ――――ちょっと待って! 愛香さん! 誤解だよ! ――――どうして僕が盗撮なんてするん?」

「お前しか考えられねぇェじゃねぇかっ!!?」

「ひぃぃぃぃっ――――だから怒らないでって……ね、ね? 考えよ? 冷静に、ね? ね? ね? ……確かに僕が……その、愛香さんに疑われるようなことをしてきたことは認めるよ、そもそも僕やってないけどね。だけど、愛香さんのことを盗撮したいと思ってる奴なんて大勢居るんじゃないかな?」

「――――はァ?」

「うううう。僕の友達の坂本も毎日愛香さんの椅子くんかくんかしてるし、加藤は愛香さんがトイレに行くタイミング予言できるし、内田は愛香さんの使ってるヘアコロンの中毒で……あいつら僕以上の変態――――」

「テメェたちの薄気味わりぃ道楽にゃ興味はねェんだよっ! 知りたいのはどこの誰がどうしてどうやってカメラを仕掛けたのかってことっ――――」

「あわわわっ! そうだった――――でもさ、単純にむりじゃね?」


 ブタは私に気圧されて、おどおどと勢い任せに話し出した。


「だって愛香さんのマンションはフルオートロックの鉄壁の要塞じゃん? しかも愛香さん用心深いから彼氏も、パピーすらまともに家に通さないでしょ? 隙ないよね?」

「…………」

 なんでこいつがうちのマンションのことを――それとパパのことも――なんて、今は気にしてるだけ無駄。私は余計な雑念を振り払っていう。

「本当に、……やってないんだな?」

「信用してちょうだいよっそうだよっ、そんな勇気あったら例のことでビクビク怯えたりもしないってっ――――」

「…………」


 確かにそうだ。臆病者のブタは、本当に犯罪になることには関わろうとしなかった。それならば誰が――いったいどうやって……。


「あ……愛香さん?」

 ――――ブチッ


 >>通話履歴・糸川一臣


 こうなったら一分一秒たりともブタの耳障りな声など聞きたくない。その場から立ち上がって、新しく着替えたパジャマ姿で周囲をにらみつけた。まだカメラが取り付けられてる可能性がある。いや――――もしくは犯人が隠れ潜んでる可能性も考えられた。


「――――!」


 だってそう――――相手が家から出た形跡もない。家に帰ってきた際に、鍵が空いているなんてこともなかった。毎日出入りに手間を掛けてまでも念入りにチェックしてるから、私の記憶違いは絶対にありえない。それに、先にもいったように、私の家は広い。使ってない部屋もある。だから私が活発に動いている間はひたすら息を潜めて隠れていられる場所だって無数にあった。そんなことを考えていたら――無性に恐ろしくなってしまったんだ。


「…………怖いよ」


 不気味な静寂の中で誰にでもなく弱気に呟いていた。


 私はごくりと生唾を飲み込む。周囲を見回す。耳を澄ませても物音ひとつしない。こうしてても仕方がない。武器には心許ないものの、手近にあったモップの柄を握り締めて足音を殺し家の中を巡回する。足取りは重い。


 はじめはリビングの奥にある六畳間の部屋。私が勉強部屋に使ってる部屋だった。

 衣装だな――机の下――ソファの下、ついでにタンス。いない。この部屋には誰もいないみたい。


 次はリビングに隣接する五畳間の和室。和室を見るけど、そもそも家具は少ない簡素な畳の間。見るべきは押入れだけ。心を決めて押入れの引き戸を開く――――そこには何もいない。私は和室を後にして最後の部屋へ向かう。


 渡り廊下とダイニングキッチンを区切る内開き戸。扉を開くと渡り廊下から冷えた空気が吹き込んできて心底辟易する。家の中に居ながら外のよう。玄関とバスルームに接続する渡り廊下に隣接してるのが三つ目の四畳半の部屋で、前の家の家具がぎゅうぎゅうに収容された納戸だった。

 扉を開く。家具の裏に何者かが身を潜めている可能性もある。入り口の方からモップの柄を使って家具を揺らしたり倒したりする。隠れられそうなスペースを潰していく。


「いない……?」


 私自身が部屋に踏み込んで直接確認する。

 いない。やっぱり私の家の中には他に誰も隠れてなかった。ホッと安堵する。盗撮カメラも他には何も発見できなかった。見つからないよう巧妙に細工されているのかもしれない。けれど、そんなことはどうでも良くなってしまった。

 それよりも、もっと恐ろしい可能性を予感した私はスマホを手にとって電話をかけようと思った。警察だ。これは明らかに犯罪だった。


「もうこんな家で暮らせない……っ」

 ――――ブブブ


 その時だった――――どこからか、バイブ音が鳴った。


「な……なに!?」


 身体全身が鳥肌が立って、思わず飛び上がりそうになる。

 その場で立ち竦む。じっと耳をひそめて、その音がどこから聞こえてくるのか懸命に聞き取ろうとした。

 ――――ブブブブ――ブブ


 小さな音だったけれど、バイブ音は相変わらず聞こえてくる。


 背後を振り返る。音だけを頼りに発信源へと向かう。すると、たどり着いたのは一度も見ていないダイニングキッチンに併設されたウォークインクローゼットだ。

 盲点だった。そう思った。そこは人ひとり隠れるには絶好のスペース。間違いない。そこには絶対に誰かがいる。手で口元を押さえる。恐怖に手が震えている。けれど――――このまま放置するわけにはいかない。私はモップを握る手にグッと力を込める。意を決して、クローゼットの戸に手を掛ける。


 グッと戸を引く――すると、何か重たいものが飛び出してきた。


「きゃあっ――!」


 思わず情けない声で絶叫してしまう。何かが私に向かって飛び掛ってきたのかと思った――――けれど、それは勢いそのままに床へと倒れこんだ。生き物ではない、何か重たい質量を持って戸によりかかっていた何かのようだ。


「み……み……どり……?」


 私は口元を押さえたまま、その物体を一瞥する。

 それはみどりだった。坂下みどり。私のもう一人の親友で幼馴染。私がこの地域に留まったのも、彼女がいたからといっても過言じゃない。そんな私の転居を引き止めた張本人が今、目の前で物言わぬ人形のようになって床に横たわっている。高校の制服姿のままの格好。


「そんな――どう……して……?」


 気になって床を見ると、何か四角いものがバイブし明るい光を放っている。スマホだ。みどりのスマホが彼女の手元を離れて、床の上でディスプレイが明滅している。


 >>新着通知・倉科愛香


 それは無情にも私のライン通知を知らせるもの。私がしつこく送っていた通知は確かに届いていた。けれど、奇しくもそれが彼女の居所を知らせることとなったのは皮肉のように思えた。


「みどり……みどり――みどりっ!」


 私は絶叫し彼女の肩に手を掛ける。彼女の目はぎろりと見開かれて酷く濁っていた。まるで……、まるでただの人形のようだった。


「どうして――どうしてこんなことに、なんで、みどりっ……こんなっ!」


 私は怖くなって、泣いてしまった。なにもわからなかった――なにも……ただ混乱する頭の中で床に倒れ付した親友の肩を揺さぶるしかない。その時だった――――。

 ――――ピンポーン


「――――!?」


 突然、チャイムが鳴った。インターホン。

 私は立ち上がって、ダイニングキッチンの壁に取り付けられたインターホンに接続する電子モニターに見入る。それは一階のオートロックの前の映像ではなく、いますぐそこの玄関ドアの向こうに立っている。何者かの映像だった。


「なんなの……?」

 ――――ピンポーン……ピンポンピンポーンピンポーン


 狂ったようにチャイムが鳴り続ける。私はモニターを凝視する。

 そこには、トランクスを履いた、長身の裸の男が立っていた。 

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