感情は焦燥と静寂の間で燻る
今日は金曜日。アパート傍のおばあちゃんの家にお泊り。一緒に夕飯を作って食べて、お風呂に浸かる。
「おばあちゃん」
眠りに就く前に質問する。
「なあに、佳奈子ちゃん?」
「…………。あたし、大学行っても大丈夫なの」
「だいじょぶよお。佳奈子ちゃんが来る前は、おばあちゃん一人で切り盛りしてたんだから」
「……」
知っている。
「病気も治してもらって元気元気。佳奈子ちゃんが東京に行ってる間も任せて」
「そうじゃないの……」
おばあちゃんももう80歳近い。持病が直ったとはいえ、昔と比べれば体力も落ちているし、目も悪くなってきている。
「ほんとに、いいの? あたしが居ない間に倒れたら……」
「心配性ねぇ、佳奈子ちゃんは」
撫でてくれる手の温かさは昔から変わらない。
大泣きしながら、慰められながら眠りに就いた。
次の日の朝。
おばあちゃんが銀行に用事を足しに行っている間、お客さんとして招かれていた人と自分とで向き合う。
「あたしはこのアパートを継ぎたいと思うんです」
おばあちゃんは『おばあちゃんが動けなくなったら、佳奈子ちゃんは好きにしていいのよ』と、やんわりと――しかしはっきりと『アパート潰して土地を売るなり、駐車場にするなり好きにしていい』と言った。
でも、それは嫌だ。
思い出のたくさんあるこのアパートがなくなったら、とても寂しい。
「でも、思い出だけで人は食べて行けるようにはならないわ」
「シビアだがその通りだな」
「冷静になって考えたの。ここは別に立地が格別良い場所じゃない」
悪いとまではいかないけれど、近くにある施設は小中高校の学校施設や普通のスーパーが主。定期的に学生の新住民が望める立地じゃなければ、駅近の便利な立地でもない。
「今は部屋が埋まってるけど、将来まで続くかって言われたら違うと思うの。……あたしには知識も経験もゼロ。大学ではそれに役立つことを学びたいです」
「うむ。良い判断だ」
「そんなわけで、経済学部の経営学科について話を聞かせてほしいです」
よろしくお願いしますと頭を下げると、青髪黄瞳の美女がふわあっと笑った。
「喜んで了解しよう。佳奈子に頼ってもらえて嬉しい!」
あ――、今日も可愛いなあ、翰川先生。
嬉しそうに笑っていた彼女だが、やがてきょときょととおばあちゃん家の茶の間を見回し始めた。
「しかし……ミドリさんが居ないというのに、僕のような怪しい奴がいてもいいものなのだろうか……?」
「大学教授が怪しい奴なわけないでしょ」
それに、おばあちゃんが居ないのは、アパートの管理のもろもろに必要な手続きを忘れていたのに気づき、慌てて外に出て行ったから。誰にも非はない。
「んむう」
照れ照れして、椅子の上で姿勢を正す。
「ミズリさんは?」
「ミズリはお仕事の後に、リーネアの元へ。前の温泉旅行のお土産を渡していなかったのでな」
「……リーネアさん可哀想ね……」
リーネアさんは変態であるミズリさんのことを嫌っている。本人曰く、パーソナルスペースの侵入に敏感な彼にとって、夫婦という間柄であれど翰川先生であればお構いなしなミズリさんは恐怖の対象らしい。
実際あたしも怖いし。ミズリさんいい人ではあるけど……
「いやあ……ミズリはリーネアを可愛がっているんだが、相性が悪いんだろうな」
「…………」
きっと彼女の鈍感さもリーネアさんへの追い打ちになっているんだろうな。
「まあそれはいい。で、経営学科についての質問だったな」
「うん」
「何人か親しい教授が居るし、そのうちの一人はシェルのお姉さんだ。内情にも詳しいぞ。何から聞きたい?」
「あたし、数理学部以外からは自分が入れないってわかってるの。それでも経営に行くことってできるの?」
経営を学ぼうと思い立ってから調べたものの、入り口である経済学部は文系科目の点数にかかる傾斜が大きく、あたしでは無理だと分かった。
「冷静な判断もキミの武器だな。心配いらないぞ」
彼女はスライドまで作って来てくれたらしく、ぶたさんプロジェクタで中空に表示し始めた。
「寛光大学の受験では、他の大学と同じように各学部学科の名を書き入れて入試に挑む。つまり、キミは数理学部の数学科だ」
「うん」
「しかし、もし本当にキミが望むのなら、出口を経済学部の経営学科に定めることもできる。要は卒業研究を数学科の研究室ではなく、経営学科のゼミで行うわけだ」
「……出来るのね」
「うむ。それが寛光の一番の特徴だからな」
自らが教員を務める大学の紹介と言うだけあって、彼女はかなり自慢げだ。
「入学時点で将来の夢が定まっていたとしても、大学やバイトで色んな経験をして、夢や目標が変化していくのは何も珍しいことではない。タイムリミットはあるものの、ギリギリまで自由なのが寛光の強みだ」
入学時と違う学部から卒業していった学生のリストが例として挙がっている。案外と多い。
「文系で入ってきても工業系サークルで実績を積み、授業もその手のものを選び……最終的には工学部の院まで飛び込んだ生徒もいる」
「凄い」
「本人の並々ならぬ努力もあったことを付け加えておこう」
それはもちろん当然だ。
「真逆の学部から学部へ行くのはリスクも高ければ要求される時間も多い。だが、キミの場合は特に問題はない。元々経済は数学から遠くないのだ。金勘定も数学の一種」
「うん」
工業簿記とかいろいろあるしね。
「なので、経営学科の点数傾斜は社会系と数学の能力が重視された設計になっている」
「何で社会……」
そのせいでそこを受験できないなんてショックだ。
「経営には社会背景や土地の性格、時勢への敏感なアンテナが必要。アンテナは大学で仕立てるとしても、基礎知識はあった方がいい」
「うう」
社会さえなければ……
「それはさておき。シェルのお姉さんが居るだけあって、経営学科と数学科は仲が良いぞ」
「その人頭ふつう?」
「……。悪竜関連で嫌な思いでもしたか?」
「そういうわけじゃないんだけど」
保険として一応聞いておきたいなって思って。
「彼女は常識人だよ。イヴというんだが」
「! まともだった人だ‼」
桃色髪の美人さん。物腰柔らかな常識人だった。
「……ああ……それは良かった……」
翰川先生が沈痛な面持ちでため息を吐く。しかし、すぐに立ち直ってあたしと向き合う。
「イヴはシェルと同じ養父母に育てられており、格別に仲良しだ。経営学科に移れず数学科に居たままでも彼女に面倒を見てもらえると思う」
「! ありがたや」
二人で話していると、鍵の開く音がした。
「ただいまー」
「お帰りなさい」
「お帰り、おばあちゃん」
おばあちゃんが洋菓子店の箱を開けて、中身をあたしたちに見せた。
「はい、翰川先生。りんごお好きでしょう?」
「……ミドリさん、ありがとう……」
アップルパイをもらった翰川先生が蕩けそうな笑顔になる。
「うふふふ。良かった。佳奈子ちゃんはパウンドケーキね」
「ありがと」
おばあちゃんはモンブラン。
世間話をする最中、おばあちゃんがふと翰川先生に問いかけた。
「シェル先生、お体の調子が悪いと……大丈夫なんでしょうか?」
え、あの人調子悪いの?
「……精神的に、少し落ち込むことがあったそうで。僕とリーネアとで勧めたんだ。丁度良くドイツの大学に呼ばれてもいたし、この際末っ子たちと奥方とで旅行してくればいいと」
「まあ。大学に御呼ばれなんて……凄い人ですねえ」
「うむ。シェルは凄い。なので、あまり心配は要らないと思うよ、ミドリさん」
「良かったわ」
おばあちゃんは足取り軽く台所へ向かう。『今日のお昼は任せて』とのことで、具材を切ったり煮込んだりし始めた。
手伝おうかと思ったらやんわりと『翰川先生のお話相手をしてなさい』と言われる。確かに、お客さん放置はいけないことだ。
「……リフレッシュ旅行だったのね」
「うん。4泊5日のヨーロッパ旅行。シェルは後期に授業を持っていないし、彼の研究生は天才ぞろいなので5日間放っておいたところで問題ない」
前にオウキさんが『類友研究室』と笑いながら教えてくれた。
そこに関わる可能性が高いあたしは全く笑えなかった。
「彼の事情はエルミアから聞いただろう」
「……うん」
重たかった。
「ここ最近、色々あったらしくてな。彼は精神外傷まみれなのに、気づかず動くからほぼ自傷行為だ」
「……」
無理をさせてしまったのかな。
帰ってきたら、いちごスイーツ買って渡そう。
「キミたち若者に非はない。帰って来ればいつものシェルだよ」
「そ。……なら、嬉しい」
「うん」
「ところで気になってたんだけど、悪竜兄弟ってテレパシー使えるの?」
人の心を読んだり、兄弟の居場所を何もなしに感知したりと好き放題だった。
「テレパシーを使える悪竜も居るが、他の世界から出てこないから違いそうだな」
え、やっぱりいるの?
ていうかあの人たち、テレパシー使えないならどうやって心読んでるの?
「悪竜たちは距離に関係なく互いの存在を認識している。世界が違えど、自分のいる世界に近づいてくればわかるそうだよ。特に、居るだけで魔力の流れを乱す鬼であるシェルは、テレパシーがなくとも居場所なんてすぐにわかるんじゃないかな」
「す、すごいわねー。……いや、それもそうなんだけど。心読まれたのは」
「気のせいだよ」
澄んだ目で言われた。
「……答えてくれてありがとう、翰川先生」
「どういたしまして」
あー可愛いなあ。
現実逃避にぴったりだ。
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