幻想と失恋は甘く苦い錯覚を
お昼ご飯を食べ終えると、翰川先生はあたしに社会の授業をしてくれて、夕方には……
「お風呂、お風呂っ。佳奈子とお風呂ー♪」
「……そんなに喜ぶこと?」
「うん!」
あたしと先生とでお風呂に入ることになった。
ちなみに、お風呂の時間の前に仕事から帰ってきたミズリさんはおばあちゃんとお話ししている。
何を話すのだろうか気になったが、初対面で『ミズリとミドリって似てますねえ。嬉しい偶然だなあ』と話し出して打ち解けていたミズリさんなら問題ないのだろう。
「あ、その。ぼ、僕の足。びっくりさせるかもしれないけれど」
わたわたする先生が可愛い。
小樽の温泉では、彼女はミズリさんと一緒に個室の温泉に入っていた。
他人の目のある大衆浴場は難しいのだろう。
信頼の証だと思えて嬉しい。
「いいの。気にしないわよそんなこと。……あたし、翰川先生のこと大好きよ」
「! 佳奈子ありがとう……」
――*――
「ご飯まで頂いてしまうとは……」
「いいんですよ。今までお昼も食べられてなかったなんて、お腹がすいて大変だったでしょう」
「いえそんな。……お孫さんも妻のお風呂の面倒まで見て下さって。ミドリさんには頭が上がりません」
「いえいえ。翰川さんたち、部屋を綺麗に使ってくれて、お家賃まで割高に払って……もっとお安く――」
「駄目ですよ。俺たちからの気持ちです。受け取ってください」
「……もう、ご夫婦そろって……」
「俺としては、ひぞれがあんなに明るくはしゃぐ姿が見られるだけで値千金なんです。……あれで意外と、大学ではみんなに頼られて気を張っていますから」
「教授さんですものね」
「光太くんと佳奈子さん、ミドリさんには大感謝です。……ポテトサラダにリンゴって美味しいですね。レシピ教えてもらえますか」
「うふふ、ひぞれさんとラブラブね」
――*――
翰川先生の生足は、膝より5センチ上ほどから残っていた。
断面のところに本人の皮膚と変わらない色と触感に合わせて作られたバンドを巻いて、足を保護している。
「……義足、水つけても大丈夫なの?」
「ん……足と言うより、保護するバンドの方がな。皮膚ではないから感覚がなくて、ヘタに剥がれたりするよりは外した方がいいんだ」
籐で出来た椅子に座り、脱衣所を兼ねる洗面所で足の準備をしている。
「体、支えてるね」
「ありがとう」
おばあちゃんが体を悪くしたときに困るから、風呂場のあちこちには手すりが設置されている。翰川先生も安心だ。
体を洗い終えて二人で湯船に入る。
家族用のお風呂だから、二人で入っても余裕があった。
(……一緒にお風呂入れるのはコウよりアドバンテージよね)
くすみ一つない真っ白な肌と、腰まで届く海色の髪が美しい。
「佳奈子とお風呂。嬉しいなー♪」
あ――、超かわいい。
寛光大学にファンクラブがあるというのも頷ける。サイトには、ファンクラブ1号&名誉会長としてミズリさんの名が入っていた。
あの人ヤバいなと思ったけれど、『そもそも大学公式ページに隠しサイトがあるってどうなの』と考えてみれば、寛光全体がヤバそうな匂いがしたので本人に追及するのはやめた。
「夕方のお風呂って格別な気分よね」
あたしはいつも夜に入るか、朝にシャワーするかが多い。
「夕飯を食べる前に入るからだと思うんだが、どうだろうか。幸せな気分だ」
「そうかもねー。先生、お湯の温度大丈夫?」
「適温だぞ。嬉しい心遣いをありがとう」
「先生って可愛いし美人だし頭いいし料理上手だしで……割と完全無欠よね」
「んむう……運動は出来ないし空気は読めないしで欠点まみれだぞ」
「それ以外何かあるの?」
人外ゆえの非常識さと、義足ゆえの身体能力の制限。そこは仕方のないことであって、本人の人柄には欠点が見当たらない。
「……ん……」
彼女はもじもじとして、恥ずかしそうに告白する。
「じ、実は音痴なんだ」
「……完全記憶なのに?」
生来の絶対音感が約束されているようなものでは……
「うっ……わ、わかんないよぅ……僕だって頑張って歌ってるのに……!」
どんな感じで音痴なんだろう。
つい最近、プロの歌手とのカラオケでプロがプロである所以を見せつけられたばかりなので、人外の人々の歌事情が気になってきてしまっている。
「ね。シェル先生は?」
「魔術詠唱しか聞いたことがないが……とても上手い、と思う」
あの人がカラオケで歌う光景が想像できないけど、上手いのか。
「リーネアは……リーネアはどうなんだろうな。鼻歌の音律は正しいから音痴ではなさそうだが」
「オウキさんとルピナスさん」
「凄く上手いぞ。リーネアの鼻歌を歌詞付きフルコーラスで教えてくれたからな!」
「先生いま歌える?」
「うっ、歌える……よ? でもその。意外と、高度な歌でな。僕でなくとも佳奈子にも難しい歌だから――」
「他の歌でいいわ」
「ふぇ……」
――*――
「お邪魔しまーす」
「いらっしゃい、コウちゃん」
「お、来たね」
俺がばあちゃん家を訪ねると、ミズリさんとばあちゃんがカラフルで古風な札で遊んでいた。
「……何してんすか、お二人?」
「花札だよ。光太もやる?」
「あ、花札。これが……」
修学旅行のしおりに『持ち込み禁止』と書かれていた物品の一つだ。
「賭けるのは禁止よ」
ばあちゃんがうふふと笑っている。
禁止されていた理由もわかった気がした。
「いやー……楽しそうではあるんですけど、汗かいたまんまなんで」
友人たちと勢いで海までツーリングしてきたのだ。
「風呂場貸してもらえたらって思うんですけど」
「佳奈子とひぞれがお風呂に入ってるよ」
それはまずい。待たなければ。
「そうなのよ。だから、待つ間に……ね?」
「……」
俺は修学旅行に参加したことがなく、友人が『花札持ってってこっそり遊んだ』というスリルも味わうことが出来なかった。
甘美な誘いに負けて、汗臭いことを謝罪しつつ卓を囲む。
――*――
翰川先生が服を着直すのを手伝い、髪の毛を乾かすのを手伝う。
「あんなに音外してるのに可愛いなんて反則よね」
「さ、さっきのはちょっと調子が悪かっただけだもん……」
彼女の『ふるさと』は非常に前衛的だった。
「ううう」
「ごめんってば。可愛かったよ?」
「違う。僕は、正確な音程で歌っているつもりなのに、どうしてかいつも……!」
涙目の翰川先生を連れて、リビングに戻る。
「よっす、佳奈子」
「来てたのね」
コウに手を振り返す。
「先生何で泣いてんの?」
「泣いてないっ……!」
いや、無理があるでしょう。
ぐすぐす泣きながらあたしに抱き着いてくる。
「ちょっ……せ、先生。ごめんってばー」
音痴がコンプレックスなのかもしれないのに、しつこくしてしまった。
「歌ったのに、佳奈子歌ってくれなかった……」
「……。『ふるさと』はデュエットに向かないと思うの」
「うえええん……」
「はいはい。いつかカラオケに行きましょう」
「あ、先生歌ったの? 可愛かったろ」
コウも彼女の歌声は聞いたことがあるらしい。
「うん。萌えた」
「……ひどい……」
ぐずる翰川先生をミズリさんに引き渡す。
「ミズリさん、どうぞ」
「ありがとう」
ミズリさんは嬉しそうに翰川先生を受け取った。
「ふふふ、ラブラブね」
おばあちゃんは微笑ましいものを見る目で夫婦二人を見つめている。
「…………」
なんとなく、コウを見る。
失恋したばかりのあたしの初恋相手は、眩しそうに翰川夫妻を見ていた。おばあちゃんとはまた違う表情と視線だと思う。
コウは両親が離婚したことを『俺のせいで一家離散』と冗談めかして言ったり、部屋にこもって泣いたりと、つらい時期があった。
コウ自身の失恋もキツいものだった。
それを乗り越えて恋をして――
(……その相手は、あたしじゃない)
わかっているのに寂しい。
どうしてあたしじゃないんだろう。あたしがコウと出会ったのは、京よりずっと昔からなのに――
「佳奈子。どした?」
「……な、なんでもない」
呼ばれて顔を上げると、コウが視界に映る。くそ、なんでこいつこんなにいい奴なんだ。
でも、こいつが好きなのはあたしじゃない――
「なんでもないってことないだろ、そんな顔で」
「うっさいわね。シェル先生から出された課題思い出してただけよ」
誠実な鬼畜は、誤魔化しの口実にされたことを怒るだろうか。
きっと、あたしが何も話さないでもこのことを見抜いて、呆れながら許すんだろうな。
(寂しい)
あたしは一人じゃないのに、孤独でいるような気がする。
なぜか? 自己分析をする。シェル先生の『座敷わらしの《子ども》という記号に抗うのは難しいこと。感情を尖らせる前に、よく考えなさい』というセリフを参考に。
……あ、やっぱ課題出してるじゃない、あの人。
「課題って……大変だなあ」
分析完了。人がたくさんいるというのに、胸の中でくすぶる嫉妬や傷心を吐き出す相手が居ないから、あたしは精神的な孤独を感じている。
「頑張れよ」
「うん」
おばあちゃんがコウの手を握って微笑む。
「コウちゃんがお泊りなんて、何年振りかしら。おばあちゃん嬉しくなっちゃう」
「俺も嬉しいよ。力仕事があればやるから、なんでも遠慮しないで言ってね」
「もー。いい男になって」
ホントにそうだ。
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