3.行こうと思えばどこへでも
ある日に
翰川先生とミズリさんが東京に帰ってしまうまで、あと少し。
「……うん! キミの数学力もなかなか向上してきたな」
嬉しそうに言ってくれるものだから俺も嬉しい。
「先生のお陰っす」
「ふふふ。そう言ってくれると嬉しいな」
現在、日曜日の朝。
翰川夫妻は今週金曜の夕方の便で東京に帰ってしまう。カレンダーを見る度寂しい。
「……あの、先生」
「なんだろうか」
「…………。俺、佳奈子に、何かしちゃったんですかね」
昨日のお泊り会が中止になったことを考えると、自分がまた何か無神経な真似をやらかしたのかと気が気でない。
「なぜそう思う?」
「あいつが泣くのって、けっこうなことなんですよ」
昔から気が強い佳奈子だから。佳奈子に泣かれると物凄いショックに襲われる。
「傷つけてたんなら、謝らなくちゃだし」
「安心したまえ、光太。明日以降で顔を合わせる場面になれば、佳奈子は自分から話すよ。キミが傷つけたせいじゃない」
「安心しました……」
良かった。
「うむ。心配事も消えたことだし、お店が空く時間まではみっちり勉強できるぞ」
先生は揺るぎなくスパルタだ。
「……ハイ」
現在時刻朝7時半。朝食はとっくに食べ終わった。
先生とゆっくりすごせる休日はこれで最後。気合を入れて臨む。
翰川先生は物理学の教授さんだ。
「僕は物理以外の分野にも出張することが多い」
「と言いますと?」
「一つずつ説明していくので、気長にしていてほしい」
了承する。どうせ店が開く時間までたっぷりあるし。
「科学は、数学・物理・化学・生物……などの基礎学問を文字通りの
「まあ、そうですよね」
足がかりになるものがなければ進まないだろう。
「電子機器を作るとなれば、物理の中の電気電流。物理と化学分野にまたがる材料工学。さらには情報工学などの発展が要求される」
出てくる名前がシンプルで格好いいなあ。
「どれを欠いても良い商品は出来ないが、一人がすべてをやるには領域が広過ぎる」
「あ。ってことは、翰川先生たち専門家が集まって開発に協力するんですね!」
寛光大学は学部学科が幅広い。つまり、基礎学問と応用学問の専門家がそれぞれ所属している。
「そうだ。……でもな、僕以外、あんまり他人と話が通じないんだ……」
彼女が珍しく疲れた目をしてため息をついた。
「……出張の理由が分かりました」
「うん……『他人と話したくない』というシェルやオウキを宥めたことも多数だ」
やっぱシェルさんオウキさんはそこに込みなのか。
「シェルのご兄弟も、レプラコーンたちも人見知りや変人が多いし、人間の教授でさえ変人だし……」
常識人が居ない。
「あ……その。へ、変人の割合は数理学部と工業系に多い。キミが目指す社会系にはあんまりいないぞっ」
親指を立てる翰川先生。
「結局いるんじゃないですか!」
毎回のことながら、それでフォローのつもりなのが凄い。彼女の言う『変人』判定ラインが常人より圧倒的に高いことは確かめるまでもないだろうし。
「それはともかくだな」
あっさり流された。
「神秘を使った製品は、神秘持ちが居なければ開発などまた夢の夢。寛光には稀有なアーカイブを扱える専門家や生徒が多数いるので、開発をしたいという企業が相談にやってくることがある」
「神秘だけなんですか?」
「外部から専門家を招くのにもお金が必要になるよ」
そうか。何もお礼をしないなどありえない。
「神秘が必要ない商品であれば、メーカーさんも自力で研究して商品を開発できるだけの力がある」
「へえ……」
「神秘について深く学べる大学は限られているので、そこも寛光のアドバンテージという訳だ」
こういうことを聞くと魅力的に思えるのだが、『変人まみれ』の情報を鑑みると何とも言えない気分になる。
「……翰川先生、人気だって聞きました」
「んむう……」
照れる先生が可愛い。
「確かに、希望してくれる学生は多いが……やっていることが理想と違うからと諦めていく学生も多いぞ?」
「え?」
「僕はあちこちで開発に携わっているが、そのほとんどは出不精な他の教員の橋渡しだったり、日本語を話しているはずなのに話が通じない教員の通訳だったり……あるいは協力を泣いて拒否する人見知り教員を引っ張り出す役だったりで。僕自身は、研究室を巻き込んだ商品開発なんてしていないんだ」
こう聞いてみると翰川先生凄いな。
周りの教員がどれだけヤバいのかが伝わってくると同時に、彼女の人心掌握術とコミュニケーション能力がかなり高いレベルであることも伝わってくる。
「もちろん、コードを使うとなれば僕自身が協力することはある。しかし、学生にコードが扱えるかと言うとそれはない。コード持ちが研究生に入っていても、扱いが未熟で協力をさせられないからな」
「事故も起きるかもで……あと、新商品の開発途中で情報漏洩なんてことになれば、大問題ですよね」
生徒さんを疑うわけではないが、情報はどこから漏れるかわからないものだ。
ついでに、まだまだひよっこな学生が専門に切り込んで開発に参加できるということはないだろう。教えながらやるにしたって、本当の開発現場を教材扱いにするのは失礼だ。
「うむ。僕もしたくない。僕を信じてくれる相手方の皆さんへの誠意だ」
胸を張って宣言する先生。
「インターンシップなどで経験は積めるので、開発に携わってみたい生徒はそういう制度を利用すると良いと思う。企業側も生徒に体験してもらって、自分たちに興味を持ってほしいと考えて開催しているので、余程失礼をしない限りは好意的に受け入れてくれるぞ」
「なるほど」
「そんなわけで、僕が普段していることと言えば地道な作業だ。時期にもよるが、実験より計算していることも多いかな」
「計算ですか?」
「うむ。かなり地味で地道な作業の連続なので、僕の研究室がやっていることを知った学生はそこでギブアップする人も多いぞ」
ギブアップなんて。翰川先生に憧れて入ってきたというのになんだか薄情に感じる。
そう伝えてみると彼女が苦笑した。
「いやいや。大学に入ってみて『なんかイメージと違う』と思うのはよくあることだよ。どの教授の元に就くかなんて、大学人生を左右しかねない選択だ。楽しさと興味がなければ研究なんてやってられないという瞬間が来るのだし、それは学生のせいじゃない」
「そういうもんすかね」
「そうだ」
彼女は『例を挙げておこう』と前置きして話す。
「実験中に『幻覚が見える。今から天に昇る』と叫んで大学を飛び出していった化学科の生徒が三日後、爽やかな笑顔で帰ってきた。そして『実験しましょう、先生!』と。自らが不向きだと思っていたことでも、楽しみを見つけ、努力で花開くこともあるのだ」
「考え得る限りやべーと思います」
何でそれを例に選んだんだ。
「今では別人になったかのように真面目な研究者だ。就職も薬品会社の研究部門」
「大丈夫ですかその人。キャトルミューティレーションとかされてません?」
「各種分野で教員生徒ともに伝説のある寛光大学だが、僕の研究室はいつも和やかだぞ。安心してほしい」
「あははは……え。あの、社会学部にも、そういう話あるんですか……?」
出来ればないといいのだが。
「たぶんないんじゃないかな」
「今度その『たぶん』取って来てください。社会学部の人に聞いてもらえたら……」
「? よくわからんが了解した」
分かってください。
「社会学部は伝説より怪談を聞くことの方が多いな。七不思議どころか五三不思議くらいあると聞いている」
「ああああああ」
どうなる俺のキャンパスライフ。
「一つ言っておこうと思っていたことがある」
「……何すか?」
「大学でいろいろ違うが、寛光では研究室・ラボ、卒業研究と呼ぶのは理系。ゼミ、卒業論文と呼ぶのが文系。……今までキミと会って来たのは理系よりな面子だったので、教えておこうかと」
「そうなんですね。ありがとうございます」
丁寧な人だ。
時計を見ると、まだ8時過ぎだ。
「……あの」
「なんだろうか」
「先生の相方さんってどんな人ですか?」
出禁の間、研究生の面倒を見ているという相方さん。
会ったことはないが、きっとこの人と組んでいるのなら苦労人なんだろうなと思う。
「ふっふっふ」
待ってましたとばかりに嬉しそうに笑う。
「実は! 僕の相方の教授は、僕の双子の妹なのだー!」
――え?
翰川先生は人工生命だ。
女性の胎内からでなく、培養水槽と呼ばれる装置の中で育まれて生まれてくる生命体。
どうしてそれで双子が生まれるのか。
「僕と全く同じ遺伝子配合で生まれた人工生命なので、双子だ」
「っ……」
「優しいキミが好きだよ。仲はいいから安心してほしいな」
彼女は『よしよし』と俺を撫でた。
「賢くて可愛い妹は、いつも僕を助けてくれるしっかり者だ」
「……良かった、です」
「うん」
華やかに微笑む。
「僕はみんなに支えられて生きている。いつもそう思うよ」
至言だった。
9時半になったところで家を出て、バス停に向かって歩き出す。
「デートだな」
「……嬉しいですけど、ミズリさんに申し訳ないっつーか」
「ふふふ。ミズリにはきちんと報告してきたから安心してくれ」
え、俺殺されるの?
昨日メールで伝えておいたが、不安になってきた。
「バス停まで歩いて行こう」
「足は……」
「平地なら歩けるんだ。医者からも、短距離でいいから歩けと言われている」
今日の彼女は、出会ったときと同じ格好をしている。
たった二カ月前なのに、なんだか懐かしい。
「それに、僕はキミと一緒に歩きたい」
「……わかりました」
「ありがとう」
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