街の方へ

 翰川先生のいうバス停は、俺が普段利用している最寄りのものではなく、少し離れたところにあるバス停だった。

 ゆっくり歩いて行くと、ふと先生が口を開く。

「覚えているかな」

「? なんですか?」

 悪戯をする子どものように無邪気な笑みで振り返った。

「僕は今、出来る限り、あの日自転車で逃げたキミが辿ったルートを選んで歩いている」

「え……」

 完全記憶の彼女からしてみれば、俺自身は覚えてもいない道順を思い出して辿るのも、造作もないこと。

 言われて思い返してみると、確かにあの日のルートはこんな感じだった気がする。

「キミときたらいきなり走り出すものだから、驚いてしまった」

「必死で逃げてたんですって。……ぼんやり覚えてるとこもありますけど、先生ほど正確には……」

 なんせ、瞬間移動で追いかけてくる人外から逃げようとしていたのだ。あっちこっち戻ったり遠回りしたり、先生を振り切ろうと自分なりに試行錯誤した。

「ふふ。ぐるぐる回っていたところや行き戻りしたところは省略しているし……バス停までだから、道も少し短いんだが。僕は昨日のことかのように思い出せるよ」

「…………」

 彼女の記憶は、良いことも悪いことも些細なことも……何でも記憶している。

 単純に言っていいことではないだろうが、こういうふうな使われ方をすると、彼女にとって悪いことばかりではないのだなと感じた。

「ところで、どうして自転車にミラーを?」

「ミラー? ああ、ハンドルのですか」

 俺の折り畳み自転車のハンドルには、後方確認用のミラーを着けている。そんなことまで覚えているんだな。

「友達と自転車であちこちツーリングとか行ってたんで、そんときあると便利だなーと」

 交通費と宿泊費をかけるのも勿体ないという理論で、高1高2の夏休みに、仲のいい男子連中と自転車でキャンプに行ったこともある。

 集団でダラダラ走っても迷惑なので、間隔を空けながら縦一列で走った。その際は仲間の位置確認に背後を見られるミラーが役に立った。

「後ろ見える手段があるだけで、結構安心感と安全が違いましたね。人が来てる車が来てる。友達が遅れ気味……みたいな情報がよく見えました」

「周りを見るのは良いことだな。……車を運転したときも、そこで培った余裕はなかったのか?」

「ないっすよ。死の恐怖に直面してたんですよ?」

 またも懐かしい。よくわからないうちに奇妙な世界に放り込まれ、よくわからないうちにハンドルを握って車を運転した。

 リーネアさんのアドバイスに従って運良くこなせただけだ。何とか生きて帰って来られて良かったと思う。

「そうだったな。ごめん」

「先生って免許持ってるんですか?」

「僕は運転できないんだ。足の感覚がないから」

「……すみません」

 頭を下げると、彼女が首を横に振った。

「いや、いいんだ。僕はキミの質問に答えた。気にするほどのことじゃない」

「……」

「感覚が一切ないわけではなく、触られたことに気付ける触覚くらいならある。だが、微細な調整となると難しい。ブレーキやアクセルを踏むときは足の感覚が重要だからな。運転中に足の接続が悪くなってしまった場合も考えると……僕は自己判断で免許を取らないことにしたんだ」

 ああ、やっぱり彼女はどこまでも彼女らしい。自分を客観視して、自分を律している。

 無邪気に見えても、しっかりした大人だ。

「なので、車を運転できる人を尊敬している。光太は免許取るんだろう?」

「はい」

 就職するにもいつか自分で車を持つにも、便利で必要なものになるだろうと、最近は勉強の合間にネットで情報を漁っていた。

「調べたら貯金から出せそうな額だったんで……一応、父にも相談しました」

 父は出してやると言ってくれたが、今まで手を付けていなかった仕送りとバイト代の分がけっこう貯まっていたので、援助はいつか車を買うときにしてほしいと頼んだ。

「なら問題ないな。大学経由で申し込むと安くしてくれる自動車学校もあるから、考えておくといい」

「ういっす」

 バス停が見えてきた。

 辿り着いた瞬間に、バスが向こうの交差点からこちらに走ってくるのが見えた。

「……先生って凄いですよね」

「びっくりさせたかった」

 あー可愛い。

「望み通り、びっくりしましたよ」

 バスが目の前で停まった。



 二人掛けの席に座れたが、翰川先生からとても良い香りが漂ってくるという問題に直面した。年齢=彼女無しの俺には刺激が強すぎる。

「……先生、シャンプーどこの会社の使ってるんですか?」

 知ってはいるが、本人からも確認しておきたい。

「ん? ミズリがいつも用意してくれている。ミズリの立ち上げた会社が作っているシャンプーだ」

「…………」

 ミズリさんはレベルの高い変態だと思う。

 翰川先生のことを心から愛し抜いているのはわかるのだが、愛が非常に重たい上に愛の質が変態だ。とても、変態だ。

「シャンプーだけではない。洗顔フォーム・ボディソープ・リンス・化粧水もミズリが用意してくれる」

「そ、そっすか……」

「美容専門の魔法を使う魔女の協力を得て開発したものだそうでな。値段はお高めだが、けっこう人気商品なんだぞ」

 そのすべて、翰川先生のためなんだろうな……

「……ミズリさんの神秘って何なんですかね」

「うむ? ミズリめ、教えていなかったか」

 聞くのが怖くて聞いていなかっただけだ。

 これで『ひぞれを観察するのにぴったりな神秘だよ』とか堂々と語られたら俺はどう反応したらいいものかと。

「プロンプトという、時系列を自由にする神秘だ。薬品の反応が失敗してもある程度やり直しが出来たり、長くかかる反応を速めたりなど、自分の会社で役に立っているぞ」

「思ったよりまともで良かったです」

「まともって……ミズリはいつも常識人だぞ?」

 いえ、先生に対してだけは過剰な変態です。

 言えない。絶対言えない。

「ですねー」

 そして翰川先生の誤解は加速していく。

 ……でもまあ、ミズリさんが先生を愛しているのは紛れもない事実だし、先生がミズリさんに惚れ込んでいるのも事実。

 下手に知らせないでもいいだろう。これまで夫婦でやってきているんだから。

「そうそう、驚いたのはお風呂だ。僕が先にお風呂を溜めて入って、仕事終わりのミズリが来た時には冷めてしまった。そのとき、ミズリはプロンプトで時間を巻き戻し、僕が入浴剤を入れたときのお風呂に戻したのだ」

「へえ、そりゃ凄……い」


 入浴剤を入れた瞬間のお風呂に戻した。

 →翰川先生は固形入浴剤と一緒にお風呂に入って、溶けるのを楽しむ派(前に先生自身が言ってた)

 →つまりミズリさんは奥さんがお湯を沸かした瞬間ではなく、奥さんが入浴した瞬間の風呂に入りたかった。

 →おそらく、『これでひぞれと一緒に入ったのと同じになるよね』みたいな発想で。


「…………」

 予想以上にやばい。

 この能力があれば、翰川先生が食べたラーメンや蕎麦の残りをほかほかにして食べることもできてしまう。

「い、いやあー……沸かし直すのも、ガス代水道代勿体ないですもんねー。いいですねー。羨ましいなあー。さすが翰川先生の旦那さん」

「ふっふっふ。僕の夫は凄いだろう」

 自慢げにする翰川先生が可愛い。背筋を冷やした俺には一番の癒しだ。

「しかし条件もあってな。もし僕がお湯を抜いてしまっていたら、それを湯船に再び出現させることは出来ない。巻き戻せるのはお湯自身の時間だけなのだ」

「制限あるんですね」

 なかったら困るか。

「資源を無尽量に生み出せることになってしまうからな。いくら神秘とはいえ、そこまでの無茶は利かない。他の神秘と組み合わせれば別だが」

「組み合わせなんてあるんですか」

 もしミズリさんの能力の制限を超えてしまった場合、『ひぞれの食べたご飯を復活させて食べよう』という発想をしかねないので、出来ればそれはなしでお願いしたいのだが。

「あるぞ。有名なのは時間停止装置だ」

 現代では一家に一台というほど売れている人気家電。それを翰川先生が主導で開発したのは知っていた。

「あれはコードとスペルの合作」

 彼女の身近なスペル持ちとなれば、無条件で鬼畜の人が必要になる。

「シェルに頼み込んで了承してもらったら、拗ねて一週間くらい口をきいてもらえなくなった」

「…………」

 シェルさんも揺るぎないなあ……

「拝み倒して頷いてもらった翌日、装置を作る際に必要な計算や開発実験の際に憂慮すべき項目などすべて網羅された、予言書に近い書類をもらって。それ以降一週間……」

「あの人も天才なんですね」

 わかっていたことだが、有り得ないくらいに知能が高い人だ。

「彼こそが天才だよ。……僕なんか計算できる量が多いだけだから」

 先生がため息をついている。

「喋ろうとすると涙目になって逃げられるし、いつもなら頼みに来る電話も他の人に頼んでしまうし……寂しかった」

「電話?」

「彼は大学の内線……まあ、要は部屋備え付けの電話にコールがかかってきたら、怯えて僕に代わりを頼んでくるんだ」

「……いいんですか、それ?」

「電話嫌いだからなあ……僕がシェルに用件を伝えて、あとはシェルがメールか手紙で対応している」

 通訳を間に挟んでいるようなものか。

「ってか、俺が着信拒否されてたのも……」

「電話が嫌いだからだよ。キミが嫌いなわけじゃなくて、誰しもに平等に着信拒否している」

「社会人向いてないのでは」

「本人もそう言っているよ。あと、時間停止の制御にはパターンも必要だったので、リーネアに頼んだ。あの時ほどリーネアが素直で可愛い妖精に見えた瞬間はなかった……」

 苦労しているんだな、この人。

「着いたから降りようか」

 バスは、地下鉄駅そばのターミナルに入った。


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