ふたりで

 ゲーセンでの戦利品であるお菓子をつまみながら、数学を教わる。

「けっこう数学に力入れて教えてくれますよね」

 物理教授さんなのに。

「数学が理系学問の根幹だからだ。中でも、物理は現象を数学で表し、理解しようとする学問。式を変形しようにも問題を解こうにも数学は必要だよ」

「……」

「数学を通して計算力をあげることは、物理で式や数値を整理するのに役立つし。数学的な考えを身に着けることで、分からない問題に直面してもとっかかりを見つけられたりする。他の理系学問も同じだ。……こればかりは、言葉で言うよりキミ自身が経験した方が楽しいだろうな」

 先生の言っていることを実感することは出来ていないが、目を輝かせて言うのならば、間違いはないのだろう。

「いえ。先生がこんなに夢中になるなら、役に立つものなんだなって思います」

「! ふふ。嬉しいな」

 喜んでもらえて俺も幸せだ。

 少し恥ずかしいが、彼女になら本心を言える。

「それにですね……三崎さんが、科学雑誌を読んでるらしく。……話が出来たらな、と」

「共通の話題作りは良いアプローチだな」

「三崎さんの好みが生物系と物理だっていうのはわかったんすけど、雑誌がハイレベルで」

 雑誌名がわかったとて、俺の理系力ではついていけないのだ。

「京は中学校時代からその手の本を読み漁っていたそうだから、基礎から応用までがっちり固まっている。キミが一朝一夕で追いつけるものではないよ」

「……ですよね」

 わかってはいるのだが……

「だから、もしタイミングが合えば一緒に勉強するときに教えてもらったり、大学に入ったら『そっちの学部はどんなことしてるの?』と聞いたりすればいい」

「そんな方法が……!」

 思わず手を打つ。

「キミたち若者はみんな真面目だな。勉強する心構えは良いものだが、恋愛の駆け引きとなると別だと思うぞ」

「先生はミズリさんとどうだったんですか?」

「んむ。……彼と日々を過ごしているうちに好きになって、出会って半年で結婚した」

「おお……」

 翰川先生が乙女だ。

「僕の場合は、運命の相手であるミズリと最初から出会っていたわけだからな……その点では、心の射止め方はシェルとかルピナスの方が得意なんだ。頼ってみるといい」

「そのお二人、いろんな意味で気軽に頼れそうにないんですけど」

 片方は鬼畜の人で、もう片方はルピネさんにプロポーズをしまくる美女だ。

「? 二人とも優しいよ」

「先生にはね?」

 安定の人物評価に逆に安心する。

 これぞ翰川先生。

「というか、ルピナスさんってどういう方なんでしょう」

 動物園では親切にしてもらったし、優しい人だとは知っているが、プロポーズが気になる。

「オウキによく似て、素晴らしい技術を持った天才肌の職人さんだ。同性にモテるタイプの女性でもある」

「あー……」

 ルピナスさんは、(ルピネさんにプロポーズするとき以外は)颯爽として格好いい女性だった。

「『あなたのためなら一線も越えられる』という真剣な恋心を向けられやすい彼女は、下手な男性より女心をわかっている。京との距離感に迷ったら頼れるぞ」

「なんか大変そうですね」

「魔術界隈では追っかけのファンがついている」

「洒落にならん……」

 俺の見立てが合っているなら、ルピナスさんはたぶんルピネさんに本気の恋をしている。ルピネさんはそれに気づいていない。……直にプロポーズされて気付かないのもなかなかだが。

「ルピネは男女関係なくモテる。ついでに鈍感なので、シェルとアネモネが日々頭を悩ませる罪な女性だ」

「……」

 二人のファン層には違いがありそうだし、きっと派閥同士で水面下の争いも起こっているのだろうな……と思えるようなお話だった。

 男も女も熱気を持って集団になれば怖いものだ。

「あ、シェルについては心理学的な側面から的確なアドバイスをしてくれるので、物凄く頼りになるぞ。大学でもお悩み相談を受け持っている」

「なんか意外っす」

 まあでも、けっこう面倒見良い人だしな。頭もおかしなほど良いから、頼りになるのは間違いない。

 問題は頼ろうとするまでの心のハードルが高いことだったりするが、先生に言っても理解されないこと請け合いなので諦めた。

「先生だって的確なアドバイスしてくれてるじゃないですか。ありがたいです」

「んむう。……全部他力本願なような気もして、申し訳ない」

「そんなこと言っちゃったら俺なんか人生全部そうですよ」

 助けが必要な時は人に頼るのも大事なことだ。この真理はいろんな人から教わっている。

 特に、彼女からは何度も言葉と形を変えて教わった。

「先生。好きです」

「今日のキミは事あるごとに告白してくれるんだな。嬉しいが、恥ずかしいぞ?」

 ほんのり赤い顔でもじもじする先生。

「今日で、先生と過ごす休日、最後じゃないですか」

「ん。……そうだな」

 先生は、いつも明るくて優しくて。

 赤の他人な上に生意気なバカだった俺にも手を差し伸べてくれた。

「……だから、なんか。今日はですね……」

「?」

 自分の心がわからなくなってきた。

 ぽっかりと穴が空いたような、目の奥と鼻をきゅっと摘ままれるような。

「…………。光太。どうした?」

「……うん」

 今日は楽しくて、楽し過ぎて――寂しかった。

「翰川先生」

 椅子の上で姿勢を正し、先生に向き直る。

「ん。なんだ、光太?」

「好きです」

「んみゅぐっ!?」

 あ、やべ、超可愛い。

 俺は先生のファンなのかもしれない。いやファンだ。

 恋心なんかじゃなくて……敬愛している。心の底から尊敬して、憧れている。

「…………。すごく好きで。尊敬してます」

 言い尽くせない。

「……光太……」

「あのとき。……夏休みのあの日、助けてくれて、ありがとう」

 あの日出会わなかったら。アイスを奪い合わなかったら。

 俺は今日を楽しむこともなかった。今みたいに大学を目指そうなんて思うことすら有り得なかった。

「ありがとうございます。……ほんとに」

「……どういたしまして」

 強引に異世界に連れ出して、強引に小樽に連れ出して。

 動物園にまで行けたのは、彼女がお友達に俺のことを伝えていてくれたから。

 遠出の学校行事が壊滅していた俺のことを案じて。それが代わりにならないことを知っていても――俺がそう思えないかもしれないことをわかっていても、連れ出した。

「そんなにお礼を言わなくたって伝わっているのに」

「…………何度言っても、足りないから」

 アホの極みだった俺に勉強を教えてくれた。

 彼女からしてみれば『何を当たり前のことを聞いてるんだこのアホは』と思ってもおかしくなかったような質問をいくつもした。それでも根気よく付き合ってくれた。

 “知る”ことがこんなに嬉しいことだと実感することもなかった。


 彼女は宣言通り、俺を籠から出したのだ。


「……」

「光太?」

「あり、がとう」

「……うん」

「籠の外に出してくれて、ありがと……っざいます……‼」

 翰川先生の手を握りしめる。

「…………」

 なんでこんなに涙が出るんだろう。

 いつもみたいに、軽いお礼を言うだけのつもりで。照れ隠しのつもりで言い出したのに。

 涙と言葉が収まらない。

「っ……」

 泣いたのは何年ぶりのことだろう。

 翰川先生はその綺麗な顔を困ったように笑わせて、俺を抱きしめた。

「アイスを取り合った日に、僕はキミに救われたんだよ」

「……」

「こちらこそありがとう。僕はキミの誠実さから教わってばかりだ」

 限界だった。

 声にならない嗚咽を堪える俺を、彼女は優しい笑顔で見守ってくれていた。



 ようやく収まった後にタオルで顔を拭う。鏡は見ていないが、きっとぐしゃぐしゃで酷いもんなんだろう。

「母さんが出て行く時、涙ひとつ出なかったんですよね」

 あんなに好きだったのに。寂しかったのに。

 翰川先生相手だと素直に泣けた。

「薄情だな、俺」

 彼女は俺をじっと見て、俺の額を指でつつく。

「僕はキミを慰めることはできても、キミの思いを肯定することはできない」

「……はい」

 わかりきったことだ。

「当時のキミを知るのは、自分とご両親だけ。キミが認めないで誰が自分を認めてくれるというんだ」

「…………」

 一度泣いたら涙腺が緩んだのか、目が痛くなる。

「……先生のこと好きです」

「うんうん。僕も大好きだぞ」

「尊敬、してます。……俺に、こんなに……優しくしてくれて、ありがとう」

「キミが優しいから、それを返しているだけだよ」

「先生は俺のこと、泣かしっ……たいんですか」

 泣くのを堪えたせいか、呼吸のリズムが変になってきた。久しぶり過ぎて、こういうことさえ忘れている。なぜか笑えて来た。

「なんだかんだと光太は強いからな。……泣くとすっきりすると思うし、堪えなくてもいいんだぞ?」

「……先生が居なくなるの、すごく寂しいです」

「んっ……そ、そうか……僕も、寂しい」

「すき焼き、しましょう。ばあちゃんと佳奈子と、ミズリさんと一緒に」

 今になって寂しさが溢れて来た。ばあちゃん家にお泊りなんて小学校ぶりだったのに。

「そのためには佳奈子と仲直りだな」

「します。絶対します」

 佳奈子がなぜ傷ついたかはわからないが、佳奈子がいい人なのは知っている。もし俺に原因があるのなら謝罪したいし、佳奈子が俺に言いたいことをきちんと受け止めたい。

 そんで、みんなで一緒に東京に行くんだ。

「……俺は、寛光に行きます。そんでまた、先生に会いに行きます」

「うん。待ってるね」

 頭を下げて誠意を示す。

「金曜日まで、よろしくお願いします」

「ミズリともどもお世話になる」


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