レモン入りの水
芝浜 与一
第1話 突然のコール
平日の夜、電話が鳴った。
「もしもし、私だけど。」
心当たりのある声が受話器越しに聞こえた。
昔、よく喫茶店で出ていたレモン入りの水を飲んだ時のような、春先の夜に吹く風のような、表現のできない感覚が耳元で聞こえた。
「もう忘れたよね、私のことなんて。」
二言目に聞こえた彼女の声で、遠い記憶が目を覚ました。
「夏菜子だね。」
「そうよ。私。覚えててくれたんだ。」
「どれくらいぶりだろうね。こうやって電話するの。」
「きっと、四年は経つんじゃないかな。」
夏菜子の問いかけに僕は答えた。
夏菜子とは大学の二回生の頃付き合い始め、それから1年程付き合って別れた女性だった。
同じサークルに入っていたけれど、別れをきっかけにお互いサークルを抜けてしまって、連絡も同時に取らなくなってしまったのだった。
「あの頃は、些細なことで喧嘩したりして、いつも別れ話になって、長電話してたよね。」
夏菜子が僕に言った。
「本当に懐かしいね。あの頃が。」
「本当にそう思ってるの。」
夏菜子は僕に問いかけた。
「そう思うよ。だって、あんな頃は青春だったなって。」
「青春って、青い春って書くよね。」
唐突に夏菜子はそう言った。
「確かに、そうだけど。どうしたの急に。」
僕は夏菜子に問いかけた。
「いや、何となくそう思っただけだよ。」
何だ。よくわからないことを言うものだと思った。
「こんなことを聞くのも、少しおかしいかもしれないけど、夏菜子、酔ってるよね。」
「酔ってなんかないよ。ただ番号変えてないのかな。何してるんだろうって気になったから。電話してみたの。」
夏菜子は、恥ずかしさを隠そうとしたのか、急に早口になった。
「夏菜子こそ、僕のことなんて忘れてたでしょう。」
「そんなことないよ。私は私なりにあなたのことを気にしてたの。」
「別れてから、どんなものを追いかけて、どんなことをして楽しんで、どんな夢を見ているんだろうって。」
夏菜子の口から出てくる言葉に、驚きを隠せずにいた。
「そんなに僕のことを思っていたなら、なぜあの時、別れを選んだの。」
僕は夏菜子に問いかけた。
「当時は、私も追いかけたいこともあったし、あなただって追いかけるものがあった。」
夏菜子は答えた。
当時の僕は、頭の中で描いていた世界を文章にすることでいっぱいで、現実を疎かにしてしまった。
当時の夏菜子も同じように、自身を表現することに精一杯で、お互いの環境を考えて、別々の道を選んだのだった。
「当時のことを思い出すのに、時間がかかったよ。」
「あなたの本、この前読んだよ。」
「あなたを知っていた気になっていたけど、あなたの世界を知らなかった。」
僕は夏菜子の言葉にまた驚かされていた。
「僕たちが同じ時間を過ごしていたのは、時間にしてみたら、とても短いからね。」
「そう言われると、そうね。」
夏菜子は納得していた。
他愛もない昔話を続けていても、何も起こらない気がしていたので、次の開口で電話を切る方向へ促そうと思った。
「そろそろ、寝ようと思うんだけど、切ってもいいかな。」
「四年ぶりくらいに、声聞いたのに。もう電話切っちゃうなんて。薄情な人になったのね。」
夏菜子はまだこの他愛もない話を続けたいようだった。
「明日、編集部と打ち合わせがあるんだ。」
「その打ち合わせが終わってから、また電話してもいいかな。」
「まだ、原稿の仕上がりもチェックしてないんだ。」
僕は仕事を理由に夏菜子から逃げようとしていた。
何故だろう。
久しぶりに声を聞いて、ときめきを覚えてもいいはずなのに。
口の中が渇いて、今にでも水を飲みたかった。
あの喫茶店で出てくる、レモン入りの水を。
「わかったわ。あなたがそう言うなら。明日、あなたの仕事が終わったら、連絡してね。」
夏菜子が僕に言った。
「わかった。打ち合わせが終わって、自宅に帰ってきたら、電話するよ。」
「今日は突然、電話してごめんなさい。あなたからの連絡を待っているわ。おやすみなさい。」
「うん。おやすみ。」
そう言って電話を切った。
明日、電話をする約束をしてしまった。
何を話したらいいんだろう。
今更、何を夏菜子に求めたらいいんだ。
頭の中を駆け回って、朝まで考え込みそうだった。
冷蔵庫から冷えたビールを取り出して一口飲み、タバコに火をつけて、またビールを口に運んだ。
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