月島なぎさⅡー3
それは長い時間だったかもしれないし、ほんのわずかだったかもしれない。高校生の月島なぎさがぴくりと動いた。最初はほんの微かに、やがてすこしずつゆっくりとそれは指から手のひらへ、そして腕へと伝染していった。緩慢で、それでいて震えながらも、なぎさの腕が上がる。たどたどしく、胸の前までその腕を持っていき、そして優花の方に伸ばそうとして、躊躇する。優花はあいかわず何も言わない。ずっと手を差し伸べたまま揺るがない。
なぎさは体を起こした。触れていた背中が、化け物の胸元から離れる。不安定な弱々しい足取りで、右足を踏み出す。手は胸の前に携えたまま、指は軽く閉じたまま、開きかけようとする花のように、優花に近づこうとする。
優花もまたなぎさを掴もうと、さらに腕が食い込むことにもかかわらず、背筋を伸ばした。
なぎさの腕が、怯えながらも伸びていく。指が静かに開いていく。人差し指の先端が軽く触れ、やがて手のひらが重なり合い、指と指とが交差する。ほのかな体温と、滑らかな感触が全体に広がる。その柔らかさを包み込むように、優花は指を折り曲げた。なぎさも同じように手を握る。
その光景を見届けると、化け物の体は霧となって消滅していった。支えを失い、倒れそうになった体を優花が引き寄せる。なぎさもまたその身を任せ、体重を彼女に預けた。
心地よい感触に満たされ、目をつむった。
とても懐かしい、いい匂いがした。
なぎさは優花の背中に手を回した。優花もまたなぎさを抱きしめた。瞼を開けると、すぐ目の前に優花の顔があった。
「なぎさ?」
不安げな瞳でそう訊ねてきた優花に、なぎさはうなずいてみせた。なぎさにはわかっていた。その証拠に、もう小学生姿の自分はどこにもいなかった。私は戻ってきたのだ。
「おかえり」
と、優花が言った。
「ただいま」
と、私が答えた。
何年かぶりに交わしたその言葉は、つい昨日のように普遍的で当たり前のことだった。
それが無性におかしかったのか、2人はくすっと笑うと、もう一度強く抱きしめ合った。
「うっ……」
優花が苦悶の声を上げる。見るとわき腹からとめどなく血があふれていた。
「優花!」
「だいじょぶだから」
全然平気そうじゃないのに、彼女はおどけた表情を見せた。
すぐに手当てしないと、そう行動に移そうとした瞬間、何かが割れる、とてつもない大きな音が鳴った。
空間が壊れ、暗闇が崩落していく。
眼球程度だった穴が一気に広がる。同時に、血の色に似た赤黒い光が、なぎさたちのいる場所を照らした。
「なんで、化け物は死んだのに!?」
桐山の言葉が思い出された。
——もうどうあがいても止めることはできない。
「ウソ……」
「間に合わなかった?」
数センチだったそれは、いまや何10倍にも膨張していた。天井や壁が次々と砕け、落下していく。照りつけられた赤い光とともに、瘴気が噴き出し、なぎさたちのまわりへと瞬く間に充満した。
なぎさは胃の中のすべてのものを吐きだそうとするのを、すんでのところでこらえた。釘で打ち付けられたかのようなひどい痛みが頭を駆け巡る。瘴気に耐性があったはずなのに、いまこの場にある空気の濃度はその限界をゆうに超えていた。耐えきれずに膝をつき、その場に倒れこむ。
そんななぎさたちをよそに、化け物たちが一斉に降り立つ。多種多様なそいつらは、そのグロテスクな肉体を惜しげもなく見せびらかし、あさましく笑い合っていた。
それは勝利の雄叫びだった。門は完全に開かれてしまった。化け物たちは力を遺憾なく発揮し、私たちを貪り、殺戮の限りを尽くすだろう。そこには悪辣な意志しかなく、純粋なまでに邪悪だ。
なぎさはなんとか体を起こそうと努力した。だが、気持ちとは裏腹に体が重い。何万トンの錘が体全体に乗っているのか、腕さえ上げることができない。
優花も同じなのだろう。右手で頭を抱え、必死になって不快感と戦っている。息が荒く、わき腹から流れる出血が多い。一刻も早く何とかしないと、彼女は助からない。
なぎさは優花の手を取った。優花もまた強く握り返した。
せっかくまた一緒になれたんだ。あきらめてたまるか、あきらめるか!
なぎさは指先に力をこめ、立ち上がろうとした。体中がしびれ、頭痛が爆音となって鳴り響いている。痛みが神経を撃ち抜き、それが跳弾して体中を貫いている。内臓すべてを飛び出すような不快感が喉元まで迫り、血と鉄が混じったような味が舌の上で転がった。それでもなぎさは希望を捨てなかった。痛いくらいに掴まれたその手から、無限の勇気が流れ込んでいた。
不意に体が軽くなった。さきほどまで体全体を襲っていた嫌悪感が嘘だったように消え去る。抑えつけていた重力はなくなり、手足は自由だった。息も苦しくない。
すぐに優花の状態を確認する。彼女もさっきとは変わって穏やかなで不思議そうな顔をしていた。2人とも何が起こったのかわからないまま、とりあえず立ち上がる。
見上げると、なぎさたちのまわりに光のカーテンが広がっていて、それが黒い煙を完全に防いでいた。カーテンはオーロラと見間違えるほど幻想的で、つい現状を忘れて見入ってしまった。
私たちは死んでしまったのだろうか、それとも何か夢を見ているのだろうか、確かめるように、お互い顔を見合わす。透明な優花の肌が、微かに赤みを帯びていた。
「優花、ケガ……」
なぎさの言葉に優花は気づいたのか、自分の頬に触れる。切られた傷はなくなっていた。脇腹もさすってみる。貫通され、裂けたはずだったのにそんな跡はどこにも見られない。服は破けてはいたが、そこから覗かせる肌には傷1つなかった。
「なぎさも立てるの……?」
そういえばそうだ、私はいま立っている。軽くジャンプしてみる。足の痛みは全くない。足首にはっきりと残っていたはずの傷跡もきれいさっぱり消えていた。
「何が起こったの……?」
あたりを見渡す。光のカーテンの向こう側に人影が見えた。神那だった。
神那が私たちを救ってくれたのだろう。だが、肝心の神那は瘴気に満ちた外側にいた。それなのに彼はとても穏やかな表情をしていた。動けないくらい苦しいのはずなのに、彼は涼しげな様子で微笑んでいた。
もうだいじょうぶだよ、安心して。そう言わんとばかりの優しい目だった。
その神那の姿になぎさの心は安らいだ。優花も同じなのだろう。まるでそれが現実と思えないのか、呆然と彼を見つめている。
叫び声が響いた。なぎさたちははっとなって振り向いた。そうだ、突然の出来事に我を忘れていたが、魔界の門は開かれてしまったのだ。
すでになぎさたちは複数の化け物に囲まれていた。化け物はなぎさたちを見下し、品定めしている。なぎさと優花は咄嗟に虚勢を張った。どうにかして化け物を倒し、門を塞がなければならない。でも、どうすれば?
不安におびえるなぎさたちを横目に、神那が化け物の前へと立ちふさがった。
「愛ちゃん!」
そう、なぎさが神那の名を叫んだときだった。
白い翼だった。
神那が両手を広げる動作と呼応するように、6枚の大きな翼がその背中からぱっと現れ、羽毛が舞った。それは金色の光を帯びて、虹色に輝いていた。神那が顔を上げるとともにその羽が大きく開き、天高く伸びた。何もかもがまぶしく、輝かしかった。ヘドロの中に咲いた一輪の純白な花のように、それは異質で、美しかった。
あまりの出来事になぎさたちは声を失った。神那が何かつぶやき始める。それはいままで聞いたことのない言語で理解はできなかった。だが、化け物たちは違った。やつらは慄き、怯えていた。さきほどまでの自信たっぷりだった余裕はすでになく、ひっきりなしに鳴っていた笑い声も止んでいた。1匹の化け物が体を翻し、逃げ出そうとした。だが、遅かった。開かれた神那の手のひらから光が発せられたかと思うと、化け物の姿は砂塵となって消滅した。さっきまであんなに盛んだった狂気の声が一瞬で灰となり、かき消されていく。光はどんどん大きくなっていき、なぎさたちがいた空間を満たし、2人を包んでいった。すべて真っ白に塗りつぶされたとき、なぎさたちは意識を失った。
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