月島なぎさⅢ 名前

月島なぎさⅢ-1

 なぎさが意識を取り戻すと、優花が心配そうに顔を覗き込んできた。


 涙ぐんでいる優花の背後に、澄んだ青い空が見える。白い雲が穏やかな風に揺られ、ゆっくりと流れていた。


「ここは……?」


「小学校の校庭だよ」


 優花はそう答えると、なぎさが目を覚ましたことに安堵したのか、涙を流した。そんな彼女を愛おしく思いながら、最近の優花は泣いてばかりだなと、そうなぎさは感じた。


「私、助かったんだ」


「うん……」


 まだはっきりとしない、ぼんやりとした頭であたりを見渡す。


 すぐにそばに颯太と秀一が、すこし離れた場所に天宮と桐山、洞窟内にいた葉子が立っていた。


 どうしてこんな場所にいるのか、記憶をたどってみる。肉体が戻って、でも結局門を開くことは阻止できなくて、そこから化け物がたくさん溢れてきて——すべてを思い出し、跳ね起きる。


「愛ちゃん……」


 6枚の大きく白い翼、透き通るような肌と、銀色とも金色とも取れる髪の毛。淡い光を全身にまとい、彼はゆっくりと天から降りてきた。粉雪のように、花吹雪のように、羽毛が空を舞う。燦々と輝くそれに太陽の光が反射して、なぎさはおもわず目を細めた。


 神那は人間ではなかった。でも、不思議と驚きはなかった。それどころか妙な親近感を覚えていた。なぎさ自身が分裂していたということにも、もしかしたら関連があるのかもしれない。


 出逢ったときと変わらない優しい瞳、それも緊張を和らげている一環だった。姿形は人間と異なるとしても、なぎさにとって神那は、かけがえのない友人の1人だった。


 そんななぎさの気持ちを見透かしてか、神那はこちらに優しく微笑みかけた。その神々しい姿に目を奪われ、なぎさは言葉を発することができなかった。


 遠くからサイレンの音が聞こえる。それはこちらへと近づいていき、やがて1台のパトカーが校庭へ滑り込んできた。なぎさたちを発見したのか、急ブレーキでパトカーは止まった。勢いよくドアが開く。橘だった。


「なんだ、これは……」


 すぐ目の前にいる神那に橘はうろたえた。かといって、彼を危険視するということはしなかった。むしろその崇高で神秘的な雰囲気に圧倒され、言葉を失っているようだった。


 無言のまま対峙する神那と橘。その様子がおかしかったのか、颯太が吹き出すようにつぶやいた。


「ホント化け物に見えねぇよ、お前」


 彼は悪魔だった。


 でも、そこにいた誰もが彼を悪魔だとは思っていなかった。


「……なぎさ」


 秀一がかしこまって、話しかけきた。


「僕はなぎさに謝らないといけない」


 その目は真剣そのものだ。なぎさもまっすぐな秀一に応えようと、彼のほうへ向き直る。


「小学校の卒業式の日、ずっと友達でいようって言ってくれて、本当にうれしかった。それなのに、何も答えなくて本当にごめんなさい。あのときの僕には勇気がなかった。それでなぎさに辛い思いをさせてしまった。本当にごめん……」


 秀一は恥じらいながら、手を差しだした。


「いまさらかもしれないけど、もし、なぎさがいまもあのときと同じ気持ちを持っているなら、もう1回、僕と友達になってください」


「俺も言わなきゃならないことがある」


 颯太もなぎさの方に歩み寄った。


「転校してきた日、無視してすまなかった。俺は怖かった。長い間話してなくて、その……なんて言っていいのかわからなかった。だから、逃げ出した。本当にごめん」


「私も毎日連絡するって言ったのに、途中からメールも送らなくなって、入学式でも話しかけなくて、ずっと一緒だよって約束したのに、友達でいようって誓い合ったのに……。ごめんなさい。本当にごめんなさい……」


 なぎさはすこしの間きょとんとしていたが、やがて3人の手を順に掴むと、1つにまとめて両手で包み込んだ。


「許す!」


「そんな簡単でいいのか? 俺たちはそのお前にひどいことをしたんだぞ……」


「気にしてないよ。みんながどれだけ私のことを考えてくれたかは全部知ってる。あの小さい私が消えたときにね、なぜかわからないけど、あの子の記憶や気持ちが私の中に流れ込んできたの」


「でも……」


「もう、終わったことなんだし、そんなイジイジしない。それに——」


 なぎさは照れ臭そうに笑った。


「私はみんなことが大好きだもん」


 その笑顔はとても健康的で、あの暗闇の中にいた少女と同一人物とはけして思えなかった。


「なぎさ……」


 秋の澄みきった空気が4人を包んだ。優花の目から一筋のしずくが零れ落ちる。


「あーもう優花ホント今日どんだけ泣くの? 体中の水分が涙でできてんじゃないの。ほら、笑顔笑顔!」


「……うん」


 瞳にあふれた涙をぬぐいながら、優花は笑顔を作った。覗かせた歯が白く輝いていた。


 不意に体の中からすうっと何かが抜けていくような浮遊感が沸き起こった。この感覚には覚えがあった。はじめて小学生の月島なぎさとして生まれたときに感じたものと同じだった。魔界の瘴気が消え去ったように、あの不可思議な力も皆の中から失われようとしていた。


「終わったんだね」


「ああ」


 なぎさは再度、神那の方を見た。その姿が半透明になっている。


 慌てて駆け寄ろうとしたが、神那は静かに首を振ってそれを制した。彼もまた帰るのだろう。自分たちがいた本当の世界に。


「お別れね」


 天宮が寂しそうにつぶやいた。


「キミがいなかったら、私たちは月島さんを、この世界を救えなかったわ。本当にありがとう」


 神那はあいかわらず無言で、柔らかな笑みを浮かべている。まるで初めから自分など何の役にも立てなかったという風に、謙遜しているようだった。


「愛……わたしの、わたしたちの願いを聞いてくれて、本当にありがとう」


 葉子が涙ながらに言った。


「最後までお前には頼りっぱなしだったな」


「神那くん、ありがとう」


 優花はいましがたなぎさに注意されたばかりなのに、もう瞳に涙を溜め込んでいた。


「私、忘れないから! 愛ちゃんのこと、絶対に忘れないから!」


 なぎさは誓いをたてるように、そう叫んだ。


 神那はうなずいた。それは聖母のように暖かく優しかった。


 空は昨日までの黒い煙が嘘のように晴れ渡っていた。そのスカイブルーの海原を泳ぎにでもいくように、白い翼が大きく開かれた。鳥が天空に飛び立つかのごとく、彼は力強く大地を蹴り、その水色の中へと羽ばたいていった。その姿は光に包まれ、天高く昇っていき、そして雲にまみれて溶けていった。


 あとには粉雪のように小さな粒があたり一面に降り注ぎ、それが朝日を受けて虹のようにキラキラと輝いていた。


「行っちまったな……」


「うん……」


「結局好みのタイプ聞きそびれちまった」


 皆が空を見上げ、感傷に浸っていた。


 ——病院へ。


 突如、頭の中に知らない声が響いた。


 それはこの場にいる全員に届いているようだった。そして誰もが声の主が神那であると確信していた。


 1人の少女の姿がなぎさの脳裏に浮かぶ。


「桐山さん、芽実ちゃん!」


 桐山もまた同じことを考えていたのだろう。彼は大きくうなずいた。


「病院へ向かおう」


「ええ、みんな私の車に乗って」


「でも、天宮のだけじゃ、全員は無理だよな」


「乗ってけよ」


 いままでじっと黙っていた橘が、ぶっきらぼうにそう言い放った。


「病院だろ。連れてってやるよ」

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