月島なぎさⅢー2

 病院は静かだった。すべての患者が夢から覚めたように、茫然と佇んでいた。1組の親子が椅子に腰かけ、ぼんやりと窓の外を見ている。目一杯の朝日が差し込み、その姿を明るく照らしていた。


 ロビーを抜け、病室に向かおうとした桐山に、看護師が気づいた。


「桐山さん、芽実ちゃんが、芽実ちゃんが……」


 すがる勢いで訴えてきた看護師の態度ですべてを悟ったのか、桐山は単身走り出した。エレベーターを待つことなく、階段を一気に駆け上る。全員があとに続く。戦いで蓄積されたケガや疲労は、微塵も感じなかった。桐山芽美と書かれたプレートの部屋の前までたどり着く。桐山は一呼吸おいたのち、勢いよくドアを開いた。


 少女はちょっと驚いたような表情を見せたが、桐山の姿を確認するとすぐ笑顔になって叫んだ。


「あっ、お父さん!」


 荒くなった呼吸が止まる。予想していたとはいえ、目の前の光景が信じられないのか、桐山は固まったまま動かなかった。やがて、とぼとぼと娘に近づくと、その小さな手を取り、髪に触れ、頬を撫でた。幻ではないと何度も何度も確かめる。それが現実だと認識したとき、彼はその場に膝をつき、言葉にならない声をあげて娘を抱きしめた。


「どうしたの、お父さん? どこか痛いの?」


 心配そうに尋ねる芽実。


「だいじょぶ、だいじょぶだ……」


 桐山は絞り出すように答えた。


「悲しいことがあったの?」


「悲しいんじゃないんだよ。悲しいんじゃ……」


 そこまで言って桐山は言葉を詰まらせ、人目もはばからず泣き崩れた。


「あいつがやったんだ」


 颯太は泣いていた。人前で悲しげな姿すら見せようとしない彼が、顔を隠すこともなく、ぼろぼろと涙を流していた。


「あいつが助けてくれたんだ。あいつはみんなの、すべての願いを叶えたんだ。無視してもよかったはずなのに、何の得にもならないのに……それなのにあいつはなぎさを、俺たちを、救ってくれたんだ」


 秀一も優花も泣いていた。でも、それは悲しい涙ではなかった。暖かい日の光が窓から満遍なく降り注ぎ、散乱していた。柔らかな空気が病室を染め上げていた。もうここは白い無機質な病室ではなかった。ベッドのわきに備えられた花が、みずみずしく花を咲かせている。


 桐山は娘から手を離すと、ふいに立ち上がり、橘の前に進むと両手を差し出した。


「この町に化け物を呼び出し、混乱させた一連の事件は、私が起こしたことです」


「待ってください!」


 慌てて天宮が止めようとする。


「私も共犯です」


 葉子も天宮を無視して、橘の前へと歩み出た。


「ちょっと、それなら私が一番の原因でしょ!」


 なぎさが橘と2人の間に割って入る。


 橘はすこし呆れた顔をしながら、3人の顔を交互に見渡した。一通り眺めたのち、大きくため息をつくと、頭をかいた。そして、さも面倒くさそうに桐山の後を追ってきた看護師の方へ振り向いた。


「結局ケガ人は1人もいなかったんだよな?」


「はい。それどころか前より元気になっているみたいでして……。ホント不思議なことだとみんな口をそろえて言っています」


「そうか……」


 橘はしばらく考え込んでいたが、突然踵を返した。


「刑事さん?」


「残念だけど、この国には化け物を呼び出して罪に問えるような法律はないんだよ」


 そうやぶさかに答えた。


「でも……」


「いいんだよ。それよりもこれからが大変だ。大混乱した町を立て直さないとな」


 そう言って橘は病室のドアに手をかけた。


「橘さん、ありがとう……」


 天宮が涙声で感謝を述べる。


 橘はその言葉に手を挙げて応えると、無言のまま部屋を後にした。


 桐山はうなだれ、ふたたび膝をついた。その肩に葉子がそっと触れる。天宮もまた2人を見守るように、そばへと寄り添った。


 神那がどうして私たちの力になってくれたのか、どうして私たちを救ってくれたのか、何1つわからない。彼は何も言わずに、去っていってしまった。でも、きっとこの光景が、彼が望んだことなのかもしれない。なぎさはそう信じることにした。


 急に誰かに服の袖を引っ張られた。見ると芽実がまじりっけのない目をくりくりさせながら、なぎさを見上げていた。


「ねえねえ、みんなはあのお兄ちゃんのお友達?」


「うん、そうだよ」


「大切な友達だね」


「ああ、かけがえのない奴だな」


 そう言うと、芽実はえへへっと笑った。そして、きょろきょろとあたりを見渡す。


「ねぇ、あのお兄ちゃんは? いないの?」


「えっ?」


「えっじゃなくて、私を起こしてくれたお兄ちゃん。すっごくかっこよかったんだよー」


「あのお兄ちゃんはね……」


 なぎさは返答に困った。優花、颯太、秀一と順番に顔を見合わせる。皆が何とも言えない表情をしていた。どう説明すべきだろうか。


「お兄ちゃんね、私が寝ていたら優しい声でもう起きなきゃだめだよって。なんでって言ったら、お父さんが待ってるよって……」


「残念だけど、お兄ちゃんはちょっと遠くに行っちゃったんだ……」


 なぎさは目線を彼女と合わせるためにしゃがみ込み、そう答えた。


「えー」


 芽実は不満そうに口を尖らせた。だが、すぐにぱっと明るい表情になり叫んだ。


「でも、すぐにまた会えるよね!」


 はっとしたようになぎさが目が丸くなる。


「うん、会えるよ……すぐに会える!」


 芽実はニコッと笑った。


「ねえねえ、お兄ちゃんの名前を教えて」


「名前?」


 突然のお願いに、なぎさは一瞬戸惑った。


「次に会ったときお礼が言いたいの! 名前を知らないと失礼でしょ!」


 5歳の女の子とは思えない発言に、なぎさは思わず笑みがこぼれた。


「そうだね、ちゃんと名前を知らないとね」


「うん!」


 そこまで言ってなぎさは芽実の手を見た。


 白く小さな手だった。何のまじりっけもないきれいな指だった。なぎさはその柔らかい手のひらをそっとつかみ、両手で包み込むように握った。


 彼がそうしていたように。彼がそうしてくれたように。


「お兄ちゃんの名前はね——」


 なぎさは満面の笑みで答えた。


「“愛”っていうんだよ」



<了>

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