月島なぎさⅡ-2

 そんな彼らに呼応するように、いままで沈黙していた高校生の月島なぎさが立ち上がった。


 いや、背後のいる何かに支えられ、起こされたといった表現の方が正しかった。


 シルエットから、それは成人した女性の化けもであることが理解できた。もしかしたら最初からずっとそこに佇んでいたのかもしれない。全身が黒かったため、闇の空間に紛れて気づかなかっただけなのかもしれない。だが、特筆すべき点は全身だけではなかった。その女性にはあるべきはずである目も鼻も存在していなかった。ただ化粧を覚えたての学生が、量がわからず口紅を塗りすぎてしまったかのような赤い唇だけが派手さを主張していた。


 化け物は高校生の月島なぎさを抱きかかえ、胸元へと引き寄せた。乳房の谷間に彼女の体が収まる。月島なぎさはその豊満な胸の中へ体をゆだねた。赤ん坊をあやすように、化け物の腕が彼女の頭を優しく撫でる。


 と同時に、化け物の指先がこちらに向けられる。人差し指が伸び、鋭利なトゲとなって優花の体を貫こうとした。咄嗟に神那が彼女を庇い、それを切断する。切られた部分はすぐに消滅したが、指自体は再生し元へと戻った。今度は5本すべての指が一斉に伸びる。それは樹木のごとく枝分かれして、まるで生きているようにこちらを威嚇した。


 神那は優花たちの前に立ちふさがり、2人を守ろうとした。それを優花がそっと制する。彼女は神那を押しのけると、単身で化け物の前へと歩み出た。


「優花?」


 なぎさが疑問を口にするが、彼女は止まらない。近づけば危険なことはわかっているはず。それなのに優花は高校生の月島なぎさの方へと進んでいった。


「何してるの、優花! さがって!」


 優花はなぎさの呼びかけに答えようともせず、無防備に両手を下げたまま、なんの警戒心も持とうとしなかった。何か強大な力で操られているのか、彼女には迷いがなかった。


「気づいてあげられなくてごめんね。力になれなくてごめんね」


 うわ言のように、自責の念を口にする。


 迫ってくる優花に危機を抱いたのか、化け物の指がうねり、優花の頬を切り裂いた。斜めに入った深い傷跡から、真っ赤な鮮血が滴る。それでも、彼女は悲鳴を上げることも、それをぬぐうこともしなかった。


「愛ちゃん、優花を助けて! あいつを倒して!」


 なぎさは当初の自分を止めるという目的を無視し、そう訴えかけた。もはや自分などどうでもよかった。優花を救うことが第一だった。それなのに神那は一切の手出しをしようとはしなかった。まるで優花の意思を尊重するかのように、彼はじっと佇んだまま、動かなかった。


「どうして、愛ちゃん! このままじゃ優花が、優花が死んじゃうよ!!」


 化け物は優花をけん制し、攻撃を続けた。腕から血が噴き出し、太ももに大きな傷ができた。そこまでもしても、優花は立ち止まらなかった。もうすでに彼女は化け物の数メートル先まできていた。 


 ほんのわずかに、化け物が手刀を繰り出せば、優花の首は胴体から離れ、宙を舞うだろう。それほどまでに優花は接近していた。緊迫した時間が流れる。


「なぎさが割っちゃった猫の人形のこと覚えてる?」


 いつ自身が殺されてもおかしくないなか、優花は高校生の月島なぎさに語りかけた。


「あのとき、なぎさはすごく泣いて、みんなそんななぎさが見てられなくて、なんとか力になりたい、なんとか泣き止んでもらいたい、そう願って、一丸となって人形を直そうとしたよね」


 化け物は動かない。鋭い指先も優花に向けられたまま、じっとしている。


「いまも同じなんだよ。ここにはいないけど、颯太も秀一も、2人ともあのときのように、なぎさのために必死でがんばってる。天宮先生も来てくれたんだ。なぎさの家にプリント用紙を届けてくれたの覚えてる? 先生もなぎさのために尽くしてくれてるんだよ。みんな、なぎさのことが好きだから、なぎさのことを助けたいから、懸命に戦ってるんだよ」


 黙れと言わんばかりに、指が優花の喉元へ巻き付いた。わずかながも絞めつける力に、おもわずむせかえる。


「恨んでるよね、許してくれないよね……自分勝手なのは知ってる。都合がよすぎることもわかってる。それでも私はなぎさに謝りたい! なぎさともう一度やり直したい。もう元のようにきれいな関係じゃないかもしれないけど、あの猫の人形のようにひびだらけかもしれないけど、それでも私はもう一度、なぎさのそばにいたい!」


 優花の目には涙がたまっていた。悲痛な魂の言葉だった。


「もし叶うなら、また友達として始めよう。あのころの親友に戻れるように……」


 固く結ばれたままの高校生の月島なぎさの口元が、わずかに開いた。彼女は、誰にも聞こえない小さな声で「ひびだらけの猫の人形」と優花が言った言葉を繰り返した。


 化け物の指が優花の首元から離れたかと思うと、集まり形を変え、腕と融合した。腕は1つの槍となり、優花へと狙いを定めた。


「優花、逃げて!」


 飛び出そうとするなぎさを神那が制した。意味不明の行動になぎさはもがいた。いま自分は死ぬかもしれない。それなのに、優花は微動だにしない。しっかりと足を食いしばったまま、じっと化け物を、高校生の月島なぎさを見つめている。


 化け物の鋭利な腕が優花の心臓めがけて一直線に伸びた。彼女は避けようとも逃げようともしなかった。


 肉を貫く、鈍く重い音がした。優花の口から嗚咽にも似た声が漏れ、同時に吐血した。伸びきった化け物の腕は優花の心臓ではなく、脇腹を貫通していた。体から溢れた血が化け物の腕を通して、ぽたりぽたりと垂れている。


 優花は自分の腹を貫いている化け物の腕を確認した。それは完全に自分の皮膚を破り、肉を切り裂いていた。痛々しい状況に目をそむけたくなる。けれども、優花は自身に起こった凄惨な出来事にショックを受けるというよりは、生きているということに驚いているようだった。そして彼女はまたもや不可解な行動に出た。左手で力強く自分の体に刺さっている化け物の腕を掴むと、それを手すりに、さらに化け物との距離を縮めていった。


 重傷なのはあきらかだ。歩くというよりは、引きずるといった徒歩。そのたびに、うめきが吐息とともに漏れ、呼吸が荒くなっていっている。苦しいのが青白くなった表情からも伝わってくる。


「優花!」


 制していた腕を振りほどき、慌てて駆け寄ろうとするなぎさを神那が再度押さつけた。


「なんで、愛ちゃん? 優花を助けないと!」


 だが、やはり神那は掴んだ手を放そうとはしない。なぎさの目から涙がぽろぽろと溢れ出す。いままで様々なことで助けてくれた神那が、ここに来ていっさい手を貸さないことが理解できなかった。混乱で頭の中がぐちゃぐちゃになる。


「愛ちゃん、いますぐ私を殺して! もういいよ、やっぱり無理だったんだよ。私は優花が苦しむのは見たくない。優花を失うくらいなら、私が死んだほうがいい!」


 なぎさは神那の服を掴み、体を揺さぶった。だが、神那は無言のまま、ただ真剣なまなざしでずっと優花を見守っていた。神那がなぜそこまで頑なに拒むのかなぎさはわからなかった。ただ、彼か何もしないことがわかると、あきらめに似た絶望が体を満たし、力なくその場にへたりこんでしまった。


 優花は歩みを止めない。進むたびに刺さった腕がさらに深く食い込み、傷が拡大する嫌な音がした。だが、優花は前進し続ける。一歩、また一歩、しっかりと化け物へと近づいていく。


 不思議なことに化け物は時が止まったように動かなかった。優花の体はどうみても化け物の射程範囲にあり、その気になれば一瞬でその体をバラバラにすることができたのにもかかわらず、化け物はそれをしなかった。


 その距離が目と鼻の先というところまで来たとき、優花は右手を差し出した。


 指先が小刻みに震えている。痛みをやせ我慢し、必死に意識を保とうと気を張っているのが誰の目からも判断できた。それなのに優花は掲げた手をけして下げようとはせず、苦悶の表情さえ見せようとしなかった。


 彼女は何も言わなかった。


 あなたを助けたいとも、あなたを救いたいとも、一言も発しなかった。


 ただ手を伸ばしていた。腕がちぎれそうになるくらい精一杯手を差し出していた。


 その視界は化け物を捉えていなかった。


 たった1人の月島なぎさを見つめていた。

 

 優花は微笑んでいた。


 わき腹に腕が刺さり、それでもなお無理に動いたため、その傷はさらに深くなり激痛で気を失ってもおかしくないにもかかわらず、沈痛な面持ちはなく、その表情は穏やかで優しかった。


 それは願いであり、祈りであり、信頼であった。

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