月島なぎさⅠ-2
4、5人の女子が、机にうつ伏せている少女を囲んでいる。
その光景をなぎさはよく覚えていた。ナイフでえぐられたような痛みが胸に突き刺さる。
「さすが推薦様は違いますねー」
「いい気になってんじゃねーよ!」
罵声と敵意が雨のように降り注ぐ。なぎさはそれには反応せず、無言のままうずくまって俯いている。顔は机につけたまま、見上げようともしない。亀のように縮こまったその姿は、ただでさえ小柄な彼女をより小さく見せた。
まわりにはたくさんの生徒がいた。けれども、誰もそれを止めようとも、告発しようともしなかった。あきらかに異様な光景にもかかわらず、黒く塗りつぶされたコンタクトレンズをしているのか、全員がなぎさを無視した。
悪口は止まない。
なぎさは祈るように頭を下げ、早くこの時間が過ぎ去ってほしい、チャイムが鳴って授業が始まってほしい、ただそれだけを一心不乱に願っていた。
長い、時間だった。
顧問の先生と肉体関係を持っているから選抜に選ばれたという話が、いつのまにかクラス中に広がっていた。もちろん根も葉もない噂だったが、誰もがそれを信じた。
「地味なくせにやることはやってんだな」
「変態女」
クラスの中では私は男をたぶらかし、他の生徒を頭越しにバカにしている最低の人間だった。誰からも嫌われるのが当たり前で、誰からも憎まれるのが当然の、下劣な悪女だった。
だから、グループわけがあったときも、誰も私と一緒になりたがらなかった。しぶしぶ先生が半強制的に私をグループに組み込む。私が来ることがわかると、その生徒はあきらかに嫌な顔をした。不機嫌な視線に怯えながら、おずおずと輪の中に入ろうとしたとき、足を踏まれた。どう考えてもわざととしか思えないくらいの力で、思いっきり踏みつけられた。鋭い痛みが爪先に走る。足を押さえようとうずくまると、誰かの笑い声が頭上から降り注いだ。
朝登校すると、幾人かの女子が私の机を取り囲んでいた。私が来たことに気づくと、彼女たちは不敵な笑みを浮かべ、机から離れた。嫌な予感は当たった。私の机の上は、使用済みのチリ紙や生理用品で溢れていた。
死ね。
淫乱女。
キモい。
ゴミの下には、無数の悪口が書きなぐってあった。
それらをどけ、持っていたタオルで机をこする。だが、油性マジックで書かれた暴言は、いくら拭いても消えることはなかった。彫刻刀か何かで傷つけられた溝に、糸が絡みつき、タオルが大きく引き裂かれた。それでもなぎさは手を動かし続けた。そんな懸命な姿がおもしろいのか、くすくすと笑い声が聞こえた。それはほんの小さな声なのに、粘り強い耳垢のように張り付いて離れなかった。
急に誰かが机を蹴った。
机の角が手の甲に当たると同時に、中に入っていた教科書が落ちる。教科書はびりびりに破かれていて、それらも罵詈雑言にまみれていた。私はかがみこみ、震える手でそれを拾った。チャイムが鳴り、先生が入ってくる。誰かが「起立」と言う。でも、私は立つことができなかった。うずくまり、紙くずになった教科書を必死で集めていた。いつの間にか涙がこぼれ、赤く腫れあがった手の甲に落ちた。
トイレに入ると彼女たちがいた。私は一瞬出ようと考えたけど、尿意を催していたため仕方なく個室に入った。トイレットペーパーに手をかけようとしたとき、頭上から水が降ってきた。私は何が起こったか一瞬わからなかった。やがて空のバケツが投げ込まれ、それが頭に当たった。額に小さな傷が出て、血が流れる。一緒に中に入っていたであろう汚らしい雑巾が、髪にべっとりと付着し、下水の腐ったような臭いが鼻に突いた。外から下品な笑い声が聞こえた。そこではじめて頭からバケツの水をかけられたんだと理解する。爪が食い込むくらい強くこぶしを握り締める。涙があふれてくる。頭についた傷は浅いはずなのに、出血はひどく、血液が制服に付着した。トイレのドアが叩かれる。ガンガンと殴りつけるように、ドカッと蹴りつけるように。そのたびに卑下した笑い声が、狂ったように高らかに沸き起こった。
——死んじゃえ。
お母さんが私のためにと買ってくれた新品のシューズが、カッターか何かで切り刻まれて捨てられていた。白く真っ白だったシューズは泥にまみれ、無残な姿へと変わり果てていた。原型がわからなくなるくらいボロボロなのに、書き込まれた「死ね」という言葉だけは残っていて、はっきりと認識することができた。
帰宅すると、お母さんが新しいシューズのことを聞いてきた。私は心配をかけたくなくて、すごくいいよ、走りやすいって笑顔で答えた。お母さんはニコニコして「よかったー」とか子供みたいな返事をした。それが私には耐えらなくて、疲れたからと嘘をついて、自室にこもった。枕に顔をうずめる。朝までずっと泣いていた。
——みんな死んじゃえ。
あまりにもひどい仕打ちに耐えられなくて、勇気を出して担任の先生に告白した。若い男の先生だった。先生は親身になり、私の話を聞いてくれた。
「ひどいことをするな……」
すべてを話し終えたら、私は安堵感からか、人目もはばからず泣いてしまった。
「だいじょうぶ、僕が力になるから」
そう言いながら先生はなぎさの太ももに手を置いた。さするようにそこを撫でる。
「だいじょうぶだから、だいじょぶだから……」
うわごとのようにつぶやきながら、先生は体に触れ続けた。
「このことは言わないでください」
私は哀願した。
先生は頷き、「約束する」と言った。
次の日、先生は放課後緊急のホームルームを開かれた。
このクラスにいじめがある。
「やめるように」ただそれだけを告げて、そのホームルームは終わった。
名前こそ出さなかったが、全員私が告発したことを知っていた。
次の日からさらにいじめはエスカレートした。
——みんなみんな、死んじゃえ。
お母さんが異変に気づいた。心配をかけたくなくて、本当は学校なんて行きたくなかったのに無理をして通っていたのに、ついにバレてしまった。
優しいお母さんは私がひどい目に合わされているのではないかと、担任の教師と校長に問い詰めた。
だけど、あいつらは「そんな事実はない」と言った。
「思春期特有のじゃれ合いのようなものでしょう」と言った。
「ふざけあってるだけでしょう」と言った。
私にされたことを話したのに、真実を知っているのに、あいつは嘘をついた。顔を見ようとすると、あいつは視線をそらした。その目は泳いでいて、さだまっていなかった。
私は途中からすべてをあきらめた。結局こいつも、あいつらと何ら変わりがなかった。その後はもう、あいつらの話は耳に入ってこなかった。ただ機械的にその唇が「何もしゃべるな」と命じているように見えた。
帰り際、お母さんが本当のことを話してと哀願してきた。
私は何もないよ、だいじょうぶだよと嘘をついた。
そう、何にもなかった。
私には何もなかった。
授業中消しゴムのカスが飛んできた。無視しているとペンが投げられた。白い肌に刺さり、小さな赤い点を作った。上履きが隠された。椅子に画びょうが置いてあった。お弁当が捨てられた。
そんなことが毎日、いつまでも続いた。
ある日、あいつらが私の私物を盗んだ。
それはお母さんが大会で勝てるようにと作ってくれた手作りのお守りだった。
それだけはどうしても取り返したくて、私は彼女を追いかけた。
ボールをパスするように、あいつらはそれを投げ渡していった。
私は必死になってそれを取り戻そうとした。
あいつらの1人が、お守りを窓から投げ捨てた。私は無我夢中でそれを掴もうと、身を乗り出した。気づいたときにはもう遅かった。私の体は窓から解き放たれ、固い地面に向かって、真っ逆さまに落ちていった。
ぐしゃりという鈍い音が、学校中に響き渡る。足首にいままで体験したことのない、激しい痛みが走った。
あまりの苦痛に私は足首を押さえ、うめき、泣き、叫んだ。
誰も助けようとしなかった。
誰も手を差し伸べようとしなかった。
全員が上から見下ろしている。
ニタニタと笑っている。
私が苦しんでいるのを見て笑っている。
私が泣いている声を聞いて笑っている。
痛みで薄れていく意識の中、救急車のサイレンだけが遠くから聞こえてきた。
病院は嫌いじゃなかった。建物全体に広がる薬品の匂いが好きだった。
天気がいいからと看護師さんに連れられるまま、屋上へ来た。車椅子から、ぼんやりと街並みを眺める。ありふれた街の景色がそこにはあった。
ふと、私はどうして死ねなかったんだろうと、疑問に思った。そしてなぜ屋上には柵があるのだろうと、不思議に感じた。
柵がなければ、私は飛び降りることができるのに。今度こそためらいなく、頭から落ちることができるのに。
本当に、当たり前のように、私は屋上から羽ばたけないことを悔やんだ。
隣に1人の男が座った。
何かしゃべりかけてきたが、私は無視した。ただ、どうすればあの柵を越えれるか、そればかりを考えていた。
「憎くないか?」
なぜか、その言葉だけが耳に入った。そこで私ははじめて男の方へ振りむいた。
寝ぐせだらけの髪形と、何日も剃っていないだろう無精ヒゲ、目はうつろで生気がなかったが、黒目の奥底だけはギラギラと燃えていた。
「こんな腐った世界は必要ない。滅ぼそう。君なら……いや、君にしかできない」
私は静かにうなずいた。
——殺してやる。
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