杉野颯太Ⅳー2
目の前の大きな建物の裏側にはいると、一回り小さな建物が通路を介して、連結されていた。そこは従業員専用の出入り口なのか、メインの大きな自動ドアとは違い、普通の家庭の入り口のような簡素なドアが設置されていた
「ここか?」
なぎさはうなずいた。
颯太はドアノブに手をかけると、ゆっくりとそれを回した。何の抵抗もなくドアノブは回転した。
「開いてる……」
颯太はドアノブを掴んだまま、なぎさの方に振り返った。なぎさはじっと息を飲んでいる。
颯太は視線を戻すと、力を込めて一気に扉を開いた。
むわっとした生暖かい空気が噴き出し、鼻孔をかすめた。中は暗く先が見えなかった。はじめは照明がついていないためかと思ったが、すぐに濃い黒い煙が充満しているからだと気づいた。
天宮からもらった懐中電灯を照らす。
そこは建物の外見から想像できる内部とは、とても似てもつかない場所だった。誰もが研究所と聞いてイメージする無機質な白い廊下ではなく、赤黒く柔らかい土のようなものがそこには敷き詰められていた。建物全体が巨大な生物の体内のようにうごめき、振動している。うめき声とも雄叫びともとれない、異様な叫び声が奥底から鳴り響いた。
「なんだ……これ……」
誰もが絶句していると、
「浸食されてる」
なぎさがうわ言のようにそうつぶやいた。
「浸食?」
「うん、黒い煙によってこの建物全体が変化したんだと思う」
「どういうことだよ?」
颯太が聞き返す。
「いや、わかんないけど。何となくそんな気がして……」
なぎさは慌てて否定した。
「さっきから適当だな」
「でも、ここになんらかの手掛かりがあることは間違いなさそうだね」
「まあ、そうっぽいな」
颯太はそう答えたが、この研究所に入ったときのように、身勝手に前へ進もうとはしなかった。あきらかにこの世のものではない禍々しい空気が扉の向こうから溢れていた。ここから先は無事では済まない、そんな危機感が颯太の足取りを重くさせていた。ただ1人神那だけがあいかわらず迷いなく、決意に満ちていた。「はやく行こう」そうせかしているようにも感じられた。
「ここでじっとしてても仕方ねぇし。中を進んでみるか。もしかしたらここになぎさがいるかもしれないしな」
颯太は慎重に足を踏み入れた。絡みついてきた空気が、毛虫が這うように体中にまとわりつき、けだるさが全身を支配した。虫唾が逆流し、吐き気が喉元まで押し寄せる。颯太は寸でのところでそれをこらえると、胃の中にぐっと押し戻した。
「なぎさ……お前は残れ」
「えっ、なんで?」
「ここから先は俺と神那と秀一で行く。それで1時間待って俺たちが戻ってこなかったら、天宮に連絡しろ」
「なんでよ、絶対ヤダからね!」
「わがまま言うなよ。こういうのは男の仕事だ」
「なにそれ男女差別? 絶対に私も行くから!」
なぎさは目じりを吊り上げ、怒りに打ち震えている。とても颯太の忠告を受け入れる気はなさそうだった。
「それに……みんなは私を探すために、危険を冒してくれようとしてるのに、肝心の私が安全なところにいるなんて、絶対にイヤ!」
なぎさの性格はよくわかっている。ここまで言ったのなら、へばりついてでもついて来るだろう。颯太はやれやれと大きくため息をついた。しょうがない全員で向かうしかない、そう決めようとしていたとき、秀一の青ざめた顔が目に入った。
意気込んでいるなぎさや神那とは対照的に、その表情はあきらかに自信なさげで不安に満ちていた。まだ外はそこまで寒くないのに、手が小刻みに震えている。
「秀一、残ってくれるか?」
「えっ」
「なぎさは行くって聞かないし、さすがに4人ぞろぞろと中に入るのは危険だと思うんだ」
「でも……」
「ここはかなりまずい感じがする。天宮が言っていた煙の濃度もかなり濃いしな」
「だったら天宮先生も呼んでみんなで行ったほうが……」
「天宮を呼んだら、みんなを危険にさらせない、自分1人で調べるとか言い出すに決まってるだろ」
「たしかに、そうかもしれない……」
「だからこそおまえが残って、何かあったら現状を天宮に伝えてくれ。そもそもこの研究所にいるって言っても大雑把すぎる。天宮も優花も施設内に入ったことはないだろうし、はっきりとした場所を伝えるのは難しい。お前がここまで誘導してくれ」
「3人だけでだいじょうぶなの?」
「神那もいるし、なんとかなるだろ」
颯太は神那の方へ合図した。神那はきりっとした眉毛を崩し、軽く微笑んだ。
「なーに、俺もまだ死にたくはないし、ヤバそうだったら戻ってくるさ」
「そうそう、秀一も私の足が速いの知ってるでしょ。あんなキモい化け物なんかにつかまったりしないんだから」
「みんな……」
「あともしかしたら化け物がこっちに来るかもしれないから、適当なところに隠れておけよ」
「うん、わかった」
「じゃあ、行ってくる」
「杉野くん……」
「なんだよ」
「絶対に戻ってきてね」
秀一のまっすぐで熱い瞳が颯太を捕らえた。それは夏の青空を照らす太陽のように澄んでいて純粋だった。小学校のときの、羨望のまなざしを向けながら颯太のあと追いかける、秀一の純朴な吐息を颯太は思い出していた。
——こいつは何も変わってない。
颯太は小さく笑うと、ほとんど自分にしか聞こえないような微かな声で「ああ」とつぶやいた。
その返事が耳に入るはずはなかったのに、秀一は笑顔を返した。颯太は踵を返し、より深くへと進んでいった。隅々までいきわたる煙に囲まれ、颯太たちの姿がすぐに見えなくなった。だが、秀一はそれでもこちらを見続けていた。祈るように手を胸に当て、ずっと見送っていた。
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