2章

天宮聖羅Ⅲ 黒い空

天宮聖羅Ⅲ-1

「先生!」


 呼びかけられた言葉にはっとなって顔を見上げる。


「あの……もう座ってもいいですか?」


 教科書を持ったまま、立ち尽くしている女子生徒がおずおずと聞いてくる。


「ああ、加藤さんごめんなさい。どうぞ座って」


 そう天宮が促すと、女子生徒はやや乱暴に椅子に腰かけた。


 一夜明け、昨日のことが夢だったかのように普段と変わらない授業風景。


 あのあと優花を送り届け、秀一の家の前で彼の母親に小一時間くらい説教され、結局1人暮らしの自宅にたどり着いたのは午前3時を回っていた。よっぽど疲れていたのだろう。そのままお風呂にも入らず、服も着替えず、倒れるように眠り込んでしまった。毎日セットしてある携帯のアラームが鳴らなければ、今日は間違いなく遅刻していただろう。


 寝ぼけた頭を目覚めさせるように、いつもより熱いシャワーを浴び、化粧もそこそこに家を出た。学校へ来る途中の、運転席から見える光景は何も変わらなかった。道行く学生もサラリーマンも普段通りで、誰もが日常に身を沈ませていた。カーナビに映し出されるニュースも、政治家が年金を私的に流用していたという話題に持ちきりで、昨日の影のような化け物のことは誰も口にしていなかった。人知を超えた不思議な力、それらはいまもアニメやゲームの中の話でしかない。だが、昨日起こった出来事のすべて——あれは紛れもない現実だ。


 ショートカットの少女を思い出す。


 あの子はうちのクラスの月島なぎさだという。その彼女が小学校の姿になって現れたという。それもいまここにいない高校生の彼女とは別の意識を持って存在としているという。


 天宮はチョークを持つ手を止め、一番後ろの席を見つめた。ぽつんと1つだけ穴が開いたかのように、そこだけずっと空席になっている。


 転校してきたあの日以来、あそこになぎさが座っているのを天宮は見たことはない。いま現在も不登校が続いている。でも、天宮はなぎさの姿を忘れたわけではなかった。


 暗い、底なし沼のようにくぼんだ瞳。カサカサに乾いた唇。健康的とは程遠い青白い肌。そんななぎさの姿が、天宮の脳裏にありありと浮かび上がった。


 はじめて家を訪問したとき、彼女は母親の後ろに隠れるようにしていた。色は覚えていないが地味な格好をしていて、細い体と相まって病人のような印象を覚えた。髪だけは母親が櫛を入れてくれているのだろう、寝ぐせなどはなかったが、それでもしばらく美容院に行っていないのか、肩の上くらいまで伸びた癖っけのある黒い髪と、同じく母親に切られた横一文字の前髪が、やけに不釣り合いだなというのが最初の感想だった。視線は常に伏し目がちで、何を話しかけてもろくに返事が返ってこず、この子を学校へ来させるためにはどうすればいいか、天宮には見当もつかなかった。


 それでも何かしなければと意気込み、せめていつ学校に来ても問題がないようにと、毎週欠かさず、連絡用のプリント用紙や授業の内容をまとめたものを、彼女に家に届けることにした。


 そんなことをしても彼女が不登校である原因の解決にはならない。そう理解してはいても、通い続ければいつか心を開いてくれるのではないかという淡い希望から、天宮は訪問を止めなかった。


 なぎさの母親は優しい人だった。お心遣いは結構ですと断っているのに、いつも丁寧な対応をしてくれた。暖かいお茶と美味しいお菓子がいつもテーブルの上に用意されていた。迷惑がられてもおかしくはないのに、むしろ感謝してくれているようだった。ただ、一向に改善しない娘のことが気がかりなのだろう、日に日にやつれていることが、こけた頬からも感じ取れた。


 なぎさともできるだけ会話を試みるようにした。定期的に行っている病院以外はほとんど部屋に閉じこっているとのことだったが、天宮が来たときは母親に指図され、会ってくれることも少なくなかった。しかし、なにか進展があるとはとても実感できなかった。先生で良ければ相談に乗るわと穏やかに話しかけても、彼女の口は糸で縫い付けられたように開くことはなかった。


 天宮は悲し気に目を伏せた。


 ずっと空席のままの机。あそこに彼女が座ってくれる日が来ることはあるのだろうか。何1つわからない彼女の悩みを解決することが、新米教師である自分にできるのだろうか。


 でも、きっとそれができなければ、私が教師になった意味はない。不登校の少女を救うことができなければ、教師になった理由である、犯罪に手を染める少年少女を1人でも減らすということも、実現できないような気がした。

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