天宮聖羅Ⅱ-2

 そのときだった。


 小さな、天宮が颯太を叩いたことで訪れた静寂のなかでなければ誰も気づかない、かすかな地響きが起こったかと思うと、胃の中から何かが逆流するかのような、胸の内側から内臓が飛び出るかのような、何とも形容しがたい感覚が体中を駆け巡った。その生まれたばかりの感覚は血流のごとく脈打ち、髪の毛一本一本に至るまで沁みわたり、広がっていった。体が爆発するのではないか、そんな不安に苛まれ、噴出した冷や汗が頬をつたった。


 天宮はまったく動けなかった。経験したことのない感覚に支配され、彼女はその場にただ立ち尽くすことしかできなかった。そして、それは天宮だけではなかった。颯太、優花、秀一も何とも言えない表情をし、緊張していた。彼らもまた、突然起こった現象にうろたえ、起こっていることすら理解できず、戸惑っているのがはっきりとわかった。


 地響きは一瞬だった。


 それはとても弱い力で、体育倉庫も跳び箱もハードルも、転がっている鉄パイプすら一切の変化なく、すべてはそのままであり、振動とすらいえない揺れだったにもかかわらず、天宮たちはとてつもない強い衝撃を受け、また悠久のような長い出来事にも感じられ、現実を受け入れることができなかった。彼女たちは長い間、呆然としていた。


「……なんだ?」


 やっとのことで颯太が言葉を発した。


「地震?」


 優花が不安そうに答えた。彼女は、まるで自分の体が意思に従うか確かめるように、ゆっくりとあたりを見渡した。その目が急にはっと見開かれる。気を持ち直しつつあった天宮も、朦朧とする意識を振り払うかのごとく、優花の視線を追った。


 いつの間にか、あたりは黒い霧のようなものに包まれていた。そのなかで、なんと表現すればよいのだろう、黒い陽炎のようなものが複数体、ゆらゆらと浮遊している。


 それはガスのように見えたし、液体にも固定物のようにも思えた。何もかもが曖昧ではっきりと断言することができない。形もそれぞれバラバラで、小さいものもあれば大きいものもあり、一定ではなかった。それは漠然と、だが、確かにその場に存在していた。


「なに……あれ?」


 優花がおびえた瞳で体を震わせる。


 だが、誰もそれには答えない。皆がそれを何と呼んでいいのか、どう例えればいいかわからなかった。


 幽霊か何かだろうか、そう天宮は考えた。だが、自分に霊感があると感じたことは一度もない。それに、さきほどの優花のセリフから、見えているのは私だけではない。あきらかにこの場にいる全員がそれを認識している。そんなことはありえるのだろうか。


 答えのない問答を巡らせていると、そのなかの1体が天宮たちに気づいたのか、体をこちらの方へくねらせた。


 黒い煙が収縮し、中から2つの赤い点が浮かび上がる。それはそのモノの目だろうか? 信号機のようにおぼろげに光り輝くそれは、不気味な鈍さを放っていた。

そして、その2つの赤い点はゆっくりと静かに、それでいて確実にこちらの方へと距離を縮めてきた。


 逃げなければ。直感的に天宮はそう思った。


 だが、その感情とは裏腹に足は根を張った木のように動かない。人は理解できないことがあると思考が停止し、咄嗟に行動できないというが、いままさに天宮たちが身を持ってそれを体験していた。


 影のような何かは、はっきりと天宮たちの前に迫ってきていた。やがて颯太のすぐ目と鼻の先までたどり着くと、黒い棒状のようなものを勢いよく伸ばした。それはそのモノの腕のようだった。生理的に嫌悪感のある、生温かかい風が頬をかすめた。


「颯太、よけて!」


 後方から声が響いた。


 硬直していた体が呪縛から解かれたように、颯太は身を翻した。振り上げられた腕が、いまさっきまで彼がいた場所に勢いよく叩きつけられる。砂ぼこりが舞う。視界が開けると、その場所には小さな穴が開いていた。地面をえぐるような衝撃をまともに脳天に受けていたら、天宮は身震いした。


 颯太はしりもちをついたまま、呆然と背後を向いていた。どうやらうまくかわしたようで、どこもケガは見られなかった。天宮はほっと胸をなでおろすと、声のした方向へ振り向いた。


 そこには1人の子供がいた。背丈からして小学生くらいだろうか? Tシャツとハーフパンツを履いている。男の子だろうか。髪型はショートカットで、すこし伸びた前髪から大きな瞳を覗かせていた。


 なんでこんな深夜に、それもこんな場所に小学生が。そう天宮が不思議がっていると、

「なぎさ……?」

優花が独り言のようにつぶやいた。


 その名前には聞き覚えがあった。天宮が持つクラスの生徒で、転校以来登校拒否になっている月島なぎさという少女だ。だが、その子は高校生であり、小学生ではない。あの子供が月島なぎさであるはずがない。たまたま同じ名前の、知っている子なのだろうか。普通ならそう思うはずだった。だが、颯太、優花、秀一の3人の態度はあきらかに尋常ではなかった。たしかに深夜にこんな場所で知人に会ったら、多少は驚くと思うが、3人のそれは常軌を逸脱していた。まるで死んだ人間が蘇ったかのように、ありえないといった表情で口を半開きにしている。それほどまでに皆の様子は異常だった。


「なんで、なぎさが。それにその姿……」


 優花が恐る恐る問いかける。


「話はあと。まだ来るよ、みんな気をつけて!」


 なぎさと言われた少女が注意を促す。


 そうだ私たちは正体不明の影のような化け物に襲われているところだったのだ。思い出したかのように前方を見る。だが、遅かった。化け物はいまにも覆いかぶさり、颯太を押し倒そうとしていた。


「あっ……」


 今度は避けられない、そう颯太が悟った瞬間、神那が化け物にタックルをし、それを突き飛ばした。そして神那の手が光ったかと思うと、そこから光の玉のようなものが飛び出し、化け物に命中した。


「……!」


 言葉にならないようなうめき声をあげながら、化け物は消滅した。


 何が起こっているの?


 いま彼は何をしたの?


 その一連の流れをはっきりと目のあたりにしながらも、理解の範疇を超えた出来事に頭が追い付かない。不安がよどみなくあふれ、恐怖が思考を縛りつける。


 とにかく逃げなければ。


 それだけが、天宮の脳裏に真っ先に躍りでた。


 幸い正体不明の何かは1ヶ所に固まっている。動きもそこまで俊敏というわけでもなさそうだ。反対側に向かって、一気に校庭を走り抜ければ逃げ切れるだろう。


「みんな、とりあえず逃げるわよ!」


 天宮は叫んだ。


 だが、意に反して誰もそういったそぶりを見せようとはしなかった。


 はじめ天宮は、恐怖で全員がすくみ上っているのかと思っていた。だが、そうではなかった。颯太も、優花も、秀一も、ずっと後ろに立っている1人の少女を気に留めていた。彼女を置いてその場を離れることを、全員が拒んでいた。


「みんな……?」


 天宮が疑問を抱いていると、優花の叫び声が聞こえた。別の化け物が、いままさに彼女に襲い掛かろうとしている。


「優花!」


 颯太が助けようと手を伸ばす。だが、距離はあり、なおかつ倒れた姿勢ままのため、届くはずはなかった。だが、黒く禍々しい腕が、優花の頬に触れようとしたその矢先、颯太の指先から稲妻のような電撃が光り、閃光が放たれた。それはまっすぐに優花の前の化け物に向かい飛んでいき、その姿を焼き尽くした。


 自分のした行動に驚きを隠せず、愕然とする颯太。


 天宮は混乱しつつも、自分の手のひらを見つめた。なんら変わりのない普通の手がそこにはあった。理解も追いつかず、理屈もわからなかったが、それでもある確信が彼女のなかに降り、行動を奮い立たせた。天宮は化け物に向かって手をかざすと、目をつぶり集中した。


「天宮先生?」


 秀一が不安げに声をかける。その声とともに目を開き、手に力をこめる。大気中の水分が氷結してできた氷は、刃となり、一直線に化け物の体を貫いた。化け物の体が霧散し、闇と同化していく。


 天宮もまた予想していたとはいえ、自身のした行いを信じられずにはいられなかった。


 これはなんなのか。魔法とでも呼ぶべきものなのか。


 アニメや映画の中でしか見たことのない不可思議な現象がいまこの場所で、いや自分自身が起こしている。あきらかに人知を超えた異常な出来事が起こっている。


 化け物たちは天宮たちが抵抗できる力を持っていると知るや否や、それにおびえることなく、むしろ脅威と感じたのか、一斉に襲い掛かってきた。


 考えている暇はない。いまはこの状況を切り抜けるのが先決だ。そして逃げる気がないのなら方法は1つしかない。


「みんな力を使って!」


「力って……」


「わからないわ。とにかく集中して、念じるの」


「念じるって言っても……」


「あれが何かわからないけど、私たちを敵視しているのは間違いないわ」


 化け物の1体が秀一を掴んだ。怯えた秀一がそれを振りほどこうと、がむしゃらに腕を回すと、いつのまにか発生した突風が化け物を切り裂いた。


「なにこれ……」


 まるで自分の体が別のものに変わったかのように、彼は放心している。


「ぐっ」


 うめき声が聞こえた。それと同時に颯太が地面に倒れこむ。やられたのだろう、右手で左腕を押さえ、辛そうに苦悶を浮かべている。


「杉野くん!」


 とどめを刺そうと腕のようなものを再度伸ばした化け物の体が、真っ二つに切断される。背後から神那の姿が現れた。彼がやったのだろう。神那はもう力を使いこなしているようだった。


 化け物は怯むことなく、こちらへと向かってくる。倒されても、また黒い霧が集まり、それが新たな影を作り、そのなから新しい化け物が生じた。それはまだうまく体を動かせないのか、生まれたての小鹿のようによろめきながらも、果敢に天宮たちに攻撃を仕掛けてきた。


 無我夢中だった。天宮たちは迫りくるその化け物の攻撃かわし、反撃した。不慣れながらも力を得た天宮たちの抵抗によって、化け物の数は順調に減っていき、やがて最後の1体となった。その体を神那が放った光球が貫く。腹部らしき部分に巨大な穴の開いたそれは、倒れこむように溶け、消滅した。


 化け物は全滅し、あたりはふたたび深夜の静寂さを取り戻した。疲労に満ちた荒々しい息遣いが、興奮と戸惑いを絶え間なく吐き出していた。ぼんやりと月明かりが顔を照らす。気のせいか、戦いの最中感じていた息苦しさがすっと消えていった。

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