楠原秀一Ⅰ-2

 見られているが気になったのか、神那がいつのまにかこちらに顔を寄せ、不思議そうに首を傾けていた。ふいに目と目が合い、秀一はすかさず目をそらした。恥ずかしさで耳が赤くなるのがわかった。そんな畏縮している秀一がおかしかったのか、神那はゆるやかに口角を上げ、すこし微笑んだ。


 その笑顔にとても優しい暖かさを覚えた。火照った頬が急速に冷やされ、なぜか安心して、心が落ち着いていくのがわかった。


「ここはね、僕と杉野くんと柊さんが、一緒に過ごした小学校だったんだ」


 自分でも不思議なくらいスムーズに言葉が出た。自己紹介さえ、あれだけ手間取るほど口下手で、人に話しかけることなどほとんどしないにも関わらず、すんなりと声をかけたことに驚きを隠せなかった。さきほどまでの緊張が、粉薬がのどの奥に浸透していくように、すうっと溶けていくのがわかった。そのまま沈黙を打ち破るように秀一は続けた。


「あと月島なぎさっていう明るくてお調子者で、でも誰よりも友達想いで優しい女の子がいていてね。僕らは4人でよく一緒に遊んだんだ」


 当時のことが昨日のように映像化され、懐かしさから目を細めた。


「毎日が楽しかったなー」


 なぎさは足が速くて、いつも追いつけなかった。運動が苦手な秀一が彼女に勝てないのは当たり前のことだったが、それ以上になぎさは秀一にとって追いつけない存在だった。彼女は秀一とは正反対の性格をしていた。すべてが憧れの的だった。


 神那はじっと耳を傾けていた。わずかな月明かりに反射して、瞳が宝石のように輝いている。もっとその話を聞かせてほしい、そう哀願しているようだった。


「さっき颯太君がまた裏切るのかって、そう言ったのを覚えている?」


 神那はこくりとうなずいた。


「卒業する年の夏休みにね、学校の裏山を探検しようってことになって、それでみんなででかけたんだけど、けっこう樹木が生い茂っていて、僕ら遭難したんだ」


 秀一は先ほどまで神那が見つめていた壁を眺めた。むき出しのコンクリートが消え、当時の光景がそこに広がった。


「幸い僕らが帰宅しないことを心配した警察と町内の人が捜索してくれて、すぐに救助されたんだけど、その事があってか、お母さんからもうみんなとは関わっちゃいけないって言われて……」

 

 切なそうに視線を落とし、唇をかみしめる。


「嫌だったのに。卒業までみんなと一緒にいたかったのに。でも、僕は逆らうことができなかった」


 手のひらを置いていたマットをぐっと握る。指の隙間から漏れた埃が、塵のように空中を漂い、爪先を汚した。


「遊ばないだけならまだしも、みんなと顔を合わせるのが気まずくて、避けてしまったんだ。颯太君はすごい怒っていた。なんで無視するんだって。なんで話してくれないんだって」


 秀一は深く嘆いた。


「さっき颯太君を見かけたときも、見ないふりをしてやり過ごそうと思っていた。前もこういうことがあって、そのときは彼も何も言わなかったから、今回もそうしようと思っていた」


 そこまで言って、秀一は嬉しいとも寂しいともとれるような表情で、

「話しかけられたのは意外だった」と笑みを浮かべた。


「初対面なのにこんな話をしてごめんね」


 神那は小さく首を振る。気にしてないということなのだろう。


「小学校を卒業するときね、月島さんが2人に内緒でこっそりと話しかけてくれたんだ。裏山に探検に連れて行ったことごめんねって。月島さんが悪いわけじゃないのに、それについていった自分が悪いのに。彼女は謝ったんだ。そして、これからも友達でいようねって。バラバラになってもずっと友達でいようねって、そう言ってくれた。それなのに——」


 秀一の瞳に暗く深い影が宿る。


「あんなことをしたのに、それでも友達だと思ってくれていたのに、僕は何も答えなかったんだ。せっかく寄り添って来てくれた彼女の好意を拒否し、踏みにじったんだ」


 影は小さな液体へと変化し、眼球を覆う。目じりにたまったそれのせいで、視界がぼやけた。


「そのときのことはいまでも忘れられない。いつも笑顔で明るくて能天気だった月島さんが、すこし悲しそうな顔したんだ。寂しくてせつなくて、何とも言えない表情だった」


 液体は涙となり、頬をつたって落ちていった。薄汚れたマットに一点の染みができた。


「もし、戻れるなら……」


 そこまでいいかけて秀一は口をつぐんだ。

 

 戻れるなら謝りたい。いつまでも友達だよと答えたい。


 でも、僕はそう言えるだろうか?


 いや、きっと口ごもってうまく伝えることができない。言いたいことや話したいことはたくさんあるのに、どの言葉も声になって発音することができない。ただ心の中でぐるぐるとまわって、食べたものがいつの間にか胃の中で消化されるように、そのまま闇の中に消えていってしまう。


 考えただけで相手に思ったことが伝わる、そんな設定のアニメを昔見たことがある。ときどきそのほうがいいんじゃないかと考えることがある。実際はいろいろと不便で面倒な問題も出てくるのだろう。そのアニメもそういう不自由さをおかしさに変えていた。けど、そのほうが僕にとってはありがたかった。それほどまでに僕はコミュニケーションが取れない。人と話すことが苦手だった。


 いや、怖いのかもしれない。


 話したら嫌われるだろう。ついさっき杉野くんに怒鳴られたように、はっきりしゃべれよと苛立たせるだろう。笑われるのだろう。好かれたいと思って何かを遂げようとしても、か細く弱い僕の声では、嫌悪感しか相手に伝わらず、結局は拒絶されることにしかならない。なら、最初から声をかけないほうがいい。


 遠い将来、僕らは言葉を発さずとも会話をすることができるようになるのだろうか。そのときは僕の考えている想いも、願いも相手に伝わるのだろうか。そうなれば僕は誰かとわかり合い、友達になれるのだろうか。誰かに愛されるのだろうか。


 雫が雨に変わるように、気づいたらぽろぽろと涙が溢れていた。


 過去を思い出して感傷に浸ってしまったのか、自分のふがいなさに泣いているのか、それはわからなかった。気恥ずかしさから涙をぬぐう。神那はじっと秀一を見つめていた。


「ごめん、急に」


 涙をごまかそうと、照れ臭そうに微笑んだ秀一の手の甲に、神那がそっと触れた。上から優しく包むように、彼の手を掴む。


「ちょ、ちょっと神那くん!」


 予想していなかった神那の行動に、心臓が波打ち、胸が熱くなった。慌てふためく秀一をよそに、神那は手を握ったまま、優しい瞳で秀一を見守っていた。


 冷え切った指先と、程よい握力が火照った体にはちょうどよく、心地よかった。言葉は拒絶したのに、体は抵抗しなかった。秀一は促されるまま、その感触に身をゆだねた。


「ありがとう」


 思わず、そうつぶやいていた。


 もし次に月島さんに、なぎさに会うことができたなら、あのときのことを謝ろう。


 啓示を受けたように、秀一は誓った。希望が、神那の手のひらを返して流れ込んでくるのを強く感じた。


 雲の影から差し込んだ月明かりだけが、2人をわずかに照らし続けていた。

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