楠原秀一 言えなかった言葉
楠原秀一Ⅰ-1
「はじめまして、僕は
こんなときに自己紹介など、自分でも何を言っているだろう。
だが、この永遠とも感じられるような沈黙が続くよりはましだった。それほどまでに、この体育倉庫の中は息苦しい静寂に支配されていた。
秀一の一大決心の自己紹介をしり目に、神那は黙ったまま目線すらこちらに向けようとしない。この中に閉じ込められてからそうしているように、ずっと後方の壁を見つめている。
「あの……」
初対面の男女が初めて顔を合わせた見合いの席のように、たどたどしく尋ねる。
神那はあいかわらず答えない。まるで石像か何かのようにじっと佇んだままだ。
現状を打破しようと勇気を出して放った言葉は宙に消え、結局いままでと変わらない、物音ひとつしない静けさだけが体育倉庫に残った。
秀一はため息をついた。
壁を見て何が面白いのだろうか。
これといって文字や絵が描かれているわけでもない、一定間隔で点のように穴が開いているむき出しのコンクリートがあるだけだ。それなのに神那はじっとそこを睨んだまま動かない。
ふと、この壁の向こうは学校の裏山にあたり、昔遭難した場所だなと秀一は思い出した。あのときは本当に大変だった。うなだれる颯太、泣きじゃくる優花、心配そうに見つめるだけの自分、そしてそんなみんなを励ますなぎさ。ほんの4年前のことなのに、はるか昔のことのように遠く感じられた。
扉は閉まったまま、確固として動かない。
最初は必死になって引き戸を開けようと努力した。でも、おそらく颯太が持っていた鉄パイプだろう、それが突っかかってほんのすこしの隙間しか開かなかった。反対側の扉も完全に錆付いているのかピクリともしなかった。誰かに気づいてもらえないかと、ドアを叩いたり、大声を出して叫んだりしたけど、こんな辺鄙な場所に人が来るとは思えず、すぐにやめてしまった。それからずっと2人でここにいる。
秀一は神那と会話することを諦め、体育座りをして膝に顔をうずめた。
唯一の窓である鉄格子の瞬間から強く存在をあらわにしていた残照はすっかりと影を潜め、いまはわずかな月明かりだけが顔を覗かせている。打ち捨てられた跳び箱やハードルが、沈黙を守ったまま放置されている。
秀一は何をするわけでもなく、手を伸ばし、マットに手のひらを沈めた。軽く体重をかけただけなのに、埃が大きく舞った。
忘れ去られ、もう誰にも使われることもない運動具の数々。やがて朽ち果て、いつかは砂のように消えてなくなるのだろうか。
そんなことを考えながら、秀一は何度目かわからないくらいスマートフォンをポケットから取り出した。コンクリートに囲まれた体育倉庫は電波が悪いのか、画面にはあいかわらず圏外の文字が表示されている。助けを呼ぼうにも、誰にも連絡ができない。暇つぶしにインターネットサイトを閲覧しようにも繋がらない。まだ傷1つない新品同様のスマートフォンは電波というものがなければ、ただ時刻を教えるだけの時計となんら変わりがなかった。かれこれ4時間近く経とうとしている。もうすぐ日付が変わる。帰ったら母親に怒鳴られるだろう。秀一はふたたびため息をつくと、役立たないそれをポケットにねじ込んだ。
“愛”っていってたっけ名前。
どこか遠くを見つめている神那の横顔を見ながら、ふと先ほどの颯太の言葉を反芻した。
女の子みたいな名前だなと、素直に思った。
でも、そこに嫌悪感や違和感はまったくといっていいほどなく、むしろその端正な顔立ちと白い肌から、女の子でもおかしくないというのが率直な感想だった。
月明かりに照らされたその瞳は微動せず、まるで高名な画家が描いた絵画のように奥ゆかしく澄んでいた。小顔で長いまつげ。すらりと伸びた手足。抜群のプロポーションを持つ隣の人物が、同じ人間だとはどうしても思えなかった。薄明りのためか、化粧でもしているかのように毛穴一つ見えないきめ細かな肌が、ほんのりと青く光り、まるでこの世のものではないように神秘的で美しかった。
秀一は自分の胸の鼓動が、いつもより早くなっているのに気づいた。
慌てて神那から目をそらし、沸き上がった感情を必死になって押さえつける。彼は男性だ。何を考えているんだと、即座に否定する。だが、そう抱いても不思議じゃないほど、神那の容姿は飛びぬけて綺麗だった。
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