杉野颯太Ⅰー6
商店街を抜け、閑散とした住宅街に入る。その区域の裏側に回り込むように進むと、寄り添うように並んでいた建物は影を潜め、樹木が生い茂っているのどかな場所に出る。その先をすこし進んでいくと、木々の一角をかきわけるように現れた緩やかな坂道が、森の中へと続いている。颯太は何の迷いもなく、その道へ曲がり坂を上り始めた。
誰かがすでに通った後なのか、塞ぐように張られていたであろうロープはほどけ、地面に転がっていた。
「ねえ、ここって」
優花が何かに気づき、問いただそうとしたが、颯太は答えなかった。
そのままゆるやかな坂を進行していく。まわりは鬱蒼とした木々に満たされており、ついこの前まで緑色だった山肌は急激に枯野色に染まりつつあった。寒々しい黄色の隙間を縫うように今日の最後の夕日が差し込み、葉身に反射していた。その光に照らされた肌寒い空気と共に、金木犀の苦々しいにおいが鼻をついた。
やがて視界が開け、目の前に校舎が現れる。一目見てここには誰もいないということがわかるほど、そこはさびれていた。校庭にはいつから放置されているのだろう、重機が岩のように鎮座している。校門の前には乗り捨てられたのだろうか、黒い車のドアが開いたまま放置されていた。堅く締められていたはずの校門は開け放たれ、関係者以外立入禁止の看板がむなしい警告を鳴らしていた。老朽化した校舎は沈みかけた夕焼けの明かりに触れられ、1人淋しく公園のベンチに座る老人のような悲壮感を漂わせていた。
「着いたぞ」
幕が上がり、いまからショーの始まりとも言うように颯太が両手を広げる。だが、盛り上がっているのは彼だけで、他の誰もが呆然とした面持ちをして佇んでいた。
「ここって、僕らが卒業した小学校だよね」
秀一が自問自答するように確認する。
「そうだな」
「どうしてこんなところに……」
「転校生に教えてやろうと思ってな」
「教える?」
「転校生は知らないと思うけど、俺とこいつらは同じ小学校出身なわけよ」
校舎のほうに背を向けながら、颯太は話し始めた。
「で、ここが俺らが過ごした小学校ってわけ。まあ、3年以上前に廃校になったけどな」
「廃校になってまだそんな経ってないのに、ずいぶん淋しくなったね」
優花が悲しげにつぶやく。
「もともとボロボロだったしな。それも原因なんだろ」
通っていたときはそうでもなかったのに、たしかに校舎の痛みは点在していた。塀の一部は崩れ、小学校名が書かれた木製の看板も、端が欠け傾いている。誰もいない校庭でサッカーゴールの破けた網だけが、風に揺られ、かすかに動いた。
人がいなくなると建物は一気に老朽化するということをどこかで聞いたことがある。その言葉が真実であると実感できるほど、いま目の前に広がる建物はみすぼらしく、死にかけていた。
「なぎさは何してるんだろうね」
ふいに優花がぽつりと言葉を発した。すぐにしまったという表情をして、気まずそうに颯太の方をうかがう。颯太はそれに気づかないふりをした。
だが、心の中ではっきりと1人の少女を思い出していた。腰に手を当て、偉そうに自分の名前を呼ぶ少女の姿が脳裏に浮かんだ。
ショートカットで女性なのにけしてスカートを履かず、この時期でも男性みたいにTシャツとハーフパンツを着て生活していた。運動、特に陸上が得意で、走るのは男子であろうと、上級生であろうと、誰にも負けたことがなかった。そのためか中学は推薦で県外の名門校に入学していった。
しばらくは連絡を取り合ってはいたが、いつのまにか疎遠になり、途中から一切の音沙汰はなくなった。中学卒業後、エスカレーター式に高校に進学したらしいが、なぜか突然こちらへ戻ってきて、颯太たちの学校に転校してきた。今日の神那のように、登校初日に彼女らしい人物を天宮が紹介してくれたのを覚えている。
彼女らしいというのは、いまでもそのとき見たなぎさが本当に月島なぎさだったのか確信が持てないからだ。
容姿こそ昔の面影を残してはいたが、雰囲気は小学校のときとはまるで違うものになっていた。あの頃の無邪気で太陽のようにまぶしく、ひたむきでまっすぐな姿はすっかり影を潜め、じめじめとしたコケのような陰湿さを全身にまとい、暗鬱な雰囲気に包まれていた。もともと痩せてはいたが、さらに細くなって骨と皮だけのようになったその体は、死体のように不気味だった。足を怪我したのだろう、車椅子に座っており、その様子はさながらホラー映画の幽霊役と言われてもおかしくはないほど気味が悪かった。
あんなに明るかったなぎさに何があったのか、颯太も優花も訊ねることはできなかった。それは知らない方がよいことのように思えたし、なによりもそうなった原因を追究することを2人は拒否した。長い期間途切れていた連絡が、お互いの間に溝を生み、2人はそれを飛び越えることをしなかった。結局、颯太も優花も、なぎさに話しかけることはなかった。それどころか1日中彼女の姿を視界から外し、わざと無視した。そしてその日を最後になぎさは学校に来なくなった。転校したその日だけ登校して、そのあとは不登校になった。
それ以来なぎさの姿を見てはいない。
「くだらねぇ」
頭の中に浮かんだ記憶をかき消すように言い放つと、颯太は校庭内に足を運んだ。工事現場の人間が忘れていったのか、積まれていた鉄パイプを掴み、バッドを振るようにスイングした。
「どうだ、みんなで野球でもするか? って、この人数じゃ無理か」
颯太は自分の言ったことを即座に否定しながら自嘲的に笑った。
「あの……」
秀一がおずおずと口を挟む。
「えっと、その、もう行かないと……」
「どこにだよ」
秀一はあいかわらず下を向いたまま、もじもじと体をくねらせていた。颯太はそんな秀一を侮蔑したかのように見下しながら、次の言葉を待っていた。
「……塾に」
しばらく経ったのち、蚊の鳴くような声で秀一がそう答えた。
「塾? まだそんなこと言ってるのかよ。塾なんていつでも行けるだろ? ひさしぶりに会ったんだし、昔のように遊ぼうぜ」
「遊ぶって……」
「小学生ときはいろいろやっただろ?」
「えっ、でも……」
秀一はあいかわらず目が泳いだまま、じっと足元のアスファルトを探している。そのじめじめとした態度に、怒りが一気に沸点まで達した。
「ボソボソ言ってないで、はっきりしゃべれよ!」
頭越しに叩きつけるような暴力的な言葉に、秀一は体を震わせ縮こまってしまった。重く沈んだ顔つきで、目に涙を溜めている。颯太は唾を吐くと、大きく舌打ちをした。
「そうだな、かくれんぼでもするか」
「かくれんぼ?」
優花が驚いたような声を上げる。
「昔よくやっただろ」
「そうだけど……」
「かくれんぼもそうだけど、おにごっことか毎日毎日飽きもせず日が暮れるまで走り回っただろ」
「そうだね。いっぱい遊んだね……」
優花が懐かしむように口元をゆがめた。どこか嬉しそうで柔らかい表情だった。
颯太には優花が思い描いていたことがなんとなくわかっていた。誰が鬼になっても、足の速いなぎさをいつも捕まえることができず、そのうち疲れ果てて降参する。毎回同じパターンで結果は決まっていた。どう考えてもつまらないはずだったのに、俺たちは心底楽しそうに笑っていた。誰もいない校庭に、はしゃいでいる昔の自分たちの姿が投影される。颯太は首を振り、思い出を振り落とした。
「僕、塾に行かないと」
変に背筋を張り、冷や汗を額に垂らしながら秀一が発言した。
「まだ言ってるのか。秀一、お前は塾と友達どっちを取るんだよ?」
「でも行かないとお母さんに怒られるし、それにもう授業は始まってるんだ!」
颯太は呆れたようにため息を吐いた。
「やっぱり、お前はまた裏切るんだな」
秀一がはっとなって顔をこわばらせた。唇をかみしめ、打ちひしがれたように下を向く。
そんな肩を落としている秀一のことなど気にも留めずに、颯太は神那に目配せした。
「だいじょぶだよ、転校生。はじめてのお前にも絶対に見つからない場所があるからよ」
ささよくようにそっと耳打ちをする。
「俺たちの方がここに詳しい。ハンデがあるからな。お前にもある程度案内してやるからついてこいよ」
そう言って歩き始めた。神那はあいかわらず無言でついてくる。結局帰る勇気がなかったのか秀一、優花も後に続いた。
校庭を横切り、校舎の裏側を回るように入る。無機質なコンクリート壁に囲まれた小さな建物が現れた。
「定番の体育倉庫だ。かなり埃っぽいが、物も多いし、隠れるにはもってこいだぞ」
颯太の言葉に誰も返事をしない。全員が死んだ魚のように、口を固く結んだままじっとしている。颯太は1人しゃべり続けた。
「ここなら長い間見つからずにすむだろう。どうだ、転校生? ちょっと入ってみろよ」
神那は促されるまま、中に入った。
その行動に颯太は愕然とした。本当にこいつは疑うということを知らないのだろうか。
急に顔をのぞかせた罪悪感から、こんなことはやめようかと躊躇したが、強い憎しみでそれを塗りつぶした。
「転校生だけじゃ淋しいだろうし、秀一お前も入れよ」
秀一は立ち尽くしている。
「入れよ」
もう一度語尾を強く発言した。秀一は黙って言葉に従った。2人が奥に入ったのを確認すると、
「いい隠れ場所だろ。ここなら誰にも見つからない」
そう言って、颯太は扉に手をかけた。
「そう誰にもな」
にやりと笑うと、颯太は勢いよく扉を閉めた。扉が閉まる瞬間、秀一がこちらを振り向き、何かを察したような驚いた表情をしたが、時すでに遅かった。颯太は持っていた鉄パイプをすばやく扉の横に設置した。同時に中から激しく扉を叩く音がする。秀一が扉を引こうとしたが、鉄パイプが引っ掛かり、すこしの隙間が開いただけだった。
「ちょっと杉野君、開けてよ!」
中から秀一の悲痛な声が聞こえた。だが、颯太はニヤニヤとしたまま動こうとはしない。
その様子を優花が悲しげに見ていた。彼女は何か言いたげだったが、颯太はその言葉を遮るように優花の腕を掴んだ。
「行くぞ」
「でも……」
「携帯くらい持ってるだろ。それですぐに誰か助けを呼ぶさ」
颯太は戸惑っている優花の手を引き、無理やり連れだした。優花はされるがまま抵抗はしなかった。
日は沈み、薄靄がかった残照が、遠い空から校舎を見下ろすように佇んでいた。
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