杉野颯太Ⅰ-3

 校門をくぐる。体育の授業はないのだろう、誰もいない校庭を抜け、校舎に入る。颯太の教室は1階の一番端だ。向かうためにはいくつかの教室を横切らなければならない。廊下を歩いているとき、普段ならそんなことはないのに、今日に限ってこちらに視線を向ける目がやけに多いように感じられた。それらを無視して、自分の教室の扉を開ける。騒々しい教室が一瞬で静まり返り、クラスメイト全員が颯太に注目した。だが、その人物が颯太だとわかると、その期待のまなざしは落胆に変わり、ふたたび喧騒が教室を支配した。


 異様な無数の目線に颯太はたじろいだが、すぐにそれが収まったことを確認すると気を取り直し、窓際の自分の席に向かい力なく椅子を引いた。そして何もしていないのに、まるで一仕事やってきたかのようにどっしりと腰を下ろした。


 天宮あまみやはいなかった。黒板に「自習」という文字が殴り書きしてある。


「おはよう」


 隣の席の柊優花ひいらぎゆうかが声をかけてきた。

 

 優花とは小学校からの縁で、この学校で颯太に話しかけてくれる唯一の人物だ。同じ中学、同じ高校と進み、長い間一緒にいるがこのごろますます美人になったと思う。一説では俺と優花は付き合っているという噂があるらしい。それに嫉妬している男子もいるらしい。たしかに優花は同年代の中で抜きん出て美人であり憧れの対象ではあるが、実際はただの腐れ縁のようなもので、そんな恋人同士といった関係ではない。それでも誰よりも彼女と行動を共にするのは、昔からの付き合いもそうだが、やはり似た者同士という意味合いが強いからだった。お互い家庭環境が良くなく、孤独なところもその一環だった。


「やけに騒がしいな」


 天宮がいないとはいえ、それでもいつも以上に騒々しい教室を見渡しながら、颯太がつぶやいた。誰もが遠足前の子供のように浮ついていて、はしゃいでいるようにざわついている。


「転校生が来るみたいだよ」


「転校生?」


「そう、なんかすごいイケメンみたいで、それでみんな騒がしいの」


 そういうことだったのかと妙に納得した。同時にどうでもいいと感情が沸き上がった。誰が来ようと自分には関係ない。何も変わらない。


 教科書を広げるわけでもなく、なんとなく窓の外に視線を移す。いつのまにかあれだけ長く続いていた灰色の雲が裂け、現れた継ぎ目から一筋の日が差し込んでいた。長く空を浮遊していた雨雲は、いまその役目を終えて立ち去ろうとしていた。


 教室の扉が開く音がした。


 飛び交っていた言葉が止み、部屋全体が静寂に包まれる。緊張した空気が広がり、誰かが息を呑んだのがわかった。今度こそ、その“イケメン転校生”とやらが登場したのだろう。颯太は心の中では関係ないと言い聞かせながらも、やはりすこし気になったのか、目線だけを教壇の方へ動かした。白いワイシャツと黒いタイトスカートに身を包んだ天宮に続き、1人の生徒が入ってきた。


 女性だろうか?


 ぱっと見た瞬間、そう感じた。スカートではなく、ズボンを履いていたにもかかわらず、颯太はその人物が女性ではないかと疑った。たしかに昨今では女性もスカートかズボンか選択できる学校もあるらしい。だが、自分の通っている高校でそれはあり得ない。そう理解しているにもかかわらず、目の前にいる人物が女の子であると錯覚させた。そう思ってもおかしくないほど、その人物は端正で美しかった。


 長いまつげにくりくりとした大きな瞳、髪は少しパーマがかかっているようだったが痛みはなく、むしろ隅々までトリートメントが丁寧に行き届いているかのように汚れなく、つやつやと輝きを放っていた。身長は高校1年生とは思えないほど高い。180cmくらいあるだろうか? 170cm近くある天宮と比べてもまったく見劣りしない。むしろ年上と言ってもおかしくはないほど大人びた雰囲気がある。手足も長く、顔も小さい。一目見てスタイルがいいのが見て取れた。すこし小さめで不釣り合いな制服から覗かせる白い肌はきめ細やかで透き通っており、みずみずしい弾力を持っていた。ご汚い教室とは似合わないその姿は、下手くそな水彩画の中に貼られた写真のように浮き出ていて、この世とは思えない何か幻想めいたものを感じさせた。


「今日から新しい友達を紹介します」


 担任教師である天宮聖羅せいらがはきはきとした声で呼びかけた。その声はあきらかに興奮していた。今年25歳ではじめて持った担任のクラスということに加えて、転校生がやってきたということに胸の鼓動を隠しきれていないようだった。


 わからなくもない。普通の転校生ならまだしも、今回はあきらかに凡人とは違う特別な少年だ。テンションが上がるのも仕方がないだろう。


「隣町から転校してきた、神那愛かみなあいくんです。みんな仲良くしてくださいね」


 別に読めない漢字ではないのに、天宮はわざわざはルビまでふって名前を黒板に書いた。


「愛?」


 颯太は思わず口に出していた。


 見た目だけじゃなく、名前も女じゃねぇか。


 その瞬間、形容できない嫌悪感が胸の奥からマグマのように噴き出し、頭へと上った。嫉妬とはあきらかに違う、憎悪に似た怒りが体全体を駆け巡り、颯太を激しく苛立たせた。


 天宮が転校生を紹介し終えたとたん、魔法が解けたようにざわめきが教室中にあふれかえった。きっと誰もがいまのいままで見とれていたのだろう。「ヤバい、めっちゃかっこよくない?」女子生徒のひそひそ声が耳に入った。隣にいる優花もまんざらじゃなさそうに神那に見惚れている。颯太は足を投げ出すと、舌打ちをした。


「えっと、神那くんの席はあそこの開いているところで」


 天宮の指先が一番後ろの空席をさそうとしたが、すぐに何かに気づいたのか、「ごめんなさい、あっちの席でお願い」と、訂正した。


 いままでの高鳴りとはうって変わった、すこし寂しげな光が天宮の瞳に宿るのを颯太は見逃さなかった。


「まだこの町に来て間もないらしく、わからないことが多いみたいだから、みんないろいろ教えてあげてね」


 天宮は一瞬覗かせた悲しげな感情を振り切るように、高らかに声を発した。


 神那と呼ばれたその少年は軽くお辞儀をすると、無言のまま、天宮が示した席へと歩き始めた。普通、新天地だと緊張してどこかぎこちなくなるかと思われるのだが、神那はそんな気配を一切感じさせず、毅然とした態度で優雅に席に向かっていった。何でもないことなのに、まるでレッドカーペットを踏みしめる大物俳優のように様になっており、誰もが感嘆のため息を漏らさずにはいられなかった。


 クラスメイト全員の高揚は収まることを知らず、教室の喧騒は一向に終わる気配を見せなかった。誰もが驚きと興奮を覚えていた。天宮が手を叩き「みんな静かに」と注意したが、それは無駄なことだった。天宮はすこし呆れながらも、仕方のないようなあきらめの仕草を見せ、それ以上積極的に騒ぎを鎮めようとはせず、中断されていたであろう授業の続きを始めた。


 その後、文化祭の催し物を決めるためのLHRロングホームルームが行われたが、誰もがうわの空で、真面目に会議などとてもできる状況ではなかった。文化祭よりも、いま話題なのは圧倒的に転校生のことだった。絶え間ないひそひそ話がクラス中を飛び交い、興奮を押さえられないのか、時折あきらかに外部にもわかる大きな声が漏れた。それが颯太の耳の奥に吸い込まれるたびに不愉快は募り、彼は終始機嫌が悪かった。


 結局何1つまとまるもののまとまらないので、LHRはお開きとなり解散となった。終業を知らせると生徒、とくに女生徒たちが一斉に神那のまわりに集まり、彼の机を囲んだ。前に住んでいた場所はどんなところだったのか、趣味は何なのか、彼女はいるのか、さまざま質問が絶え間なく続く。神那はどの質問にも答えず、困ったような表情をしながらも、それでいて無下に拒否するようなこともせず、笑みをまわりに振りまいていた。颯太はその光景を眺めながら、さっきからひっきりなしに渦巻くイライラを押さえることができなかった。やがて彼は椅子をはねのけるように立ち上がると、一直線に神那の元に向かった。女生徒を押しのけ、神那の前に進み出る。女生徒たちは急に割り込んできた颯太の登場に言葉を止め、嫌な顔をしたが、あきらかに不機嫌な颯太の心情を読み取ったのか何も言わなかった。


 すぐそばで仁王立ちのようにしている颯太に気づき、神那は大きくまっすぐな瞳で颯太を見上げた。すこし茶色がかったその瞳には一切の濁りがなく、南国の海のように透き通っていた。それは純粋なほど無垢で、指紋のない鏡のように反射していた。


 言葉に表せられない威圧感が颯太を襲い、彼はすこしたじろいだが、その気迫に負けじと気を引き締めると、やけくそに似たがむしゃらな勢いで神那に問いかけた。


「このあと何か予定でもあるのか?」


 神那は何も答えない。ただじっとこちらを見ている。


「だんまりかよ」


 颯太はそう吐き捨てると、

「ちょっと付き合えよ」とぶっきらぼうに言って、その場を離れた。


 神那はほんのすこしの間、席に着いたままだったが、やがて無言のまま起立し、彼の後に続いた。他の生徒が何か言いたげだったが、颯太が睨み押し黙らせた。


「颯太!」


 優花が不安を察したのか、声をかけてきた。


「どこにいくの?」


 その質問を無視して、颯太は教室を出た。神那も黙ってそれに従った。優花は最初こそはどうしようかと狼狽しているようだったが、結局それ以上は何も追求せず、颯太のあとを心配そうに追いかけていった。

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