104:水竜と旅鮫

 カワタローは知らない。九年前にここリクギメトロ地下五階の広場で起こった悲劇のことを。


 襲いくる獣を巻き添えに呑み込まれた四人の狩人のうちの一人が、故郷アサクサで喧嘩別れした年の離れた弟だったことを。


 決して仲の悪い兄弟ではなかったが、亡き父親と兄をめぐる悪評のせいでいたたまれなくなり、故郷を離れた。その弟がここで命を落としたことを、カワタローは知らない。水底に沈んだ弟の認識票が半ば朽ちながらもそこに残されていることを、カワタローが知ることはない。


 ましてや今目の前で起こっている事象――この水上都市の中心に位置する広場、それを守護するようにぐるりと囲む六体の石像がメトロによる復元を待たずにすべて破壊されたとき、さながら侵略者ごと滅ぼさんと発動する怨念めいたトラップについて、心当たりなどあるはずもない。


 だから今このとき、首の裂傷に【治癒】を塗りつけながら巨大な水柱を呆然と見つめるカワタローが思うのは、今もなおその身を案じる行方不明の弟のことではない。自身の引きの悪さについてだ。


(毎度毎度、俺が引くのは空くじ貧乏くじばっかだけどさあ)

(本気の最後の最後は、いっつも悪運が勝つんだよなあ)


 もっとも、それを幸運と解釈できるかどうかは別ではある。

 

 

    ***

 

 

 下から突き上げるような強い震動で、愁は思わず身を低くする。地震大国ニッポンの申し子、とはいえまともに立っていられないほどの強い揺れだ。


(地震? このタイミングで?)

(いや、なんかおかし――)


 ドンッ! と甲高い爆発音とともに左の後ろで石畳が吹き飛び、そこから水が噴き出す。天井へ向けてまっすぐに放たれる巨大な水の柱だ。


「はっ!?」


 混乱で愁の足が止まった数瞬の間に、続けて二つ目の爆発と水柱が発生する。ほんの数メートル後ろ、衝撃で愁を薙ぎ倒すほどの近さで。大量の水飛沫が広場をずぶ濡れにしていく。


(なんか全然わかんねーけど)

(とりあえずここにいたらやべえ!)


 少女トロコが背を向けて走りだす。先ほど愁がふっとばしたムジラミの首を掴んで広場から出ようとしている。滑る菌能を解除して普通に走っているが普通に速い。さっきまであれだけ激しく斬り結んでいたのに、大した切り替えの速さだ。

 追いかける必要はない、あの子との決着などはこの際どうでもいい。元々なんで戦っていたのかもよくわからないままだし。


「タミコ!」


 相棒の名前をさけび、愁は走りだす。


 事前にひそひそと交わしていた作戦のとおり、タミコは愁の「ちゃんとくっついてろ」を合図にリス分身とこっそり入れ替わり、保護色を駆使して屋根の上でドヤ顔射撃していた指揮官を奇襲した。トロコを相手にしつつ、視界の端で手傷を負ったらしきカワタローの反撃でタミコが広場に落ちたのを見た。


 あれを機に明らかにトロコのナイフ捌きの精度が曇った。気が気でなくなったのは愁も同じことだったが。あの時点で戦闘どころではなくなったのはお互い様か。


「タミコっ!」


 もう一度さけぶ。声は広場中に広がっていく唐突な災害にかき消される。落ちた付近はだいたいわかる、視線を走らせる。十メートルほど先に、ひび割れて隆起した石畳の陰で横たわる小さな身体を見つける。


「タ――」


 二人を遮るように、目の前で地面が爆ぜ、水柱が上がる。


「ぐっ!」


 風圧と衝撃をまともに受けて、愁の身体が後ろに投げ出される。直撃していたら天井まで突き上げられて地面に叩き落されての「高い高い死ね」コースまっしぐらだ。


 すぐに起き上がろうとした膝がガクッと揺らぐ。ここへ来て――疲労とダメージが限界か。


「……くそっ!」


 震える膝を殴って言うことを聞かせ、水柱を回り込んで石畳に滑り込むようにしてタミコを拾い上げる。


「タミコっ! おいっ!」

「……りすぅ……」


 ぺしぺしと指先で頬袋を叩くと、むにゃむにゃと寝言のような返事が返ってくる。痛みに顔をしかめ、意識も朦朧としているようだが、少なくとも表面上は出血や大怪我はなさそうだ。思わずほっとしてその場にへたりこみたくなる。


 広場中が水浸しになり、中心付近はもはや池のようになっている。この勢いだと愁が立っているあたりもすぐに水没しそうだ。


 ぶわっと風が強まり、ゴウッと音が迫ってくる。タミコを抱えたままとっさに横に転がる。愁のいた場所へと水が襲いかかる。


「はあっ!?」


 見上げれば、無数の水柱がぐねぐねと蠢いている。まるで意思を持った生物のように。

 その先端が降ってくる。まるで首をもたげた水竜が獲物を丸呑みしようと襲いかかるかのように、愁めがけて正確に。


「んがぁっ!」


 もう一度地面に飛び込むようにして回避。鉄砲水どころかもはや波動砲だ、直撃を受けたらどこまで吹き飛ばされるか。


(つーか、んなアホな!)

(水が襲ってくるとか、ファンタジーつーかホラーやんけ!)


 ありえないと言いきれないのがメトロの文化。これもなにかメトロの謎物理現象や菌糸植物の仕業なのか。人食い藻とか大量に涌いていたりして。あるいはここで散った獣たちの怨念などと想像して無駄に背中を寒くしつつ、とにかく広場を逃げ惑う。早くここから逃げないと――いや――。


「うわあっ! こっちにも来たぞっ!」

「逃げろ逃げろ! 急げっ!」


 広場の外、向こうの家屋のひしめくほうでも水柱が上がり、人間のものらしき悲鳴が聞こえてくる。さっきの襲撃者の誰かだろう。


(まさか――)


 これ……どんどん広がっていったりして?

 このままこのフロア全体が水に沈んだりして?

 ありえないと言いきれないのがメトロのスタイル。もたもたしていたら逃げ場がなくなる。とにかくまずはこの爆心地から逃げて――、


 聞こえないはずの音が聞こえた気がする。

 パァンッ、と銃声のようなものが。


 激痛がふくらはぎを貫く。走りだした勢いを殺せず、懐に入れたタミコをつぶさないように身体を横にねじって倒れ込む。


「い……つ……」


 うめきながら見上げると、屋根の上にカワタローが立っている。

 サングラスのせいで表情は読めないが、その唇が小さく動き、聞こえないはずの声が聞こえた気がする。「ご・め・ん・ね・え」と。


「く、そ、がぁああっ!」


 怒りを力に変え、瓦礫を踏み砕いて立ち上がる。獣じみた咆哮とともに駆けだした――瞬間、横合いからダンプに突っ込まれたかのような衝撃に襲われる。


(水)

(直撃)


 身体の内側からバラバラにはじけるような衝撃に、視界が白くなる。真横でなく上へふっとばされる。


 思考すら途絶した長い滞空時間。地面に叩きつけられるかと思いきや、ぐるんと宙を躍っていた背中がザブンッ! とくぐもった音を響かせる。広場を飛び越えてどこかの水たまりに落とされたようだ。


 かすむ目を見開くと、薄暗い中に水没した街並みが見える。手足をばたつかせて水面へと向かおうとするが、強烈な水流に錐揉みされて思うように動けない。これもあの水柱と関連した現象だろうか。


 ごぽ、と口から空気がこぼれる。

 まずい、と焦りが恐怖へと変わっていく。


(【不滅】は窒息にも効果があるんだろうか)

(いやまあ、今は考えても意味ないだろうけど)

(俺はともかく……タミコが)


 懐に感じていた仄かな温かみも、冷たい水の中ではほとんど感じられない。

 身体を縮めて庇うような体勢をしながら、恐怖を押し殺そうと歯を食いしばる。


 まずは落ち着け。苦しい。

 どんどん沈んでる。やばい。

 泳ぎはそんな得意じゃないけど。息が。

 どうにかこの水流から脱出しないと。水が肺に。

 身体中がバラバラになりそうだ。痛い。

 血が足りない。体力も残ってない。

 力が入らない。

 濡れた服が重い。酸素が足りない。


 指先から手足へ、じりじりと無感覚が上ってくる。

 脳みそが明滅する。時間がもうないことを知らせるように。

 それでも、諦めるな。

 

 生きて――

 

 帰る――

 

 タミコ――

 

 こいつだけでも――

 

 目の前が暗くなっていく。思考がほどけて水に融けていく。

 それでも――身体はまだあがいている。

 頭ではない、魂がさけんでいる。

 こんなところで終われるか。

 終わるまでは終わらない。

 メトロでさんざん学んだことだ。

 終わるまで――あがき続けろ。

 

 ――

 ――――

 ――――――

 

 ぽうっと、真っ暗な視界に小さな光が点る。

 水面が近いのかもしれない。最後の力を振り絞る。感覚のない腕で必死に水を掻く。


 光がどんどん近づき、大きくなる。

 それが目と鼻の先まで迫ってきたとき――愁の濁った目がそれを捉える。


(さっ)

(鮫っ?)


 この薄暗い水中で、チョウチンアンコウのように頭上にランタンをつけた鮫。

 愁の目の前でギザギザとした歯列ががばっと剥き出しになる。一口で愁の頭をもぎとらんばかりに。


「ごぱっ!」


 思わず肺に残っていた最後の空気が吐き出される。


 一気に意識がブラックアウトへと引きずり込まれていくが、それでもタダでは食われまいとなけなしの力を振り絞って拳を突き出す。

 抵抗でノロノロとしたそのパンチが、鮫のヒレ――ではなく手で受け止められる。五本の指とその間に水掻きを備えた手だ。


(ぐっ――)


 拳を掴んだ手に、わずかに力がこめられる。握りつぶされる。引き込まれて食らいつかれる。――そのどちらも起こらない。ただ純粋に制止されているだけだ。


「――慌てなさんな、とって食やしないよ」


 開かれた口の奥からそんな言葉が聞こえる。低く、ややしわがれた声だ。


 もう片方の手が愁の頭を鷲掴みにする。

 次の瞬間、耳鳴りに似た甲高い音が頭蓋骨の中で反射し――そこで愁の意識は途絶える。

 

 

    ***

 

 

 目が覚めて最初に目に入ってきたのは見知らぬ天井だ。


 なにか夢を見ていた気がするが、思い出せない。

 百年前の、東京の夢だったのは確かだ。それ以上のことは指の隙間から水がこぼれるみたいに記憶に押し留めていられない。


 ともあれ、目覚めた愁の頭に同時にいくつもの疑問が浮かぶ。「ここはどこ?」「俺、生きてる?」「なにが起こった?」。それらの内で真っ先に口をついて出たのは、


「たっ、タミっ……」


 だが、舌がもつれて言葉にならない。


「――めをはなすんじゃねえりす! おサカナがこげたらキサマもまるやきにしてやるりす!」

「焼き魚でペナルティ重すぎでしょ! あんたはもうドングリでも食ってなさいよ!」

「キサマー、いまドングリをしたにみたりすな! ドングリをわらうものはドングリにしす! シャーッ!」


 キーキーと姦しい声がする。頭を持ち上げると、焚き火の前でタミコとウツキが言い合っている。そばには串に通された魚が炙られている。


「タミコ……」

「あっ? あ、アベシュー!」


 てとてとと走ってきたタミコが愁の上に飛び乗る。そこで初めて愁は自分が服を着ていないことに気づく。毛布にパンツ一丁だ。


「めがさめたりすー! よかったりすー! びゃー!」

「あ、うん」


 泣きじゃくるタミコの頭がぐりぐりと乳首ドリル。


 そういえば、と身体の傷が消えていることに気づく。あちこち刻まれた裂傷も太腿やふくらはぎに開いた風穴も、すべて綺麗さっぱり消えている。

 状況を把握できていないながらも、【感知胞子】であたりの気配をさぐる。周囲に見えない胞子が散布され、地形が立体的に知覚できる。と、


「……あ、使えた」


 一歩遅れて気づく。いつものように無意識に【感知胞子】を出したが、普通に使えた。眠っている間に呪いとやらの効果が消えたのだろうか。試しに【聖癒】も出してみると成功、タミコのおやつとして頬袋に吸い込まれる。怪我の回復も【不滅】が仕事復帰してくれたおかげのようだ。


 ともかく、まずは【感知胞子】だ。周囲をさぐるが、少なくとも領域内にはこの三人しかいない。獣も、あるいは人間もいない。あたりは静まり返っている、とりあえず危機は去ったようだと理解する。ふうっと大きく息を吐いて、彼女の毛深い背中を撫でておく。


 ここはリクギメトロ地下五階の水上都市、ではないらしい。ごつごつとした岩肌の続くオーソドックスなメトロの風景が、夜の青っぽいヒカリゴケの光に照らされている。寝ている間に他の階層に運ばれたのか――誰に? ウツキに?


「……俺、どんくらい寝てたんだ……?」

「一時間くらいだと思いますよ」


 ウツキが水筒を持って近づいてくる。手渡されたそれをあおると、喉に流れ込んだ水が身体中の細胞にしみていくのを感じる。


「勝手に脱がしちゃってごめんなさい。服とか荷物は今火のそばで乾かしてるところです」

「あー、ありがとうございます」


 服はともかく、リュックは広場に置き去りだったのに。一緒に流されたのを持ってきてくれたのだろうか。


「あの……ここは?」

「四階です。五階行きの階段の北のほう、だと思います」


 見憶えがない。おそらく通ってこなかった場所だ。


「呪いが解けてよかったですね、傷も勝手に治ったし。【自己再生】じゃないですよね? 初めて見ましたよあんなの。カビが傷口を覆ってふさいでくんですもん、ちょっとキモかったというか」

「あ、いや、まあ……つーかウツキさん」


 なんでここにいんの。なんで生きてんの。つーか裏切ったよね。どれを口にしようか迷うが、とりあえずニュアンスで伝わったらしく、ウツキの顔がみるみるこわばる。


「あ、あ、あの……ていうかですね、話すととても長くなるんですが……とりあえずサーセン! マジサーセン!」


 ロリボディーが目の前でちょこんと折り畳まれる。肌着姿のロリ娘の土下座。


「こいつウラギリモンりす! シチューヒキマワシのうえサンカクモクバりす!」


 地面にこすりつけた頭に炸裂する往復リスビンタぺしぺし。


「とりあえずおサカナがやけるまではいかしてやるりす! そのあとはロリのひあぶりりす!」

「ケダモノ怖い……飼い主さんなんとかしてください……」

「あっち焦げてそうな感じだけど」


 慌てて焚き火のほうに戻っていくウツキ。愁も火に当たろうと立ち上がり、立ちくらみに苦しみながらふらふらと歩きだす。未だに呪いのダメージが残っているのか、ひどく気怠い。傷の修復のせいで腹も減っている。なんでもいいから腹に入れないと――。


「――焼き魚もいいが、狩人ならその前にやるべきことがあるんじゃないかの?」


 背筋がぞわりとする。

 焚き火とは反対の方向、愁が背を向けていた先に――岩を椅子代わりに腰かけている影がある。


(【感知胞子】で察知できなかった?)

(なんで? つーか誰?)


 鮫だ。

 そう、水中で気を失う前に遭遇した鮫。それがそこに足を組んで座っている。


 鮫の頭を持った人間……いや、人間の手足(と水掻き)を生やした鮫というべきか。かなりでかい、立ち上がったら二メートル半くらいはありそうだ。銀色のきらきらとした体表、真っ黒でつぶらな瞳。服と呼べるものは腰巻きのみで、革ベルトで留めた長大な銛のようなものを背中に背負っている。


「すまないが、ここから失礼するよ。火のそばは肌が乾いてしかたないんでの」


 しわがれた声、物腰の柔らかい口調。ひとまず敵意や害意は感じられないが――わからない。タミコではないから正確なレベルなど測りようもない。


 けれど――なんだろう、さっきから背中を伝う冷たい汗を止められない。


「しゃほほ、そんな怖い顔せんでくれんか。お主のような手練にそうピリピリされると、ワシのような獣にとっては心穏やかではおられんでの」

「……は、はい……」


 これは、魔人を含めてこれまで出会ったどんな生物とも違う。


「あのサハギン、ずっとあそこにいたりす。チョーこわかったからみてみぬふりしてたりす」

「しゃほほ、とって食やしないさ、毛玉のお嬢ちゃん。それとあんな半魚どもと一緒にせんでくれ。ワシは鮫だ、暗き海を征く誇り高き狩人さな」


 得体が知れない、底が知れない。

 どれほどの存在か計り知れない、別次元の生物。

 そんな気がする。


「えっと、あなたは……?」

「名乗るほどのもんでもないがの。メトロの水流をさすらう旅人、いや旅鮫さな」

「たびざめ……」

「一応、あたしの師匠です」とウツキ。「だいじょぶですよ、見た目ほど凶暴じゃないですから。……普段はですけど」


 謎の鮫男と偽ロリの師弟関係? ますますわけがわからなくなってくる。


「古き友にもらった名……サトウ、というのが気に入っとる。そう呼んでくれて構わんぞ」

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