94:リクギメトロ地下一階
村からリクギメトロへは荷車が通れるほどの道が拓かれている。単に地面を平らにして砂利を敷いただけの道だが、森の中をさまよったりせずに済むのは助かる。
森はすでに夜の準備に入っている。空気はひんやりとして、湿度の高さが不快にならなくなる。
薄暗くても【感知胞子】のおかげで転んだりはしない。歩きながら愁は耳を済ませる。森のささやきのような虫や鳥の声、ひたひたと雫の垂れる音。そしてそれらの雰囲気をぶち壊す工事現場のごときタミコのドングリ咀嚼音。
「タミコ、いるよな」
「いるりすね」
【退獣】発動中なので無造作に寄ってくるようなことはないし、【感知胞子】の間合いに入ってくる者もいないが、獣の押し殺した息遣いは肌で感じとることができる。自分たちの領域に入ってきた者を、曖昧な色をした夕闇の向こうからおそるおそる窺っている。バフォメットか、あるいは他の獣か。
「かるりすか?」
「今はほっとこう。向こうから襲ってなければね」
特に誰かに絡まれたり迷子になるようなこともなく、距離にして徒歩で二十分ほど歩いたところで、ようやく目的地が見えてくる。だいたい所要時間は聞いていたが、実際に歩いてみるとほとんど目と鼻の先のように感じられる。
「着いたな」
蔦の這うコンクリートに似た外壁の入り口。そこから下り階段で地下へ通じている。その脇には村人がこしらえたらしい立て看板がある。「リクギメトロ 西口』。
頭上を飛び交うカラスが鳴いている。不吉な響きかたをしているように聞こえるのは気のせいだろうか。
愁の鼓動が少しだけ速くなっている。緊張しているようだ。それほど強力なメトロ獣はいないらしいが、それでもメトロはメトロだ。討伐部隊の件もあるし、入ってみればなにが起こるかわからない。ここから先は人間でも、あるいは獣でもない、もっと得体の知れないナニカが支配する常識外の領域なのだから。
「……よし、準備はいい?」
「おしっこりす」
「行ってこい」
草むらでお花摘みを済ませて戻ってきたタミコを肩に乗せ、愁は軽く自分の頬を叩く。
「こっからが本番だからな。気合入れていこう。油断するなよ、タミコ」
「あっ(ぶるっ)」
「どうした?」
「なんでもないりす。ただのざんにょうりす」
「ただのじゃねえよ。肩に乗る前にちゃんと出しきるって約束したろ。粛々と左肩に移るな」
ともあれ、そうして二人は闇を湛える洞穴へ足を踏み入れる。
リクギメトロの冒険が始まる。
***
長い階段を下りた先は、天井の高い空間が広がっている。ヒカリゴケのおかげで外よりも明るいが、岩肌剥き出しの壁面やトゲトゲしく並ぶ石筍のせいで、どことなくおどろおどろしい天然の洞窟のように見える。
下りたとたんいきなりバフォメットの奇襲、というのも警戒していたが、あたりに獣の姿はない。こちら側の出入り口付近は普段から村人の往来が多いせいだろう。
リクギメトロは十数年前に発生した新しいメトロだ。それ以前から地下に隠れていただけかもしれないが、少なくともこの入口が発見されたのはそれくらい前だ。
現在もメトロの変動がわりと頻繁に起こっていて、当初は地下十階が最深層とされていたが、現在は十三階まで拡張が進んでいるという。
(拡張と同時にメトロ獣が湧くって話だもんな)
(ショロトル族もあのフロアができたときからいたって言ってたし)
地中深く眠っていた種子がなにかの拍子に目覚めるかのような。やはりメトロというのは謎だらけだ。
リクギメトロのマップは、公式には三階くらいまでのざっくりとしたルートを記したものしか存在しない。村人は庭のように知り尽くした一階か二階をうろつくだけだし、狩人にしても熱心に通うような場所でもないからだ。
調査隊の報告によると、バフォメットのコロニーの中心部は五階にあるという。正確には今回の異常繁殖した群れの中核をなすボスのねぐらだ。
なにかのきっかけで一種の獣が一定の領域内で異常繁殖し、ボス的個体あるいは複数の中心的存在により統率された巨大な群れとなり、他の獣やメトロ内外の生態系に影響を与える。それが狩人ギルドの定めた〝コロニー〟の定義だ。
個体数が増えればエサも必要になり、あぶれたものが地上に出てくる。あるいは他の獣を食い尽くし、手がつけられないほど肥大化していく。放っておくと被害は広がっていくばかりだ。
鎮めるためにはボスやそれに類するものを討伐し、群れの個体数をある程度減らす必要がある。ボスは当然のごとく他の個体よりも強大な力を持ち、周囲を手下でかためていることが想定されるので、バフォメットのような浅層の獣でも数十人規模の討伐部隊が駆り出されることになるのだ。
(嫌な予感はするよな)
(なんか予期しないことが起こりそうな)
(オウジでの体験が強烈すぎたせいかもだけど)
気合を入れ直し、愁は奥へと進みだす。
「リクギメトロは水のメトロ」と言われているらしい。
ほどなくして二人は特徴を目の当たりにすることになる。
「ほえー」
「りすー」
目の前を流れる大きな川。幅にして二十メートル超、バシャバシャと飛沫を立てる濁った水の流れは結構強い。梅雨時はメトロ中あちこちで水量が増すので、通い慣れた村人でも事故に遭うこともあるという。
「タミコは泳ぎダメだし、こういうとこに落ちないようにしないとな」
タミコの得意な泳法は犬かきもといリスかきだ。邪魔かと思われた尻尾で意外な推進力を発揮するが、息継ぎが苦手で結局ぷかーっとなる。
「へっ、あたいはノアといっしょにおふろでとっくんしたりすよ。こんなかわ、いまじゃあサハギンのごとくすいすいりす」
湯船をかきかきして泳ぐリス。コーチするノア。湯気に包まれて上気した二つの肉塊。という羨ましい光景を想像しかけて首を振る。ぶるぶる。
「河童の川流れって言葉があってな。ちょっと意味が違うけど、この濁流感だとリスなんか毛玉も残らんから」
愁としても学校の体育で習った程度なので得意なほうではない。身体能力も心肺機能も向上しているとはいえ、さすがにこの濁流には落ちたくない。
「とりあえず、二階は川の下流のほうだっけ。行くか」
流れに沿って歩きだす。道中で道が脇に逸れたり下り坂になったりするが、方向感だけは失わないように注意する。
岩壁に流れる水、そこかしこに溜まった池。確かに水のメトロだ、濾過用のフィルターをつけた水筒を持参しているので、これなら多少の強行軍でも乾きに苦しまずに済みそうだ。
水も豊富だが、緑も豊富だ。至るところにオオツカのオアシスのように菌糸植物が生い茂っている。ほとんどが草花や灌木ばかりで、掻き分けて歩くだけで露で全身ぐっしょり濡れていく。
「あ、これだ。傷薬の原料になる薬草」
やや黄色みがかったヨモギに似たトゲトゲしい野草。ノグチソウというらしい。
いわゆる〝ポーション〟と呼ばれる特別な傷薬の原料の一つになる。【治癒】ほどではないが薬効としては即時性が高く、特に狩人に重宝される(ノアも二本ほど常備している)。ちなみに一本一万円くらいするらしい。
他にも紫色の六角形の葉っぱ、ゼンマイのようにくるんと茎が渦を巻く白い草など、村の小屋に保管されていたものがある。リクギ村ではこれらの野草を摘み、乾燥させたり燻したりすりつぶしたりなどの簡単な加工をして薬品の製造元に卸している。貴重な現金収入源だそうだ。
「これ、なんでむらでそだてないりすか?」
「おお、いい質問だな」
「むふー」
「地上では育てられないから、かな。原理はよくわからんけど、メトロ内の一部の菌糸植物は地上の土や光じゃあ栽培できないんだって」
と図書館で借りた本に書いてあった。
「たとえばネリマのコーヒーキノコなんかは地上で栽培できて、品種改良なんかも進んでるらしいけど。ノグチソウなんかは地上じゃ育たないんだと。だからリクギ村の人たちはわざわざここまで採りに来るんだ。こういうメトロが近くにある村ならではの産業ってやつかな」
「アベシューがかしこくみえたりす」
「俺だって勉強してるからね。いっつもノアに訊いてばっかじゃ年上の面目が立たんし」
「あたいだってベンキョーしてるりす。あそこのはなのタネはうまうまのやつりす」
シャッと飛び出して目ざとくヒマワリの種っぽいものを拾ってくる。
「バフォメットが増えてからは、ここまで採りに来るにもリスクも負担もでかくなる。いつもより人手をかけなきゃだし、そうなると他の仕事にしわ寄せがいくし。カヤさんも前より忙しそうだったもんな」
警護のために狩人を雇い続けるのも(スガモからの補助があるというが)経済的な負担になっているだろう。討伐にしろそのための調査にしろ、村人百人の生活がかかっているわけだ。
「先を急ごう。今日中に五階まで到達できればいいんだけど」
ほどなく川と合流し、さらに歩くと、今度は川が滝になって十数メートル下に流れ落ちている。滝壺の周りには白っぽい水煙が漂っている。
水流が多いメトロはえてして階層内でのアップダウンが激しいところが多いという。ここから先は村人もほとんど立ち入らない、メトロ獣と狩人の戦場だ。
普段【跳躍】で鍛えている身としては飛び降りられなくもないが、見たところ下の足場が狭いので、岩壁を掴んで下りることにする。大学時代に友だちとボルダリングを一・二度やったことがある愁だが、今なら腕だけで垂直より急な斜面だろうと登れる自信がある。ジツリョク。
(バフォメットもこういうとこ通ったりするんかな)
ヤギは見た目によらず木登りや崖登りが得意な生き物だし、なにより首から下はサルだ。立体移動の名人同士のフュージョンした姿だし、村で戦った際も結構アクロバティックな動きをしていたし。
そう時間もかからずに滝壺の脇まで下りる。「ごくろうりす」と上官から労いの言葉とドングリをいただく。ゴリゴリ。
あとはまっすぐ進めば地下二階への階段があるはず――だが。ふと。
「……こういう滝の裏ってさ、覗いてみたくなんない?」
「りす?」
RPGに慣れ親しんだ世代としては、お宝や隠し部屋の存在を疑わずにはいられない。
まあ、なにもないのはわかっている。不人気とはいえ人里に近いメトロ、その地下一階。隅々まで調査済みだろう。
だけれど、だけれども。ちらっと覗いてみたところで損はないのではないか。それでなにもなければ「知ってた」で済む話なのだから。
というわけで、行ってみる。細い足場を伝い、岩壁に背中をくっつけるようにして、ドドドド……と間断なく降り落ちる水の壁の裏側へ滑り込む。と――
「おおっ! マジであるやん!」
そこにぽっかりと横穴が続いている。まるで「よくぞ見つけてくださった」と言わんばかりに。
事前情報としては聞いていなかったが、誰かが発見済みかもしれない。それでも高ぶらずにはいられない。
カニ歩きを速め、身をねじこむようにしてそこに入り込む。奥にはちょっとした広さの空間がある。まさに隠し部屋、秘密基地――そして先住者。
「え?」
目が点になる愁。それは彼らにしても同じことだ。
寝っ転がって寛いでいた、三匹の獣。愁たちのほうを振り返り、硬直している。
体高にして百五十センチほど。焦げ茶色の体毛、毛深くてひょろりと細長い四肢。悪魔のように先端の尖った尻尾。痩せこけた胸板の上に載っているのは、額に三日月型の角を生やしたヤギの頭。
バフォメットだ。
「あー……えっと……」
飛び起きたバフォメットが身構える。「メエッ!」「メエッ!」と怒声を発して威嚇する。
「と、突撃! お宅が晩ごはん!」
愁も慌てて【戦刀】を出す。というわけで、戦闘開始。
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