樹海~スガモ編
22:〝東京審判〟
北に少し歩いたところに小高い丘があり、そこから付近を見渡せるという。愁はノアについて森の中へと歩きだす。
あたりに生い茂るのは、メトロに生えていたのとよく似た奇怪な菌糸植物だ。ただしどれも大きい。
人の腕ほどもある巨大な猫じゃらし、ヒョウ柄のウツボカズラ、スポンジのように穴の開いたマリモ、信号に似た三つの目を持つ細い木。あるいは色とりどりの花やキノコやシダ植物。
ちちち、と小鳥の声が聞こえる。飛び交う虫もわりと気色悪く、少なくとも東京でも行田でも見かけたことのないやつらばかりだ。
定位置の肩の上に乗ったタミコは、ぽかっと口を開けたまま絶えず頭上を見回している。さっきまでは目に入るものを次々と呼んでいたが、愁の口数が少ないのを気にしてか、彼女も黙って観察するようになっている。自分のせいで彼女の喜びに水を差してしまったのかもしれない、と愁は申し訳なく思う。
ほどなくして途中で勾配が急になり、木に手をかけて登るようになる。しっかりと幹のかたい、愁の知る「普通の木」もあるようだ。これも切って割れば奥には菌糸が張っているのだろうか。
「着きましたよ、アベさん」
五分ほどで登り終える。ノアに並んで丘のへりに立つ。
「……なにこれ……」
それほど高い場所ではないが、あたりの景色を見渡すことができる。
視界の続く限り、鮮やかな森林が陽光の下に広がっている。起伏が大きく合間を走る川も垣間見える。東のほうには岩肌の露出した高い山の姿もある。
「きがいっぱいりす。これがもりりすか?」
「そうです。トーキョー大樹海。このシン・トーキョーのほぼ全域を覆う菌糸植物の森です」
東京全域。これが。
愁はぺたんとしゃがみこみ、頭を抱える。苦笑するしかない。
「これのどこが……東京だよ……」
コンクリートジャングルが本物のジャングルに。笑えないジョークだ。
「百年で……こんなに変わっちまうのかよ……つーか東京、滅んだんだろ? なんでこんな風になってんだよ……百年でなにがあったんだよ……」
「アベシュー……」
タミコが気遣わしげに愁の頬をさする。
ノアが隣に腰を下ろす。
「百年前の東京は、この緑の森と同じくらい、灰色の四角い建物がひしめいていたって、ひいじいから聞きました。今よりももっとずっと、たくさんの人がこの街で暮らしていたって」
「ひいじい?」
「前の世界から生きていた人です」
「マジ!?」
「はい……八年前に亡くなりましたけど……」
「あ、そうなんだ……」
今はトーキョー暦百七年のはずだ。仮に平成の時代にギリギリ物心のある年だったとしても、百歳を超えていたことになる。ご長寿だ。
「アベさんは、百年前のその日、なにが起こったのか、憶えてないんですよね?」
「うん……なんとなくしか」
ノアがポケットから古びた手帳をとり出す。表面がすり切れてほとんど白っぽく色あせた革の手帖だ。
「これは、ひいじいが若い頃から使ってた手帳です。あのときのことも書いてあります。字が汚くて、ほとんど断片的にしか読めないけど……」
「マジ? 俺と同じ時代の人の、手帳?」
ぱらぱらとめくるその紙も、しわくちゃで黄ばんでいて今にも朽ちそうなほどだ。
そこに、曾孫をして下手と言わしめる文字が、何ページにも渡って殴り書きされている。確かに愁の目には暗号にさえ見えるひどさだ。
「ボクも、ひいじいの寝物語でしか知りません。だけど、ひいじいはそのときの――〝東京審判〟のことを、とても鮮明に憶えていたようです」
***
東都メトロの地下鉄トンネル内に生じた、怪奇現象とも呼べる謎の異変。
不自然な横穴、縦穴、裂け目。ありえない分岐路の出現。有毒ガスと思われる気体の漏出、既存のものとは思えない巨大な生物の影、調査に出たまま行方不明になったメトロ職員。
どこまでが事実でどこまでがフェイクなのか、当時はネットもテレビも情報が錯綜していたのを憶えている。
そして、最初の異変発覚から一週間後。
「のちに〝東京審判〟と呼ばれる二つの大きな天変地異が東京を襲いました。一つ目が、メトロの氾濫でした」
局所的な大地震が東京を襲った。建物を薙ぎ倒し、地表を砕き、陥没させ、隆起させた。
それはメトロの氾濫によるものだった。それまでのじりじりとした緩やかな異変から、堤防が決壊するかのように爆発的にメトロが溢れ出したのだ。
そうして崩壊した東京を、壁が囲ったという。
「壁?」
「今日は胞子が飛んでて空気が少し濁っていますが、遠くのほうにうっすら見えませんか?」
目を凝らすと、確かに見える。空に溶け込むほどにうっすらと、森の稜線から白っぽい壁がせり出し、地平線をなぞるように横に伸びている。
「なにあれ……つーか、めっちゃでかくね?」
「高さにして五百メートル以上もある巨大な壁です。それがこのシン・トーキョーをぐるっと囲っています。あれもまたメトロの一部だと言われています」
「あれがメトロの一部? ってか、東京をぐるっと?」
「正確には旧東京の都心部を中心に囲っているそうです。地下のメトロの爆発的氾濫、東京の崩壊、壁の隆起、外界との隔絶。それがたった一日のうちに起こったと」
「……そこにいた人たちは……?」
「文献によると、その一日で何百万という人が犠牲になったそうです」
「そんな……」
それでも一千万以上の人々が生き延びて、外界からの救助を待っていた。けれど彼らの元に訪れたのは救いの手ではなく、二つ目の災害――〝
氾濫したメトロの奥から正体不明のカビが放たれた。それは既存の分解者としての菌類とはまったく異質な、すべてを分解する〝超菌類〟だった。そしてそれは壁によって隔離された東京都心部の全域を覆った。立ち込める胞子は濃密な霧のようで、十メートル先も見えなかったほどだという。
「昔、そういうのをマンガで読んだことがあったな……」
巨大ロボットを操る正義の少年たちの話だ。
人間を害悪とみなした宇宙人によって地球上にカビがばらまかれ、少年たちはそれを食い止める寸前で死んでしまう。あの衝撃的なラストのあと、人類がどうなったのかはわからない。
「『超菌類は地上のあらゆるものを分解した。機械を、紙を、金属を、電線を、ガラスを、プラスチックを、ビルを、家を、インフラを、叡智を、歴史を、社会を、芸術を、通信網を、あらゆる文化を。まさに文明の分解者だった』。ひいじいの手帳にはそう書いてあります」
「文明の分解者……」
「超菌類による感染症で多くの人が亡くなりました。病院も機能せず、治安維持も機能せず。機械は壊れ、ライフラインは断たれ、情報は途絶され、食糧も超菌類に食われ。胞子の霧が晴れ、カビが姿を消し、〝超菌類汚染〟が終息したのは十年後でした。その間に東京は完全に崩壊していたと」
「十年って……」
超菌類は東京を分解し、役目を終えたカビは塵になって土壌を形成し、東京はあふれんばかりの菌糸植物に覆われた。過去の文明の形跡は、その土壌の禿げたところにわずかに顔を出す瓦礫の墓場くらいだった。東京は死に、そこにはまったく別の世界が生まれていた。
「……でも、生き延びた人もいたってことだよね?」
「そうですね。ひいじいも含めた多くの生存者は、〝超菌類汚染〟発生後、住む場所を追われ、メトロの中に逃げ込んだそうです」
「メトロの中? 超菌類ってメトロの奥から出てきたんだよね? だいじょぶだったの?」
「無事じゃなかったみたいです。感染症や食糧不足で死者はますます増えていきました。それでも――生き延びた人たちもいた。その人たちはいつしか超菌類に対する耐性を身につけていた。メトロ獣と同じく、全身を菌糸に寄生され、崩壊に向かう世界に適応した。ボクたちの先祖に当たる人たち――始まりの〝糸繰りの民〟です」
彼らは広大なメトロの中に身を潜めて生きながらえた。いくつものコロニーを形成し、菌糸植物やメトロ獣を捕食し、メトロを流れる地下水を飲み、十年という長い歳月を耐え続けた。
「俺も五年メトロで暮らしてたけど……その倍以上か……」
あともう五年あの生活が続いていたらと想像すると、気が遠くなる。
「地上がカビの汚染から解放された時点で、人口は五十万足らずまで減っていたそうです。それでも彼らは過酷な冬の時代を生き延び、再び地上を人の手にとり戻すべく、太陽の下で再興を始めました」
とはいえ、メトロの奥には食糧となる動物や多くの貴重な資源があり、なにより胞子嚢から得られる力は一部の人々にとって不可欠だった。メトロはこの地に災いをもたらした元凶でありながら、地上の再興の土台にもなった。メトロ攻略を生業にしていた人々こそ、狩人の大先輩に当たるわけだ。
そうして地上の奪還と開拓が始まった。メトロ獣を追い出し、土地を開墾し、住居を建てていった。人々は寄り合って知識をかき集め、その過程で集落が生まれ、それはトライブと呼ばれた。
各地にトライブが増え、交流や争いが起こった。やがてすべてのトライブをまとめる統合政府――都庁が発足し、ここはシン・トーキョーという国になった。争いはしだいに収まり、人々は生活の安定と発展にますます力を注いでいった。それらは数十年という歳月を存分に用い、ゆっくりと慎重になされていった。
「……というのが、ここに書かれている東京の終わりとシン・トーキョーの始まりの歴史です。ひいじいも全部を把握しているわけじゃないみたいですけど、たぶんこのとおりなんだと思います。ひいじい自身が生き証人だったから」
タミコはぽけっと口を開けたままだ。理解が追いついていないらしい。
もっとも、気持ちとしては愁も同じだ。感情が追いつかない。
それでも、気になることはいくつかある。
「……外の世界って、どうなってるんだろうね?」
先ほどまでのノアの話では、壁の外の世界については一切触れられていない。
仮に〝東京審判〟とやらが壁の内側のみの局所的な災害だとしたら、外の世界が無事だったとしたら、ここは今頃シン・トーキョーでなく復興した東京都になっているはずだ。
そういう意味では、いくつか推察できる答えはある。問題はそのうちのどれかということだ。
「すいません、わかりません」
「わからない?」
「ボクたちには外界のことを知る術がありません。向こうに行くことも、向こうから入ることもできないから。ボクたちは壁を越えられないんです」
「越えられない?」
確かに五百メートルの絶壁をよじ登るのは無理だろう。しかし、科学文明が途絶えてヘリや飛行機をゼロからつくるのが難しかったとしても、もっとお手軽な、気球やドローンのようなものくらいならつくれそうなものだ。
「空飛ぶ鳥も、あの壁を越えることは不可能だって話です。あれはただの壁じゃなくて……ボクもよくわかんないんですけど……。とりあえず、壁に干渉することや越えようとすることは、この国の禁忌の一つとされています」
「……よくわかんないけど、壁は越えられない、外の世界の情報はなにもない、ってことか」
鳥が越えられない。それが事実だとしたら、物理的に壁の上から通過すること自体が不可能だということだろうか。
なにか超常的な力でも働いているのだろうか。見えないバリアとか、電磁波とか。そんなアホなと言いたいところだが、そもそもメトロなり超菌類なり現実に前提がぶっ飛んでいるから、今さら否定しようもない。
「……ちなみにさ、イカリさんは飛行機とかヘリってわかる? 見たことある?」
パンデミック当時ならともかく、今となれば外界からの偵察くらい来てもおかしくはないだろう。機械まで分解する超菌類とやらもはびこっていないという。壁を越えられずとも、周囲の上空を飛んでいるものがあるかもしれない。
「……はい、ひいじいのメモに書いてあります。知識としてはわかります。だけど……見たことはありません。そういうのが外の空を飛んでいたというのを確認されたことはないと思います。都庁やメトロ教団ならなにか知ってるかもですけど」
ノアは少しすまなそうにしている。その答えが愁にとってどういう意味を持つのか察しているのだ。
「……ありがとう、イカリさん。よくわかったよ」
愁は大きく息をつき、何度か小刻みにうなずく。
ほぼ間違いないだろう。
〝東京審判〟と同様の事象かもしれない。あるいはその余波かもしれない。もしくはまったく別の事象によるのかもしれない。
どちらにせよ――航空機を保有するだけの文明は、外の世界にはない。少なくとも。
それどころか――人類が存続しているかどうかも定かではない。
あるいはもう――最悪の場合……。
「……そっか……」
(もうないのかもなあ……行田も、実家も)
百年――途方もない年月だ。
自分の生きた世界が、土に還ってしまった。
自分の生まれた場所も、生きた場所も、すべて土に埋もれてしまった。
頭ではとっくに覚悟していたはずだった。
けれど、改めてそれを聞いて、この目で見てしまって。
――もう、なくなってしまっている。
自分を育ててくれたものも。自分が愛していたものも。そうでなかったものも。なにもかも。
「……あーあ……」
愁の中で行き場をなくした感情が、一筋だけその目からこぼれる。
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