3:戦う
愁の覚醒から二十日が経過している。
オオツカメトロ。一見して昼も夜もない地下世界ではあるが、壁や天井に生えている照明代わりの光る苔――タミコいわくホタルゴケ――の色が白っぽいときは昼、青っぽくなると夜ということらしい。
それを日付の目安として、隠れ家の壁に正の字をつけている。正が四つ書かれたすぐ下で、愁はオオカミの毛皮にくるまって目を閉じている。すでに起きているが、目をつぶってうとうとと二度寝を楽しんでいる。
「あさりすよー! アベシュー、おきるりすよー!」
耳元の超音波で起こされるのは気持ちいい朝とは言えない。だがそれが二十日続いている。ちょっとうるさい目覚まし時計くらいに思っている。リスの頭をむぎゅっと押して止める。ちなみにリスは昼行性だ。
「おはよう、タミコ」
「おはようりす、アベシュー。さあ、かおをあらってシャッキリしたら、きょうもきょうとてイバりくさるクチくさオオカミどもをギャクサツするりすよ!」
「物騒だわ。つーかやるのは俺なんだけどね」
愁は毛皮のマント――オオカミの毛皮を紐状にした皮で結んだものを羽織って立ち上がる。マントの下は同じ素材の腰巻き一丁だけだ。
正の字カレンダーの上には、愁のレベルが記録されている。同じように正の字でカウントされているそれは、正が一つとTが刻まれたところだ。
****
「よっしゃ! こうなりゃ今日こそは完勝めざすぞ!」
「そのいきりす! アベシュー!」
その三時間後。
タミコが隠れ家付近をうろつくゴーストウルフを察知。
接近、会敵、そして戦闘開始。
「ガァアアウッ!」
対峙する愁の身体を、爆発的な咆哮が叩きつける。
「ちちちちくしょう! こここ怖くねえぞこの野郎!」
「アベシュー! ひざがふるえすぎてザンゾーをえがいてるりす!」
ゴーストウルフは相変わらず大きい。獰猛で強い。だから怖い。何度戦っても怖い。
愁は手を前に構える。意識を集中する。てのひらからするすると白い刀身が伸びていく。
いつからかはわからない。なぜなのかもわからない。
ともあれ愁は、目覚めたときにはすでにその菌能というものを持っていた。それも二つも。
そのうちの一つがこの菌糸の刀だ。正式名称はわからないので「愁の菌糸刀」と呼んでいる。愁にとってのメインウエポンだ。
ぶちっともぎとり、柄を握りしめる。正眼に構え、襲いくるオオカミを迎え撃つ。
「おおおおらぁっ! こここ来いやぁっ!」
これで八戦目になる。身体能力の差はレベルアップしていくにつれて縮まってきているが――依然として埋めがたいものがある。
愁の菌糸刀による攻撃はほとんど届かない。この二十日間で何千回と振り込んできた太刀筋はあっさりかわされ、爪ではじかれ、ぶ厚い皮膚と強靭な毛で受け止められる。
逆にゴーストウルフの攻撃は的確に執拗に、愁の身体を痛めつけていく。あちこちかじられ引っかかれ、体当りされ尻尾で殴られ、愁は壁際まで追いつめられていく。
「ガァアアアアッ!」
ここぞとばかりにゴーストウルフが突進噛みつき攻撃を仕掛けてくる。
「くそっ、またこれかよ――」
愁は刀を持った側の右腕であえて受け、左手で死角から菌糸刀を出して胴体に突き刺す。
「ぐううっ!」
愁は涙目で歯を食いしばりながら、全体重を預けるようにして奥へとねじこむ。
「ギャァアウッ!」
ゴーストウルフは牙を離し、前足を振り回す。鋭い爪が愁の顔を、肩を、胸を深く刻む。
お互い距離が開く。肋骨の隙間から白い刀を生やしたまま、オオカミはそれでも闘志を失わず、愁を睨みつけている。
血まみれの愁は、新たに両手に刀を生やし、地面を蹴る。
明らかに動きの鈍ったゴーストウルフとの泥仕合。力任せに何度も刀を叩きつけ、弱ったところで首に突き刺す。ぜえぜえと荒く息をつく愁の足下で、ようやく獲物は動きを止める。愁もその場に崩れ落ちる。
「アベシュー! またまたちまみれりすー! しぬなりすー!」
甲高い声でびーびー泣くタミコ。
「だいじょぶだから……すぐ治るから……」
愁は痛みを堪えながら、自分に言い聞かせるように言う。
あまり直視したくない絵だが、あちこち肉や骨が見えるくらいざっくり切り裂かれている。かじられた腕は裂傷だけでなく骨も折れている。さっきまではぼたぼたと景気よく血が流れ落ちていたが、肉がめりめりと盛り上がって出血が収まってきている。傷口の周りには青黒いカビがまとわりついている――これが再生を促しているらしい。
愁のもう一つの菌能。それは自身にとってもまったく得体の知れない力、アメーバ並みの再生能力だ。これは例の青黒いもの――身体に宿ったカビ? 菌糸? の力らしい。
この二十日間のうちに、オオカミ――ゴーストウルフとタミコが呼ぶメトロ獣を狩りのターゲットとして活動してきたが、過去七回の戦闘も今回同様、常人なら死に至りそうなほどの大怪我を伴うものだった。
薬も治療方法もない、そもそも受けたのはいずれも命に関わるような重傷だった。それでも愁が生きていられるのは、そのカビによる再生能力のおかげだった。
腕をかじりとられても、尻の肉をえぐられても、喉笛を食いちぎられても。それでもたちまち元通りに治してしまう。それが青黒いカビの菌能だ。
ゲームならまさにチート級の性能ではあるが、治るとしても死ぬほど痛いことに変わりはない。今回こそは無傷で仕留めてみせようと意気込んでいたものの、現実はこの有様。レベルも経験もまだまだ足りないようだ。
「ああ、腹減った……」
数分で身体の傷はすべてふさがり、痛みも消え、なにごともなかったかのような綺麗なボディーに元通りだ。その代償として、再生後に猛烈な疲労感と空腹に襲われる。再生には相応の栄養とかエネルギーを消費するようだ。
「アベシュー、なおったならほうしのうをえぐりだしてやるりす!」
「わかってるよ(さっきまで泣いてたくせに)」
「ぐずぐずするな、こののろまが!」
「情緒不安定か」
何日か前に「タミコに戦闘も手伝ってほしい」と告げたところ、「あたいはいたいけなショードーブツにすぎないりす」とここぞとばかりにリス感を主張して固辞された。確かに彼女はゴーストウルフに劣らないほどのすばしっこさを持つが、殺傷能力は皆無らしい。愁としてもこの唯一の相棒がオオカミのおやつになってしまうのは実務的にもメンタル的にも耐えがたいので、愁が一人で身体を張る形になっている。
とはいえ、タミコがまったく役に立たないわけではない。それどころか彼女は「オオカミのみを狩る」という二人のルーティンにおいて欠かせない能力を持っている。聴覚強化による索敵だ。
このメトロという閉鎖空間において、「先に獲物を見つける」という点ではどうあがいても獣には敵わない。聴覚嗅覚、あるいは気配を察知する野生の勘? どれ一つとして人間が優るものはないからだ。不用意に隠れ家を出れば周囲をうろつくメトロ獣に先に捕捉され、反撃不能な急襲を受ける可能性が高い。
リスがオオカミに聴覚で優るかどうかは知らない。だがタミコには菌能によって聴覚を強化できるらしい。足音を殺して近づいてくるゴーストウルフを的確に察知するし、あるいはこちらに気づいていない別のメトロ獣を先に察知することもできる。
「タミコ、喉乾いたから水場に寄りたいんだけど。水も汲みたいし」
「うーむ」
タミコはぴんと耳を立てる。肉眼では見えづらいが、耳の縁にひらひらしたもの(キクラゲ的なもの)を生やしている。集音効果のある菌能だそうだ。
「まわりにキケンなやつはいないりすね」
「ならだいじょぶかな。今のうちに行っておこう」
タミコの話とここで目覚める前の記憶から推察するに、ここは「東都メトロの超常的な氾濫と増殖によってできた迷宮」だと愁は考えている。
隠れ家の前には地下鉄の線路の面影のある人工的な道が続いているが、横道に逸れると鍾乳石や石筍みたいなものが生えた洞窟然とした通路があったり、かと思えばやはり人工的なコンクリートの柱や通風パイプのある真四角の部屋があったり、あたり一面シダ植物のようなものが鬱蒼と茂って空気までどんよりと霞む小部屋があったりする。それらを最初に目の当たりにしたとき、愁は「これがリアルダンジョンか」といちいち感動していたが、今は多少慣れてきている。
この地下五十階は、とてつもなく広い。
これまでで愁の行動範囲は隠れ家から半径数百メートルくらいにまでに広がっているが、タミコに言わせればそれでもまだまだ「五十階の隅っこのほう」らしい。おそらく全体で端から端まで四・五キロはあるかもしれない。
道中、獣の死骸や岩壁に生えたキノコや菌糸植物を採取し、懐に入れておく。次の狩りの日までの食料だ。ちなみに食の可不可の判断はタミコの知識を借りている。彼女の好物は黄色い花弁の中心に木の実に似た種をつけるドングリタンポポという植物だ。やっぱりリスだ。
隠れ家の出入り口から右に向かい、小さなトンネルから小道に入ってさらに五分ほど歩くと、タミコがオアシスと呼ぶ水場の部屋がある。天井の高いちょっとした体育館ほどの広間だ。
地面は柔らかい腐葉土が敷き詰められていて、ホタルゴケのおかげで本物の昼のように明るく、背の低い草木が生い茂っている。ここの空気は他のどこよりも新鮮だ。
壁からしみ出た水や湧き水で池になっている箇所がいくつもあり、それを求めてネズミや虫などの小動物以外にもゴーストウルフやユニコーン――フィクションでおなじみの角を生やした白馬などの大型獣もやってくる。危険はあるが、二人にとっても貴重なライフラインだ。
まずは草木に愁由来の水と肥料を与える。タミコはレディーらしく「おはなをつみにいくりす」と一言断ってから草陰に潜っていく。隠れ家のトイレ――部屋を出て右の行き止まりのところに大量に土を敷いたもの――よりも開放的に用を足せる。
メトロ内に生えている植物は、菌糸植物というらしいたとえば葉っぱをちぎると糸を引いたりするし、見た目もだいぶ異様だったりする(巨大なゼンマイみたいなやつ、ふさふさの尻尾のようなやつ、先端がマリモのようになっている花など)。
タミコの話から推測するに、枯れ草や死骸やフンなどを分解する分解者としての役割と、二酸化炭素とわずかな光から酸素などをつくる生産者としての役割を両方担っているようだ。これはメトロ独自の(あるいはこの新世界独自の)新しい生態系の姿なのかもしれない。
二人で軽く水浴びをして、石のナイフで無精ヒゲを剃る。タミコは頭の宝石を念入りに磨いている。
「あのさ、タミコ」
「ん?」
「その頭の赤い宝石ってなんなの?」
「しらんりす。カーチャンもついてたりす」
「そんなもんなの」
「やめろ! さわるなりす! そこはビンカンりす! やめろ、やめ――モットナデナデシテー……」
「チョロすぎだろ」
水筒――オオカミの膀胱を水洗いして皮の紐を結んだ袋――に水を汲む。できれば一度沸かしてから使いたいが、今のところ健康を害するようなこともない(飲むときは水溜まりでなく滝から落ちてくるほうを飲んでいる)。
ちなみに、ここで調達できる枯れ枝などは細く脆い上に湿っていて火起こしには使えないので、現在は隠れ家に持ち帰って乾燥を試みているところだ。
「……俺だよなあ、間違いなく……」
揺れる水面に映っているのは、まぎれもなく阿部愁だ。長い眠りにつく前と同じ自分だ。
ほっぺたをぺしぺし叩いてみる。二十三年付き合ってきた、特徴のないうっすい塩顔。平たい顔族の代表を名乗れそうなのっぺりフェイス。知り合いの女性陣曰く「眠そう」「無害そう」「多少癒やされる」「でもなに考えてるかわかりづらい」。目が一重なのがいけないのだろうか。
また少し痩せた気がする。元々百七十八センチで六十八キロだったが(社会人になって一年で五キロ増えた)、この過酷な生活のせいで(筋肉はついたものの)どんどん頬がこけてきている気がする。
ともあれ、変化はそれくらいだ。手から菌糸が生えるなんちゃってゾンビ人間になったわけだが、自分は百年前と変わらない阿部愁だ。自分の顔と存在を確認できるということは多少ほっとするものだ。
「アベシュー、ゴブリンがちかづいてるりす! はやくかくれがにもどるりす!」
「やべえ! 帰るぞタミコ!」
「はしれはしれ、このドンガメが! ゴーゴーゴー!」
「どこの上官だよ」
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