2:立ち上がる

 ――メトロの氾濫。


 タミコというしゃべるリスの言葉に、愁の記憶が呼び戻される。入院してから意識を失うまでの数日の記憶が。

 入院から数日経った頃、東京が大騒ぎになっていた。

 地下鉄で原因不明のトンネル崩落が頻発して、全線に渡って運行中止になったとか。

 おかげで両親も見舞いに来るのに大変だったと愚痴っていた。新大塚駅を利用できず、山手線の大塚駅から歩いてきたそうだが、ホームには入りきれないほどの乗車待ちの行列が続いていたらしい。


 ――メトロが氾濫してるらしいわ。


 ワイドショーの受け売りだかなんだか、母は半ばわくわくした風に言っていた。父は転院したほうがいいとしきりに口にしていた。

 そして数日後。夕食後でうとうとしていた。病院内も外もなんだか騒がしかった。看護師が病室に飛び込んできて目が覚めた。


 ――避難して! 急いで!


 ヒステリックな声でそんなことをさけんだあと、彼女は窓の外を見て、顔を歪ませた。

 愁もつられて振り返った――それで……それで?

 大きな地震が起こった。停電で真っ暗になった。

 建物が崩壊するような音がした。ベッドごと落下していくような感覚があった。

 そこで意識がぶつっと途絶えた。思い出せるのはそこまでだ。

 

 

 

「……あーーー……」


 このタミコというしゃべるリスの言葉が正しいとするなら。

 あくまでもそれが事実とするなら。

 メトロの氾濫とは実際に起こった災害であり、それで日本は(あるいは世界も)滅びたということになる。そしてシン・トーキョーなる国が興されたということになる。今はポスト・アポカリプス、百年後の世界ということだ。

 家族も、友だちも、会社も、なにもかも残っていない。

 そんな世界を想像しようとしてもできない。今自分がいるこの場所がその世界の一部だとしても。


「……ありえなくね?」


 百年も寝ていたとしたら、骨すら残っていないはず。なのに生きている。ガイコツどころか意識を失う前、というか入院する前くらい健康ボディーだ。


「アベシューは、まえのくにのニンゲンりすか?」

「みたいだけど……そんなことってありうるのかな?」

「しらんりす。ふつうのニンゲンはながいきりすか?」

「いや、そんな生きないと思うけど」


 ふと、部屋の床についた赤いねばねばに触れてみる。これにくるまれる形で自分は眠っていた。


「カビりす」

「カビ? 俺、カビてたの?」

「カビってことは、きんのうじゃないりすか?」

「きんのう?」

「なにもしらないやつにセツメーするのはつかれるりす。ほんとにべつのセカイのニンゲンみたいりすな」

「ごめんね、タミコ」


 お詫びに腹をこしょこしょしてみる。


「きやすくさわんなダボが! そのゆびかみちぎったるど! やめろ、やめ――めっちゃええ……!」

「きんのうってのはなに?」

「きんしをあやつるのうりょくりす。スキルともよぶりす。ニンゲンだけじゃなく、あたいたちやメトロじゅうもつかえるりす……ええい、いちどはじめたらかってにやめるな! もっとこしょるりす!」


 こしょこしょ。


「菌糸って、カビとかキノコの菌糸だよね。菌糸を操る力……菌能ってことか」


 カビとキノコの両者には生物としては同じ菌類に属する仲間で、「子実体――傘や柄をつくるのがキノコ」、「つくらないのがカビ」というざっくりした分類をされている。と生物の授業で習った。

 それを形成する菌糸、を操る能力、というのはどういうことだろう。想像もつかない。

 スキルにレベルに魔獣。まるでゲームの世界のようだ。


「あたいらもニンゲンも、からだじゅうにきんしがやどってるりす。だからきんのうをつかえるりす」

「菌糸が宿ってる……って、やっぱ身体中カビに寄生されてるってことやん……」


 そう言い換えると多少気持ち悪くなる。


「さっきアベシューもきんのうをつかってたりす。オオカミをザクッてやったりす」

「あ、あれか……」


 愁はてのひらに目を落とす。

 さっきはまったく無意識で、ただ死にたくない一心だった。

 どうやっていいのかもわからないが、とにかく念じてみる。出ろ出ろ、刀出ろ――。


「おわっ!」


 右手のひらから白い糸が生じ、それが撚り集まって切っ先が生まれ、さらにするすると伸びていく。危うく顔面に刺さるところだった。


「……ほんとに出た……」


 鍔のない、乳白色のほんのわずかに反りのある片刃だ。柄の部分は細く丸みを帯びている。てのひらとの結合部分はクモの糸のようなねばついたものでつながっている。


「それがきんのうりす。かりゅーどがつかうきんしぶきりす。あたいもはじめてみるりすけど」

「これが菌糸? 菌糸武器?」


 身体から分泌された菌糸が集まってかたまって刀状になった、ということだろうか。ぶっとんでいるにもほどがある。

 いつの間にこんな能力が身についたのだろう。なぜこんな能力が身についたのだろう。

(俺はほんとに俺なのか?)

(もはや別人になってたりしないか?)

(あるいは人間じゃなくなってたりとか)

 考えても答えが降ってくるわけでもない。しかたなく柄を握ってもぎとってみる。

 刃は苔の照明の光を反射しない。無骨な乾いた刃だ。試しに振ってみると、ひゅんっと空気を裂く音がする。ほとんど重量は感じられないが、刃や切っ先の鋭さは本物の刀のようだ。


「これが……俺の菌糸……」

「そうりす。アベシューのかたくてとがったアレりす」

「言いかた」

「シン・トーキョーは〝いとくりのたみ〟のくにりす。〝いとくりのたみ〟のかりゅーどはきんのうでメトロじゅうをかるりす。ほうしのうをたべてつよくなって、よりでかいツラしやがるりす」

「メトロ獣の胞子嚢……生殖器官みたいなもん?」


 となると、オオカミのキンタマを食べたことになる。とたんに胃がぞわぞわっとするが、一度食ったものを吐くわけにはいかない。キンタマだとしても。


「メトロじゅうはひゃくねんまえのパンデミック? からいきのびたケモノらしいりす。あたいもよくしらないりす」

「パンデミック? なんかまた物騒な単語出てきたな」


 聞く限り、メトロの氾濫と同時期にやってきたなんらかのバイオ的な災害だろうか。


「えっと……ここはオオツカメトロって言ってたよね。オオツカって、巣鴨や池袋の近くの?」

「しらんりす。あたいはちじょうにでたことないりす。ニンゲンのコトバやちじょうのことは、ぜんぶカーチャンからおそわったりす」

「カーチャン?」

「カーチャンはむかし、かりゅーどといっしょにたびをしてたらしいりす。モノシリりす」

「なるほど……メトロって、地下鉄とは違うの?」

「ちかてつ? しらんりす。メトロはメトロりす。シン・トーキョーのちかにひろがる、むすうのめいきゅうりす」


 地下迷宮――つまりダンジョンか。ますますゲーム的だ。


「ここはその地下五十階だっけ……俺は大塚の病院で入院してただけなのに……」


 メトロの氾濫とかいう災害で、こんな地下深くまで叩き落とされたということだろうか。そしてなんらかの理由で百年も生き延びた。


「……全然わかんねえ……」


 ダメだ。これ以上は謎がただ積み上がっていくだけだ。消化できない小骨を飲み込み続けても痛いだけだ。

 これからのことについて考えよう。わからない謎についてよりも、現実的な目の前の問題にこそ頭のリソースを回すべきだ。


「……地上に出なきゃダメだな、やっぱ」


 一刻も早く、この危険すぎる地下空間から脱出する。

 この世界が今どうなっているのかをこの目で確かめる。

 そしてこの世界について深く知る人に会う。

 それしかない。

 とりあえず一つ目標が生まれた。まずはそのことだけを考えよう。


「タミコ、地上に出たいんだけど、どうしたらいい?」

「むりりす」

「は?」

「アベシューはげきよわニンゲンりす。このメトロにおいてはダニにもおとるカーストのテーヘンりす」

「カーストなんてよく知ってんね」

「うかつにここをでたら、さっきのゴーストウルフみたいなメトロじゅうにガブリ! でシュンサツりす。びょうでうんこになるだけりす」

「うんこはやだなあ」

「ちじょうにでるには、たくさんかいだんをのぼって、たくさんメトロじゅうをおっぱらわなきゃいけないりす。アベシューにはむりりす」


 確かに無理だ。さっき死にかけたばかりだし。


「えっとじゃあ……メトロに誰か人間が来る可能性は? その人に助けてもらって……」

「オオツカメトロはふにんき? で、かりゅーどはめったにこないらしいりす。あたいもニンゲンをみたのはアベシューがはじめてりす。だからほんとはちょっとコーフンしたりす。こんなにツルッツルのかおしてるとはヨソーガイりす」

「ツルツルの塩顔で悪かったな(コンプレックス)。じゃあ、救助を待つってのも現実的じゃないわけだ」


 自力での脱出は不可。救助も来ない。八方ふさがりとはこのことか。


「でも、あくまでもいまのアベシューりす」

「へ?」

「もっとレベルアップして、メトロじゅうをたおせるようになればいいりす」


 愁は手に握る刀を見つめる。

 タミコの話のあとだとずいぶんちっぽけに見えてくるが、これが今の自分の全実力なのだ。


「レベルアップって、さっきのオオカミみたいな化け物を倒して、あの内臓を食うんだっけ?」

「そうりす」

「レベルアップしたら、どんくらい強くなれるの?」

「カーチャンのあいぼうはりっぱなかりゅーどで、レベル50だったらしいりす。このフロアでうんわるくメトロじゅうにやられちゃったらしいりす。アベシューもそれくらいつよくなればいいりす」

「レベル50以上って……」


 さっき二回上がったので、今の愁は3だ。一度に複数レベル上がるようなことがなければ。

 少なくともあと47……気が遠くなるほどの道のりだ。


「……一人でやれるかなあ。なんの準備も装備もないし、知識もほぼゼロだし」


 狩りどころかケンカすらしたことがない。生まれてこのかた荒事とは無縁の人生だった。

 いきなりゲーム的世界に放り込まれて、モンスターと戦えと言われても。

 得物は菌糸とやらの刀のみ、防具はおろか服もない剥き出し状態継続中。

 途方に暮れていると、タミコがとことこと愁の肩まで乗り、ぺちっと頬を叩く。


「あたいがてつだうりす。カーチャンからうけついだちしき、メトロでのサバイバルぎじゅつ、ぜんぶアベシューにたたきこんでやるりす」

「それは……ありがたいけど、なんで……?」

「あたいもちじょうにいきたいりす。あたいはごさいだけど、うまれていちどもメトロからでたことないりす。おひさまやニンゲンのまちをみてみたいりす……」


 手を合わせ、うっとりと天井を仰ぐタミコ。地上世界への憧れは強いようだ。


「だけど、あたいだけじゃむりりす。このままじゃいつか、メトロじゅうのおやつになっちゃうりす。だからアベシューにつよつよニンゲンになってもらいたいりす。いっしょにちじょうにでるりす」

「なるほど、ウィンウィンってやつか」

「チンチンりすか? あたいはメスりす」

「いや、うん……いいや、とりあえず助かるよ」


 このよくわからない世界に目覚めて、右も左もわけのわからない状況だ。

 正直なところ、あと二・三日はずっと絶望していたい気分だ。

 ここでゴロゴロして、この身に降りかかった不幸を嘆き、悲劇感に浸っていたい。


 ところが状況はそれを許さない。


 ここはとても危険な場所で、水も食べものもない。ついでに素っ裸だ。

 このまま死を選ぶなら、それは簡単だ。すぐにやってきて、楽にしてくれるだろう。

 だが、あくまでも生を選ぶなら――。


「……やってみるしかないのか」


 現実を受け入れ、行動するしかない。

 このメトロとやらからの脱出を試みる。

 菌糸の刀を手に、リスを相棒に。

(どんだけコント感あふれる冒険だよ)

 笑いそうになる。


「でも……それしかないんだもんね」

「そのいきりす、アベシュー」


 愁は肩に乗るリスに人差し指を差し出す。タミコはそれをひしっと鷲掴みにする。


「よろしく頼むね、タミコ」

「よろしくりす、アベシュー! バリバリきたえてやるからかくごするりす!」

「お手柔らかにね」

「だいじょぶりす。このタミコがいっしょなら、はっぱのおふねにのるがごとくりすよ!」

「沈むわ」

「なあに、あたいがホンキだせば、あっというまにシン・トーキョーのタイヨーをおがめるりすよ!」


 結果から言うと、二人が地上に出るまでに五年を要することになる。

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