オオツカメトロ編

1:目覚める

 まぶた越しにほんのりとした明かりを感じる。

 その白っぽい光の円に向かって、バラバラだった意識のかけらがゆっくりと集約されていく。


 頭が重い。眩しくて目が開けられない。うまく息が吸えない。

(……俺は?)

 頭の中でようやく言語化されたのは、誰にともないそんな問いだ。

(俺は誰?)

 ふう、ふう、と自分のものらしき呼吸音だけが聞こえる。

 やがて、水面にぽこっと小さな泡が浮かぶように、答えが現れる。

(俺は――阿部あべしゅうだ)

 

 

 

 白っぽい闇の中で、自分というものの情報を手さぐりで拾い集めていく。

 二十三歳。独身、彼女なし。

 身長百七十五センチ、六十五キロ。三月二十九日生まれ。

 会社員。ウェブ広告会社の営業部。新卒一年目――いや、こないだ二年目に入ったのか。

 法治大学経済学部卒。

 出身は埼玉の行田市。今住んでいるのは要町。

 父親は会社員。母親はスーパーのパート。上京するまでは両親と祖母の四人暮らしだった。


(んで……あれ? 俺なにしてんの?)

 先週、ベランダから落ちて、病院に運ばれた。

(起きたらオヤジとおかんがいて……)

 右腕右足の複雑骨折。そのまま入院。全治三カ月。

 胸の奥が急激に温度を失っていく。

(アホなことしたなあ。酔っ払ってベランダから落ちるなんて)

(会社にも迷惑かけたなあ。クビになったりするんかなあ)


 ぐっとまぶたに力をこめ、こじ開ける。

 白っぽい光が目に飛び込んでくる。眩しくてまぶたの裏がゴリゴリする。

 蛍光灯の明かりではない。天井に苔のようなものがびっしりと生えていて、それがぼんやり白く光っている。あんな形の照明は見たことがない。

(病室……じゃないよな)

 目だけ動かして周りを窺う。部屋と呼ぶにはお粗末な、四畳半ほどの岩壁の隙間のスペースだ。

(…………ここどこ? なにが起きたの?)

 頭に浮かぶ無数の疑問は、自分の身体を覆う青黒いものを目にして吹っ飛ぶ。

 自分は繭のようなものの中に包まれている。サナギかクモの餌かという有様だ。


「うわっ」


 慌ててそれを剥ぎとる。根が張っているかのように貼りついていて、しかもみちみちと糸を引くので気持ち悪い。ごしごしこするように、あるいは爪で引っ掻くようにしてとり除いていく。

(…………あれ?)

 右腕が普通に動いている。足も。

 カビを剥がしてしまうと、青白い肌が露出する。素っ裸だ、入院着も下着もない。骨折箇所をがっちり固定していたギプスもないし、腕と足に残っているはずの手術痕もない。

 入院したのは……十日くらい前だったと思う。

 家族が来てくれた。大学の友だちも、上司と同僚も来てくれた。

 だけど――その先が思い出せない。

 いつの間に治ったのだろう。しかもこんな、綺麗さっぱり。


「なんなんだよ、もう……」


 かろうじて声が出る。喉の機能も少し回復しているようだ。

(ていうか、俺はほんとに俺だよな……?)

 記憶を持ったまま別人に生まれ変わったとか?

 鏡がないので断定はできないが、手の爪の形、やや歪な中指、腕毛の生え具合に違和感はない。だらしない乳首の色と形、無気力に垂れ下がったモノのサイズと右曲がり具合は自分の身体のものだと思われる。

 となると、知らぬ間に傷が完治し、しかもこんなところに放置されていたわけか。


「……全然意味わかんね……」


 とりあえず立ち上がってみる。一瞬ふらっとするが、細くなった足がどうにか身体を支えてくれる。

 そのままよろよろと、左側にある壁の穴から部屋を出てみる。

 廊下というか通路がある。大人一人が立って歩ける程度の通路だ。右は行き止まりになっている。

 左のほうに壁伝いに歩いていくと(ゴツゴツしたコンクリートのような壁だ)、その先は大きな瓦礫が積み上がっていて、屈んでくぐれそうな穴が空いている。

 四つん這いになってそこを抜けると、開けた場所に出る。


「……地下鉄?」


 円形のトンネルだ。左右に続くそれの地面には、レールと枕木の形跡のようなものが伸びている。

 壁はひび割れ、崩れ、やはり苔だかカビだかに覆われている。通風孔らしき横穴が等間隔に並んでいる。

 ところどころうっすらと白っぽく光っていて、何十メートルか先まで見通せるくらいには明るい。照明にしてはぼんやりと曖昧な光りかたをしているし、並びも光量も不均等だ。

 明かりの途切れた道の先は、真っ黒な闇。生ぐさい空気の流れに背中を撫でられて、愁は身震いする。


(地下鉄のトンネル……だよな?)

 どうしてこんなところに出るのかは置いておく。今考えてもわかりそうにない。

 ともあれ、この風化した雰囲気を見るに、思った以上に時間が経過しているのかもしれない。

(それこそ十年二十年とか? 浦島太郎やん。俺今何歳?)

(ダメだ、意味不明すぎる。誰か説明して)

 とりあえず、どこかに人はいないものか。外に出るべきか。

(すっぽんぽんのまま? 一発逮捕だわ。解雇だわ。会社あればだけど)


 ぺたぺたと足音が聞こえる。うなり声のようなものも。

(やばいやばい、絶対やばい)

 慌ててさっきの穴に戻ろうとするが、足音が地面を蹴る音に変わり、瞬く間に迫ってくる。


「ガウウッ!」


 その吠え声は真後ろから聞こえる。愁は振り返る。尻丸出しの四つん這い、穴も玉も隠さないまま。


「……マジすか……」


 犬、あるいはオオカミだ。

 それもかなり大きい、トラやライオン並みの図体だ。

 灰色のごわごわした体毛、尻尾は長く、耳はぴんと尖っている。

 鋭く尖った牙や爪の先端にまで威圧感がみなぎっている。


「……えーと……」


(なんなのこれ? ちょっとでかすぎね?)

(つーか東京のど真ん中でオオカミ? ありえなくね?)

(夢? ロボット? CG?)


「ガァアアウッ!」


 血走った目を愁へ向け、よだれを撒き散らす。完全に本物だ。リアルだ。


「ちょ、ま、おすわり――」


 とっさに出た命令を当然のごとく無視し、オオカミが飛びかかってくる。

 大きく開いた顎が迫る。


「ひ――」


 左腕に牙が食い込む。


「ああっ!」


 痛い。痛い。死ぬ。死ぬ。

(夢じゃない。CGでもない。マジのやつだ)

 とにかく必死で振り払う。ぶちっと音がして、オオカミが離れる。血で濡れた口周りが咀嚼のたびにぬらぬらと煌めく。

 愁の手首の下の肉がごっそりとえぐられて、血がどばどばと流れ落ちている。


「ああ……あああああっ!」


 気が遠くなる。狂ってしまいそうだ。


「グァアアアッ!」


 もう一度オオカミが飛びかかってくる。もう一口かじらせろと言わんばかりに大口を開けている。

 ものすごいスピードの突進のはずなのに、なんだかスローに感じられる。

(あ――これ死ぬやつだ)

(なんなのもう?)

 右腕を突き出す。頭を庇うように、無意識に。

(わけわかんねえっての)

(でも――死にたくない!)

 涙目で強く思った瞬間、てのひらになにかが集約されていくような感触を覚える。


「は――」


 そして、血が飛び散る――オオカミの。

 大きく開いた顎に、細長い鋭利なものが突き刺さっている。

 それは愁のてのひらから生えた、刀だ。

 

 

 

 我に返ると、あたりは静まり返っている。

 地面についた尻が冷たい。立ち上がろうとして――かじりとられたはずの左腕がふさがっているのに気づく。傷跡一つないが、青黒いねばっとしたもの――あの部屋で愁の身体を包んでいた苔のようなもの――が傷口の周りにうっすらとついている。さっきまではなかったはずなのに。


 夢でも見ていたのだろうか。

 いや、身体には乾いた血がこびりついているし、オオカミが血溜まりの中に横たわっている。その口から後頭部にかけて刀が刺さったままだ。

 刀はすでに愁の手から離れていて、結合していた部分――刀の柄尻に当たる部分――には、ほつれたロープのような、あるいはキノコの石突のような、細かな糸状のほつれがある。てのひら側にもその名残のような白っぽい粘り気が付着している。


「なんなんだよ、もう……」


 わけがわからない。オオカミに襲われるのも、こんなものが手から生えるのも、二十三年の人生において初めてだ。理解の範疇を超えている。

 とりあえず立ち上がろうとして――腹が減っていることに気づく。それも耐えがたいほどの苦しさを伴う空腹だ。

(これやべー……なんか食いたい……食いもん……)

 そうは言っても、ここは謎の地下鉄だ。周りには草木の一本もない。

 ちらっとオオカミの死体に目を向ける。


「……あー、マジか……」


 こいつを食おうとしている自分に気づく。

(俺、どうしちゃったの? そんなワイルドキャラじゃなかったのに)

(でも実際……この空腹はやばい……)

 なにかを腹に入れないといけない。右も左もわからないこの状況だが、せっかくの獲物だ、無駄にはできない。それが切実な危機として焦りを募らせる。

(つっても、獣の解体なんてやったことないし)

(水場も火もないし。やばい、なんか手が震えてきた)

(なんでもいいから腹に入れたい――)


「――ほうしのう、たべないりすか?」


 後ろからいきなり声をかけられて、愁は思わず飛び退く。振り返るが、そこには誰もいない。


「ここりすよ」


 視線を下げると、足下にリスがいる。

 栗色の毛並み、ぷくっとした白い頬、ふさふさの尻尾。頭のてっぺんに赤ポチ、というか小さな宝石のようなものが埋まっているが、それ以外はどこからどう見てもまごうことなきシマリスだ。きゃー可愛いとしか思わない。

 そいつが愁を見上げ、手を振っている。


「かりゅーどさん、ちょっとしゃがんでもらっていいりすか」


 愁の足の親指をぺちぺちと叩くリス。甲高い声は明らかにそのちっぽけな身体から発せられている。

 ここへ来て、愁の頭に溜まりっぱなしになっていたものが飽和点に達し、脳みそが爆発する。


「キェアアアアアッ! リスがしゃべったあああああっ!」

「うっさいわボケ! ほかのケモノがくるりすがぁ!」


 リスが瞬く間に愁の身体を駆け上り、肩に乗って愁の頬を叩く。リスビンタ、ちょっと痛い。


「おまえもかりゅーどならメトロじゅうのほうしのうをたべるりす! そしてあたいはそのおこぼれをもらうりす!」

「えっと……狩人? メトロじゅう? ほうしのう? 全然わかんないんだけど。つーかなんでリスがしゃべってんの?」

「ごたくはいいりす! ゴーストウルフのほうしのう、はらをかっさばいてをとりだすりす!」


 耳元でキーキー言われると鼓膜に来る。

 なにがなんだかさっぱりだが、とにかくなにか食べないといけないことには変わりない。


「……とりあえず、血を抜いて内臓を出せばいいんだよね?」

「いそぐりす。ほかのケモノがくるりす」


 見よう見まね、本で読んだ知識を総動員だ。

 オオカミの頭から刀を抜き、それを下腹部に浅く刺す。

 オオカミの皮はぶ厚くてかたい。それに刀の長さ――刃渡り五十センチほどだろうか――が邪魔で切りづらい。それでも足で押さえるようにして、がりがりと何度も刺し引きしながら切り開いていく。


「ろっこつははずさなくてもいいりす。おなかのしたのほうりす」


 時間をかけ、どうにか下腹部を割る。腸がどろっとこぼれてくる。


「もっとおくのほうりす。まるっこいのがあるりす」

「うええ……」


 腹の中に手をねじこみ、腸を掻き分ける。その奥に、白っぽい球体――臓器にしては不自然なほどに綺麗な球体が二つある。指で丁寧に癒着部分を剥ぎ、とり出す。直径五・六センチくらいのサイズだ。


「まずいりす! ほかのケモノがくるりす!」


 愁にはその気配は感じられないが、血や肉のにおいで獣が集まってくることは容易に想像がつく。慌てて最初の穴をくぐり、手頃な岩でふさいでおく。


「へえ、いいかくれがりすね。おっきいケモノははいってこれないりす」

「元からあった穴じゃないの?」

「あたいはきづかなかったりす。きのうのメトロのへんどうであいたりすな、たぶん」

「(メトロの変動?)俺、ついさっきまでここで寝てたんだけど。つーかここってどこなの?」

「はなしはあとりす。ほうしのうをたべるりす」


 リスに促され、ほうしのうとやらを食べることにする。とはいえ、改めて向き合ってみると、丸くてちょっとねばついた生の臓器だ。これをこのままかじるというのは若干抵抗がある。文明人としてはせめて火を通したい。


「さあ、いくりす。はやくしないとせんどがおちるりす。ガブッといくりす、このノロマのグズが!」

「最後なんで罵倒されてんの?」


 意を決し、愁はそれにかぶりつく。表面のやや弾力のある膜を歯で破ると、ぬちょっとした歯応えがやってくる。


「……まじいわこれ……」


 生ぐさくてねばついている。味のないマシュマロ? いや、居酒屋で先輩に食べさせられた白子に近いかもしれない。

 それでも食べずにはいられない。口の周りのべとべとも気にせず、片方を一気に完食する。


「……うおっ?」


 突然、全身の筋肉がビキビキとこわばりだす。一瞬毒を疑うが、痛みも不快さもなく、数秒後にはふっと一瞬にして消えてしまう。違和感はなにも残っていない。


「つーか……身体が……」


 明らかに元気になっている。空腹感が消えたこともあるが、内側からエネルギーが溢れてくるかのような。ほうしのうとやらは滋養強壮効果でもあるのだろうか。終電帰りの翌朝の翼を授ける系ドリンクでもこうはいかない。


「レベルアップしたりす」

「レベルアップ?」

「たいないのきんしがせいちょうしたりす。ほんとにかりゅーどじゃないりすね、〝いとくりのたみ〟なのに、あたいよりモノシラズりす」


 体内のキンシが成長? 禁止? 錦糸? 菌糸?


「糸繰り? もわからないし、狩人? でもないね。サラリーマンだね」

「さらりーまん? よわそうななまえりす」

「いや、俺は阿部愁だけど」


 リスはもう一つのほうしのうをかじかじしている。四分の一ほど食べ進めたところで「いぎぎ!」と身体をひきつらせ、「あたいもレベルアップりす!」とガッツポーズする。


「リスにもレベルって制度が適用されてるんだね」

「あたいはリスじゃないりす。まじゅうりす。てんかになだかいカーバンクルぞくりす」

「(語尾りすやん)魔獣? カーバンクル族?」


 その魔獣はぺたっと座り込み、ぱんぱんに膨らんだ頬袋の中のものを咀嚼しつつ顔についたべとべとを舐めとる。


「あたいはもうまんぷくりす。のこりはおまえがたべるりす。おのこしはギルティーりす」

「そもそもリスって草食じゃなかったっけ? まあいいけど……」


 リスのお残しとはいえ、貴重な食料だ。遠慮なく綺麗に平らげる。するとまたしても身体ビキビキが起こり、またしても数秒で消える。


「にかいもレベルがあがるってことは、レベルげきひくのよわよわニンゲンりすな」

「弱いっつーか、俺さっき目覚めたばっかで……もうなにがなんだか……」


 腹も膨れ、元気も出たが、そうなると冷静さが戻ってくる。

 入院していたはずなのに、気づいたら地下鉄もどきにいて、オオカミに殺されそうになり、しゃべるリスと出会い、オオカミの内臓を生で食べた。


「ねえ、リスさん」

「あたいにはタミコってなまえがあるりす」

「俺は阿部愁ね。タミコ、ここはどこで、今は西暦何年なの?」

「どこって、オオツカメトロのちかごじゅっかいりす」

「オオツカメトロ? てか、地下五十階?」

「せーれきなんねん、ってのはしらんりす。トーキョーレキならひゃくにねんりす」

「トーキョー暦? なにそれ、新しい暦?」

「メトロがはんらんして、まえのくにはメツボーしたりす。いまはシン・トーキョーっていう〝いとくりのたみ〟のくにができたりす。ひゃくねんまえりす」

「マジかよ」


 愁は壁にもたれ、天井を仰ぐ。

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