第29話 素直
電車に乗るのは、初めてだった。
チェシは流れゆく景色を、ただジッと眺める。
村を出るまではあっという間だった。隣の国から訪れた、“ネヴィ”という眼帯野郎と、“ヴィラモ”というタレ目野郎の2人が“お母さん”を説得した。とても反対したけれど、“男”が勝手に承諾してしまった。
チェシにとって、“お母さん”は、自らの母になってくれる存在だった。偶然会っただけで優しくしてくれたのに、オルヴァルドに否定された。
手続きというものもない。村からひっそりと抜けて、森の終わりでオルヴァルドが見送りに来た。
森だけが活動できる範囲。チェシもどこまでいけるのか試した、森とそれ以外のぎりぎりのラインに立って、「よろしく頼む」と2人に告げた。
「また遊びに来るよ」
「元気でやれよ」
そんな簡単な挨拶をして、彼らは別れを告げた。
チェシはそんな別れの挨拶なんてどうでもいい。ここに戻って来る気もない。「お前はもういらない」と言われたようなものなのだ。別れの言葉も思いつかなかった。
対して、オルヴァルドはそっとチェシの頭を撫でた。対して変わらない背丈のくせに、大人ぶった態度。笑うこともしない、獣の被り物が、どこを見つめているかもわからない。
「あの街は、自由だぞ」
ただ、そう言った。
流れゆく景色を、ただジッと眺めるチェシはその瞳の違和感に気付いた。獣の神の力が、まだ瞳に宿っていることを確信した。獣の被り物を投げつけて、その役目も力も放棄したはずだったのに、微かに力が宿っている。
良い物ではない。けれど、役には立つものだ。チェシはマフラーで口角を隠した。
今更欲しい物でもないそれは己には身に余って仕方がない代物。授けたのか、戻し忘れたのかは知らない。興味もない。それでも今は、己の物だと、確信した。
「とりあえず、自己紹介しようぜ。俺はヴィラモ・アーケス。チェシをターボラに仕立て上げた先輩ターボラだ」
「それはオルが世話になったね」
チェシは視線を外から変えない。瞳は前髪で見えないが、顔を向ける素振りすらない。ヴィラモはその態度に呆れて、正した姿勢を崩した。
「自己紹介ぐらい真面目にやろうぜ...」
「そうだよチェシ。あ、俺はネヴィでいいよ。フルネームはナヴィ・ト・バルカなんだけど」
「どうでもいいよ。どうせ僕の名前も知ってるんでしょ」
それは、完全に子供の癇癪だ。「どうせ知ってるんでしょ」「どうせ僕じゃない」そんな苛立ちを抑えきれず、地に着かない足が揺れる。
「俺は、君がチェシって名前の子供ってくらいしか知らないけど...」
「そうそう。俺らのことも知ってほしいんだって」
気を使った言葉たちも、ただ火に注がれる油のように意味がない。むしろよろしくない。
「僕を知ってなんになるのさ」
「なんにって...」
ヴィラモとネヴィは顔を合わせた。そしてそっと微笑む。
「俺らは、本物のチェシとあの街で過ごしたいだけだ」
「今までのはチェシであってチェシじゃないんだろう?だったら、今度はチェシがあの街に来る番だ」
今までのチェシは、別のチェシ。
嬉しいような、でもどこか苦労が消えてしまうような虚しさが、胸をざわつかせる。そんな心情を知ってか、ヴィラモは肩を寄せて尋ねる。
「チェシは、村を出て何をしたい?」
「村を出て?」
「あぁ。俺はまず名乗りたかったな」
「はぁ?」
チェシが噤んだ言葉を、ネヴィは呆気なく溢した。「なんだそれ」と笑う彼に、ヴィラモは自信満々に、歯を見せて笑った。
「俺の名はヴィラモ・アーケス。俺をヴィラモと呼んでくれ。なんて願いがあった」
「…叶った?」
「おうよ。ここに名前で呼んでくれる奴がいる」
ヴィラモはネヴィを指さした。ネヴィははにかみながらも、嬉しそうだった。
「俺は街に来る前の記憶がないから、なんとも言えないけど、あの街はとにかく自由だ。きっとチェシも気に入るし、やりたいことも出来るよ」
チェシはジッと黙り込んでしまった。やりたいことも叶えたいことも、実のところ沢山あるのだ。それを一つ一つ、叶えてもいいのだろうか。伝えても、いいのだろうか。
「まず最初に、何がしたいんだ?」
「僕は......名乗りたい...」
「なんだよ、簡単じゃねぇかよ、自己紹介の続きだな」
ネヴィもヴィラモもウキウキと茶番をするために、姿勢を正した。
「始めましてチェシ、俺はナヴィ・ト・バルカ。愛称はネヴィだ。気楽にネヴィって呼び捨てにしてくれ」
「俺はヴィラモ・アーケスだ。アーケスは呼ばれたくない名前だ。愛称も無しがいい。俺はヴィラモで頼む」
2人の意気揚々とした自己紹介に圧倒されながらも、チェシは口を開いた。
「ぼ、僕はチェシ。チェシ・ヴィードだ。お母さんが僕をそう呼んでくれたから、気に入ってるんだ。愛称はないし付けられたくはない」
「馬鹿野郎、そこは素直に呼んでほしい名前だけ言えばいいんだよ」
「・・・チェシ。僕はチェシって、そのままで呼んでほしい」
まっすぐとした声色に、「やっと素直になれたか」と、優しい眼差しで、2人はチェシを迎え入れた。
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