第27話 その約束

 チェシとは、何者であったか。


 根元が黒髪で、毛先になるにつれて鮮血のような赤を帯びる。長い前髪は瞳を覆い隠し、見え隠れする瞳が赤いのを、ネヴィは見たことがある。

 黒い袖をひらつかせて、マフラーを巧みに操る能力を持つ。子供っぽいけど、どこか子供らしく振る舞っているようにも見える彼は、と名乗った。

 という目的を持って、エチャーリクロプに密入国した、スクニエフの少年。


 それが、彼らの知るチェシだ。


 しかし、目前にいるのは、と名乗っていたであった。容姿も変わった。口調も変わった。そんな彼は声を上げて名乗った。


「俺の名前はオルヴァルド。獣の神として、獣と自然を統治していた者だ」


 大層な名乗りに、ヴィラモは後退る。獣に、獣の神に良い記憶の無い彼はただ嫌悪した。


「獣の、神だぁ...?」

「お前の顔を、忘れたことはないよ。でも今は...嫌いじゃない」

「それはどうも」


 睨むヴィラモを他所に、ネヴィは未だ混乱している。「待って待って」と頭を抱えた。


「チェシが、オルなんとかだったってこと...?なんで?で、さっき来た子が、チェシ?は?」

「俺が頼み込んだんだ」


 オルヴァルドは語る。事の経緯を。

 それは、オルヴァルドがチェシとして、雨の街に行く前だった。


 神としての力が、日に日に弱まる頃合、オルヴァルドは後継者を育てていた。それが、神の声を届ける役目を持っていたチェシだった。神の力を譲渡するほどの力量を、チェシはまだ持っていなかった。だから、試験的なもので提案した。


「おいクソガキ、頼みがあるんだ。」


 獣の頭部を被ったオルヴァルドが言った。いつもそう呼ばれるチェシは呆れ顔で振り返る。

 木々が生い茂る森。山の奥で、2人は対峙した。


「それが物を頼む態度かよ...」


チェシは言葉を濁したが、オルヴァルドは気にも止めない。いつもの態度だ。


「会いたい人間ひとがいるんだ。会いに行きたい。雨の街にいるらしいんだ。一目見るだけでいい。それだけでいいから」

「…」


 頭を下げて、赦しを乞う。獣の垂れ下がった耳が、ぶら下がる。


 会うことを願っていた。いつも、いつだって。もう一度会いたいと思っていた。好機だったのだ。


 滅多にしないような行動に、チェシは驚いて詰め寄った。裸足のまま、入り組んだ木の根を踏み分け、彼に近寄る。垂れた頭を下から覗き、口を開いた。


「いいよ。その代わり僕の願いも聞いて」

「お前の?」


 謙遜の色もなく顔を上げる。それに不満そうにため息を吐いて立ち上がり、一歩下がる。チェシにも、願いがあったのだ。


「雨の街でしか、できないことなんだ」


 深い深い森の奥。高い高い山の頂。大樹が根を張った大きな森。


 そこで約束は交わされた。

 オルヴァルドは、会いたい人に会うために、神の力を譲渡した。

 チェシは、ターボラになったらすぐに戻ってくることを条件に、その試験的な譲渡案を受諾した。


 おかげでオルヴァルドは、会いたい人に会えた。ターボラにもなれた。嫌いな奴の手を借りはしたけれど。


 おかげでチェシは苦しんだ。

 森に縛られた獣の神の力。森から出られない、離れられない。木々が傷つく度に苦痛に苛まれた。それらのに自然を祀らない獣人たち。獣の血を引かない人間たち。激しい憎悪に身を焼いた。


 それでも、ターボラになって来てくれれば解放される。それなのに、戻ってこない。戻って来たと思ったら、人間を連れている。話をしている。あんなに毛嫌いしていた人間という存在と、言葉を交わしている。

 それら全てが許せなくて、悔しくて、悲しくて。

 チェシは声を荒げるしかできなかったのだ。

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