第3話 『僕』の欠陥
僕は人の顔を覚えることができない。
正確には、五人までしか覚えられない。
この話をすると、決まって「お前は人の顔を認識できなくなる――なんとか、という病気なのか?」と聞かれる。その、なんとか――おそらくは「相貌失認」のことなんだろうけれど――僕はこれにさいなまれているのではない。念のため確認のため、「相貌失認」とは英語で Prosopagnosia であり、脳障害の失認の一種である。
大切なのでもう一度言うが、僕には相貌失認の症状はない。
ただ、忘れっぽいだけなのさ。
出会った人を忘れてしまうのは、日常生活を送る上では小さくない障害といえる。恋人同士がお互いの顔を忘れることも、仲良しグループがグループメンバーの顔を忘れてしまうことも、警察官が指名手配犯の顔を忘れてしまうことも、いずれもいざ起こるとちょっとした問題となり、また不便を来す。
ただ、安心して欲しい。僕は出会った人の全てのことを忘れてしまうほど、忘れっぽくはない。ただ、顔を覚えられないだけなのだ。
あるキャバ嬢の話である。彼女はお客から名刺を受け取ったとき、すぐにその名刺をお客の顔に近づけて、そのお客とその名刺が同じ視界に--同じ絵に入るようにするのだそうだ。こうすることで、お客の顔と名前を一枚の絵として覚えることができるとのことらしい。このキャバ嬢の話を例えとして持ち出すのならば、僕は顔の方ではなく、名刺――というよりそこに書かれている文字しか覚えられないのだ。
しかし、何事にも例外はある。
僕はこの世に生きる五人の人間の顔だけは覚えられる。
覚えることができ、そして思い出すことができるのだ。ただ、残念ながら僕には絵を描くセンスが備わっていないので、覚えた顔を描くことはできない。
その五人の内の一人が海来なのだ。海来の顔は出会った時からずっと覚えている。
海来の暮らすマンションの最上階へ踏み入れた時、僕の生来的な問題点のおかげで、入口でピシッと直立する初老の男性を見て、つい「誰だろう」とつぶやいてしまった。
「ハヤマでございます」
ハヤマと名乗った老人はうやうやしくお辞儀をする。裏口的意味合いの強い最上階の出入口で深々とお辞儀をされると、間違った部屋に入ってしまったのではないかと焦ってしまう。
「なーちゃん、ちゃんと来たね。葉山さん、なーちゃんをよろしく」
姿は見えないけれど、海来の声は聞こえる。そしてよく響いている。
「それではこちらへどうぞ」
はやまという名前はおそらくは高い蓋然性で、木の葉の「葉」という字と山形県の「山」という字が連なって形成される名前だ。名前というより、字がはっきりすると、この名前にまつわることが脳内データベースから次々と引き出される。確かに僕の脳内データベースには、初老でまるで執事のようで「葉山」と名乗る男性がいた。その男性いや眼の前を歩いているこの男性――葉山さんは海来の〈本家〉に勤める執事の一人だ。海来専属の執事ではなく、確か海来の姉である
葉山さんの後に続いて奥へと進む。
「どうぞこちらに」
一人暮らしで引きこもり気味の海来はマンションの2フロア分を全て使用することはできない。必然的に空き部屋や物置部屋が誕生する。案内された部屋はその一つだった。
「礼服をご用意いたしました。お着替えください」
部屋に置かれたテーブルの上にはワイシャツやら、ジャケットやら、スラックスやら、その他のものやらが並べられていた。
葉山さんの監視の下(部屋から出てくれという意味の視線を送ったがどうやら受け取って貰えなかった。)着ている服を脱ぎ、用意された服に着替える。
「おっ」
ワイシャツ襟からスラックスの裾まで、何から何までぴったりと自分の体型に合っている。革靴に足を通すと、普段から外出時に履いているスニーカー以上にぴったりと足にフィットした。着替えてからの数秒間で、日常的にどれだけ体型に合わない服を着ていたかを認識した。認識してしまったのだ。
そして、僕の身長や腕の長さそれに足のサイズといった、本人だっていちいち覚えない情報が外部に――というか海来に漏れていたことがよくわかった。
「執事の嗜みとして、
「勝手に計られていたのか!」
そしてこれが執事の嗜みなのか! そんなことが許されるものなのか!
「今回、礼服を仕立てるのに用いた情報はすでに海来お嬢様にお伝えしておりますので、ご安心ください」
なんてことを海来に教えるんだ。彼女が何にそれを使うかわかったものではない。
葉山さんは音もなく近づいてくる。真っ白いひげをはやした顔を近づけてくる。
「は、葉山さん」
「ここだけの話でございますが、私の能力の使い道にこんなものがあります。
親しくなりたい女性に下着を贈りたいとき、サイズがわからなくて困ることがありますね。あからさまに本人に聞くのははしたないですし、ぴったりのサイズを贈りませんと使って貰えません。そして、素人目には服の上からサイズを判別することはできません。そこで私の出番です。見ただけでわかります。ちらっと見る、すなわちチラ見でも大丈夫です。
さて、いかがいたしましょう」
葉山さんってこんなキャラだったのか。
「いかがいたしましょう、じゃなくて。
そもそも、その、下着を贈るというのは・・・」
「ちょっと過激なお話でしたか。海来お嬢様からは関係が大きく進歩したと伺っておりましたので、間もなくそのステージになると葉山は思ったのです」
海来、君は人にいったい何を吹き込んだんだよ。それに、ステージってなんだ。他にどんなステージがあるんだよ。
「まだまだひよっこの段階であるのでしたら、仕方ありません。
折角のサービスは後のために取っておきましょう」
「サービス?」
葉山はニヤリとした変態的な笑みを浮かべる。
「お嬢様の大きさを知りたくありませんか?」
「なーちゃん、準備終わった?」
海来はノックをせずに勢いよく扉を開けて入ってきた。この時の海来の失礼な行為に救われたと思った。救われたのは僕の貞操と海来の個人情報である。
葉山はすばやく僕から離れた。
「なんだ、なーちゃん、もう着替えちゃったのか。ミイがなーちゃんの着替えているところに乱入して『きゃー、なーちゃんのエッチ』って言いたかったのに」
海来の頭の中における僕のポジションがよくわからない。
「ミイが来るまで葉山さんと仲良くイチャイチャしていたんでしょ。
だめだよ、なーちゃん。なーちゃんの身体も心もミイ様のものだから」
この子はとんでもないことをしれっと言っている。
海来は葉山さんに向きかえって、
「葉山さんもなーちゃんを食べちゃだめだからね」と言う。
「ねぇ、海来」彼女の肩をトントンと叩く。
「なに、なーちゃん?」
葉山さんに聞こえないように、ひそひそとささやく。
「葉山さんって変態だって知ってた?」
海来はまるで小学生がするように、両手で円柱をつくり、その円柱を通してささやき返す。
「紫雨姉さまが言ってたよ、『執事は変態だから気をつけて』って。葉山さんは執事だから変態だと思うよ」
海来の姉である紫雨はどうやら、「執事=変態」という認識をお持ちのようだ。それを平気で海来に吹き込んでいる。今度、紫雨に会ったらきつく言っておこう。ついでに全国の執事に謝ってもらう!
部屋の入口横で直立する葉山さんをにらみつける。そもそもの原因は間違いなく彼にあるのだ。葉山さんはにっこりと微笑みを返す。
「それより、なーちゃん、見て」
今更ながら、海来は萌葱色の
「なーちゃん、どう?」
「クローゼットの匂いがするな」
「ぶー、なーちゃん、レディに対して失礼だよ」
「あー、えっと、そうだな、まるで灰色の妖精が降り立ったみたいだ」
「なーちゃんが言うと、全然色気がない。感動しない、響かない、ドキュンとしない」
「仕方がない。言っているのが僕だからね」
「海来お嬢様」
控えていた葉山さんが声をあげる。海来はきょとんとした表情を浮かべる。
「あー、そうだった。
海来、悪いけれど部屋でもうちょっと待っていてくれ」
海来はプーと頬を膨らましたけれど、素直に従った。部屋の外へ出ようとしたとき、海来は「なーちゃん、かっこいいよ」と言い捨てた。その後に、タタタッっと廊下を駆ける音、そして海来の部屋の扉がバタンと閉まる音が続いた。
「愛されていますね」と葉山さんはニヤニヤしながら言う。
「よして下さい。この愛はとてつもなく重いんですよ」とぶっきらぼうに返した。
海来を部屋から追い出したのには訳があった。
「葉山さん、お願いします」
「承知いたしました」
葉山さんはテーブルの下に置かれた大きなブリーフケースを持ち上げ、卓上に置く。暗証番号と手持ちの鍵でロックを外し、二つ折りになっていた鞄を開く。
中には一本のフォールディングナイフと一丁の拳銃が入っていた。
「ナイフは戦闘用より少し小さいです。拳銃は自動式で六発装填できます。
扱いには問題ありませんね?」
ナイフを手に取り、手首を一捻りして刃を納める。
「手によく馴染みます」
そのナイフをベルトに付いているホルスターに収納する。
次に拳銃を手に取る。
「予備の
拳銃はジャケットの下、ちょうど脇あたりにあるホルスターに収納する。
「今更ですけど、これは誰の指示ですか」
先日の火曜日に海来がパーティの話をした時、彼女は僕をボディーガードとして連れて行くと言った。この時は半ばふざけて言ったのだろう。しかし、〈本家〉は違った。この部屋に入って、テーブルの下に置かれた
〈本家〉は僕を海来のボディーガードとして扱っているのだ。
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