第2話 海来と『ミイ』、そして招待状
大学の校舎から出ると、ポケットに入れていたスマートフォンがブーブーと震えた。ロック画面を解除すると海来からメールを受信していた。
タイトル:緊急
本文:飲むヨーグルト、バームクーヘン、お茶、その他を買ってくること。
愛するミイ様より
飲むヨーグルト、バームクーヘン、お茶まではいい。想像ができるし、わからなければ検索できる。ただ、『その他』とはなんだ。コンビニ店員に「その他ください。」といえば何か出してくれるのか。ファーストフード店で「スマイルください。」を言う以上に気まずい空気になると予測される。
ようするに何かいろいろ買ってこいということだろう。
ただ生憎と自転車という文明の利器を持ち合わせていなかったので、春の日射しを浴びながら大学近くのコンビニに寄り、コンビニ袋をパンパンに詰めてもらってから、海来のところへ来たのだ。
それが三十分前。
ピザの多くが海来の体の中に収まった頃、僕は片付けにいそしんだ。部屋はチーズとトマトソースの匂いで充満している。次々とピザが海来の口の中に吸い込まれるのを見た後なので、このピザの匂いを嗅ぐだけで胸焼けしそうだ。ちなみに僕は腹八分目を忘れない程度に満足にピザをいただいた。部屋の主に許可をとって部屋の窓を全て開けて換気をする。次にチーズとソースでベタベタになった箱を一つずつ潰し、ビニール袋に押し込んでいく。そういえば、このマンションの燃えるゴミの収集が明日だ。他のゴミとまとめて出しておこう。
この間、海来はというと、ベッドの上で仰向けに寝ながら僕の様子を見つめている。まるで監視されているような気もする。
このマンションの最上階とその一階下を独り占めしている灰色髪の小娘は引きこもりである。しかし、重度な引きこもりではない。時々外出をすることもあるし、社交的な一面もある。ただこの子の引きこもりスキルにはものぐさスキルが付随している。放置しておくと、部屋中がゴミだらけになるのだ。彼女曰く掃除というものが生来的にできないらしい。原因はよくわからないけれど、こうして僕が時々――というか来るたびに掃除をしている。
「ねぇ、なーちゃん」
ピザの残骸を処理し、ローテーブルを拭き終えて、部屋の掃除機をかけている時だった。
「ごめん海来、なに?」
掃除機を止める。
「ミイはなーちゃんをお嫁さんにしたい」
現実を正しく表現するのであれば、「海来はなーちゃんをお婿にしたい」または「海来はなーちゃんのお嫁になる」、となるだろう。本当にそうなるかはわからない。
「海来、口にトマトソースが付いているぞ」
「ひぃい」
海来は勢い良く起き上がり、手近のティッシュをひったくる。
「これじゃ、ミイはお嫁に行けないよ」
嫁は僕なのか海来なのかよくわからん。
掃除を再開する。
海来はいつから自分のことを「ミイ」と呼ぶようになったかはよくわからない。その由来を聞くと、
「
おそらく私を意味する
思い出してみると、初めて彼女に出会ってから海来は自分のことを『ミイ』と呼んでいた。それが『ミイちゃん』だったり『ミイ様』だったり、後半部分は変化したものの、ずっと『ミイ』だった。
彼女にそうさせる理由――衝動はわからない。これについていろいろと考えてみたこともある。幼い頃からの習慣が続いているという可能性が一番大きいだろう。ただ、あの灰色髪に灰色瞳の海来だ。なにか考えがあるような気がしてならない。
自分のことをあだ名で呼んでしまうのだから、他人もあだ名で呼ぶことに抵抗はないのだろう。海来は僕のことを『なーちゃん』――名前の一文字目にちゃん付けをした――と呼び始めたのも、初めて出会った時からだった。確か、自己紹介をした後だったと思う。
「今日から君は『なーちゃん』。よろしくね、なーちゃん」と海来は言った。
『なーちゃん』という想像もしなかったあだ名を、それも出会って数秒で付けられてしまったことに驚いたのは今でも覚えている。その驚きは、びっくりを意味するものだったのか、ショックを意味するものだったのかは定かではない。
十分ほどで室内の掃除機がけを終えた。窓をすべて閉めて、一階下の台所へ向かう。ヤカンを火にかけて、冷蔵庫からココアパウダーとインスタントコーヒーを取り出す。戸棚からマグカップを下ろし、それぞれに目分量で粉を入れる。その頃に、キューとヤカンは音を立てる。ホットドリンクを二人分つくり、最上階へ運ぶ。
「はい」
「ありがとう、なーちゃん」
モニターに向かっていた海来にはホットココアを差し出す。彼女はふぅふぅと息を吹いてから一口すする。
「ねぇ、なーちゃん」
「なんだ、海来?」
僕は自分のマグカップをローテーブルに置き、持参したショルダーバッグを引き寄せる。
「今日はもう大学へ行かないんだよね?」
「行かない・・・かな」
正直大学へ行ってもやることがない。
「じゃあ、ここでミイ様と一緒にイチャイチャラブラブをしよう」
「イチャラブは嫌かな」
「じゃあ、ハスハスゲラゲラハブゥハブゥをしよう」
「その擬音語が何を意味するのかはわからないけれど、ゆっくりしたいかな、ゆっくり普通に」
「そう、ミイ様は残念だよ」
僕は引き寄せたバッグから文庫本を取り出す。
ベッドを背もたれにし、海来の叩くキーボードの音とPCの作動音をBGMに本をめくる。ちょっと気の変わった娘がいるけど、そして来るたびに掃除をするはめになるけど、この空間は悪くない。すくなくとも大学よりは居心地がいい。
「ねぇ、なーちゃん」
「なに、海来?」
昨日、古本屋の「百円均一」台車から見つけたミステリー小説を読み進めている。この小説の序盤では、主人公の金髪ロリっ子が相棒の『普通』な青年と共に大きな屋敷へ向かった。おそらく今後の展開として、二人は殺人事件に遭遇するだろう。だんだん物語が盛り上がってくる。
「なーちゃん、金曜日の夜は暇?」
本から顔を上げる。
「金曜日というと三日後か――午前中は大学の授業があるけど、その後、午後からなら空いてるよ」
「例えなーちゃんが忙しくても一緒に来てもらうけどね」
来てもらう?
「はい、これ」と海来は白い封筒を差し出した。
「本当は
渡された封筒を見つめる。表には模様なのか字なのかわからない凝った文字で『海来様』と書かれている。手触りがなめらかで、高い紙が使われていることは素人でもわかるだろう。海来の許可をとってから中の厚紙を取り出す。
「パーティへの招待状かー、こういうのはいつも断っていたんじゃないのか?」
「そうなんだけどね、今回の招待は欠席でない部類のものなんだよ。
主に〈本家〉の面子的な意味で」
「へー」
時々忘れてしまうんだけど、海来は正真正銘の疑いようのない血統書付きのお嬢様なのだ。
「それで、なんで僕がこのパーティに参加する必要があるんだ?」
「必要はないよ。なーちゃんにはちゃんと断る権利も自由も時間もタイミングもある。
ただね、もしなーちゃんが来てくれないと、ミイ様は一人になっちゃうの。一人でパーティ会場へ行き、一人でパーティのご飯を食べ、一人で関係者に挨拶しないと行けないんだよ、可愛そうだと思わない? 可愛そうでしょ、なーちゃん」
関係者への挨拶くらい一人でやれよ。他人を巻き込むな。
「いやでもさぁ、この招待状は海来宛だよ。招待されてない僕が行くと問題になるんじゃない?」
「なーちゃん、招待状に書いてあるでしょ『同伴者一人まで可』って。なーちゃんはミイ様の同伴者でミイ様のボディーガードです」
「この『同伴者』って、配偶者というか、夫というか、妻というか――そういう類のものだろう」
「ならなーちゃん、今からミイ様の配偶者になる?」
海来はゴソゴソと本屋や資料の束をかき分けて、一枚の紙切れを引っ張り出す。
「はい、なーちゃん」
突き出された紙を受け取る。
左上には太字で『婚姻届』と印字されていた。『妻になる人』の欄にちゃっかりと署名と捺印がされている。
ビリビリビリ。用紙を真っ二つに破る。
「あっ、ミイ様となーちゃんの愛の関係が!」
なんてものを見せるんだ。
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