「リーンだ! まずいっ!」

「あ、おいっ!」


 いきなり手首をつかまれ、オスカーは教室に投げ入れられた。勢いがついたのかバランスが取れず、彼は尻餅をついてしまう。なにが起こっているのかわからないうちに、今度は肩を押され床に寝転ぶ形になった。その上にセシルは覆い被さる。


「――っ!」


 声にならない叫びを上げ、身体が硬直した。胸板に頭を押しつけてくる彼からは、甘ったるい女性のような香りがしてくる。


(これは……)


 思いもよらぬ状態に頭がクラクラした。しばらくすると『セシル様ー』という聞き慣れた声が聞こえてきて、そこでようやく事態を飲み込んだ。

 彼はリーンから逃げているのだ。そして、この奇っ怪な、異国の女性のような格好も彼女の思惑に違いない。


(だとしても、なんでこんな……)


 オスカーは彼の身体に視線を移した。赤いサテンのドレスから覗く両腕は今にも折れてしまいそうなぐらい細くて華奢だ。大きく開かれたスリットからは白い太股が露わになっており、オスカーの膝を割るように差し込まれている。ぴったりとくっついた身体と、両膝で感じる太股の柔らかさに心臓がおかしいぐらい高鳴った。


(落ち着け!! コイツは男だ!)


 自分にそう言い聞かせる。そんなオスカーの気持ちを知ってか知らずか、セシルはさらに身体を密着させてきた。


(――この馬鹿っ!)

「……おい」


 さすがに耐えかねて口を開くと、なんと彼はオスカーの口を容赦なく塞いできた。真剣な顔で「しっ!」など言われても、当然こちらはそんなことには応じれない。


(しかし、ここで騒ぐとリーンに見つかるか……)


 こんな状態を彼女に見つかったら、なにを書かれ、なにを作られるかわかったものじゃない。

 オスカーはあげようとした声を呑み込み、下唇を噛みしめた。黙っていると彼の身体の柔らかさのことばかり考えてしまうので、必死に素数を数える。それでも、セシルの呼吸音や無駄に甘く香ってくる香りに、何度も思考が止まりそうになった。

 しばらくして、リーンの気配が遠のいていく。セシルはため息とともに身体を弛緩させた。


「ふへぇー……」

「……セシル」

「あ、ごめんね?」

「いいから、離れてくれ……」


 無駄に乾いてしまった喉の奥から、かろうじてそう絞り出す。


「頼むから」


 そう懇願した瞬間、彼も自分の体勢に気がついたようで、一瞬にして赤くなった。そして、狼狽えだす。それはまるで初心な少女のような反応で、オスカーは彼から視線を逸らした。

 正直、見ていられない。こんなものを見ていたら、本当に彼が女性なのではないかと錯覚してしまう。


「ご、ごめん」


 赤ら顔のまま、セシルはオスカーの上から降りた。露わになった太股がちらちらと視界に入り、いろいろと耐えられない。


「あと、オスカーごめん。なんかポケットに入ってたもの潰しちゃったかも……」

「それは大丈夫だ! 本当に気にするな!!」


 予想以上に大きな声が出た。怒鳴られたとでも思ったのだろう、セシルは大きく目を見開いて固まってしまう。

 別に怒ったわけではない。ただ、気づかれたくなかっただけだ。

 けれど、自分の状態に思い至らない彼に、それを馬鹿正直に言うのは憚られた。オスカーはぐっと息を詰め、身体を起こす。

 これは生理現象だ。別にそういう意味じゃないし、仕方がないことだ。

 そうは思いつつも、罪悪感が胸の中にわだかまる。目の前のセシルに対しても、婚約者のセシリアに対しても。


「あの」

「悪い。出て行ってくれ」

「え?」

「頼む……」


 その声が固かったからだろうか、彼はあからさまにおろおろし出した。嫌われたとでも思ったのだろう。


「それならオスカーも一緒に……」


 伸ばされた手を無意識のうちに振り払う。その瞬間、セシルが傷ついたような顔をしたけれど、フォローするような言葉は出てこなかった。ただ一言「悪い」とだけ呟くと、彼は気まずそうな顔で「うん」と頷いた。


「じゃぁ、出てくね。本当にごめん」

「いい。気にするな」


 そろそろとセシルは部屋から出て行く。その背中を見送り、オスカーは教室の中で大の字になった。


「あー……」


 未だかつて、これほどまでに自己嫌悪した日があっただろうか。


「だからアレは男で、友人で。俺にはセシリアがいるのだと何度……」


 セシリアに対する気持ちが薄れたというわけではない。婚約だって破棄するつもりは毛頭ない。けれど、セシルの行動に惑わされ続けている自分がいるのもまた事実で、それが余計に罪の意識を加速させる。


「あぁ、くそっ!」


 彼は腹立たしげに自分の髪の毛を乱暴にかき混ぜた。


..◆◇◆


(オスカー、怒ってたな)


 悲しげに視線を下げながら、セシリアはとぼとぼと廊下を歩いていた。

 出て行ってくれと言った彼の迷惑そうな顔が頭に張り付いて離れない。


(仲良くなってきたと思ったのに、やっちゃったなぁ……)


 いきなり空き教室に連れ込まれ、わけがわからないうちに上に乗られたら、それは誰だって怒るだろう。当然だ。しかも口を塞ぎ、制止を聞かず、身体を密着させた。重たかっただろうし、嫌な気持ちになったに違いない。それでもリーンが立ち去るまでは騒がないでいてくれた彼の懐は相当に広いと思う。


(後からちゃんとオスカーには謝っておかないと……)


 そう思いながら廊下を進んでいると、突然前方から「あれ?」という聞き慣れた声が聞こえてきた。顔を上げると、そこには大きく目を見開くギルバートの姿。


「あ」


 目が合った瞬間、ギルバートの表情が死んだ。セシリアの身体からは大量の汗が噴き出る。


(やばいやばいやばい!!)


 彼はつかつかと歩み寄ってきて、自分の上着をセシリアにかけてくれた。

 その行動だけは優しいのだが、表情は少しも優しくない。怒っている。変な格好をしている義姉に対して、彼は腸を煮え繰り返している。

 身体が自然に震えだす。目は当然、合わせられない。


「ご、ごめんなさい」

「とりあえず、今すぐ服を着替えてこようか?」


 そういった彼の笑顔に、セシリアは泣きそうになった。――恐怖で。



 ギルバートが進言したことにより、セシリアはなんとか制服での立ち絵だけで済ますことができた。それでも、変なポーズは取らされたし、わけのわからない表情だってリクエストされた。

 しかし、やはりそれだけでは不満だったようで、リーンは去り際に


『覚えてなさいよ!』


 なんて捨て台詞を吐いていた。涙目で。徹夜までして用意してもらったのに断ってしまって、本気で悪いとは思っているのだが、どうしてもあれは耐えられなかった。

 セシリアは制服を整えながら、教室に帰ってくる。帰り際、オスカーにきちんと謝ろうと、彼を連れ込んだ教室を見たのだが、もう彼はすでに帰った後だった。これは後から改めて教室に顔を出すしかないだろう。


(それにしても、今後どうしよう。エミリーさんが目覚めれば、すべて丸く収まるんだけど……)


 思考回路を真面目な方向に切り替え、セシリアはそう考える。

 モードレッドの妹であり、三番目の神子候補であるだろう彼女が目覚めれば、セシリアもモードレッドもエミリーもみんな幸せになれる。もちろんエミリーが神子になるのを嫌がるという可能性もあるが、この国での神子というのは、女性が上り詰めることができる最高権力者であり、誰もが憧れるポジションだ。なりたくないと願うセシリアやリーンのような人間がレアケースであり、本当ならば誰もがなりたくて仕方がない地位なのである。なので、エミリーが『神子になんてなりたくない!』と願う可能性は極めて低いと考えていた。


(でも、どうやったら目覚めるんだろう)


 脳や身体には問題はないらしい。それならば、なにが原因なのだろう。


(その鍵はきっとモードレッド先生のルートにあるのよね)


 そう考えながら、セシリアは席に着いた。昼休憩が終わる直前だからだろうか、教室の中は少し騒然としている。


「セシルはどうだった?」


 そう聞いてきたのはジェイドだった。セシリアはその言葉に首をひねる。


「なにが?」

「定期試験の結果。掲示板に張り出されてたよ」

「え!?」


 セシリアは慌てて立ち上がる。この定期試験には、彼女の運命がかかっているといっても過言ではないのだ。家庭訪問だけは、なんとしても避けなくてはならない。


「ちょっと行ってくる!」

「あ、うん」


 頷くジェイドを残したまま、セシリアは掲示板へと走る。

 そして、貼られている順位を見て、胸をなで下ろした。


(よかったぁああぁ)


 安堵の息をつく。結果は学年で十位。前回が八位だったので、少し落ちたぐらいで済んだ。これならば、家庭訪問の心配はないだろう。


(それにしても、みんなすごいなぁ)


 攻略対象の面々はみんな上位陣に名を連ねている。ダンテだけは見当たらないが、彼のことなのできっと面倒くさがっただけに違いない。『やればできることはわざわざやらない』それが、彼の主義だ。


(ギルは一位だし。さすがだよねー)


 学院で習う勉学の全てを、彼はもうすでに学習し終えていた。家庭教師は彼が十三歳の時に『もう私が教えられることはありません』といい、その任を降りている。なので、彼が学院に通う理由は勉学ではない。貴族同士のコネを作っておくことと、男装すると馬鹿を言い出したセシリアのフォローが理由である。


(こう考えると、私ってギルに頭が上がらないわよね。ホント……)


 社交界に出ていたギルバートにとって、コネ云々はどうとでもなる話だ。現に彼を慕う人間は多いし、セシルほどではないが女性人気もそれなりにある。なので、彼が学院に通う理由の九割がセシリアに帰結するのだ。


(夏休みに入ったら、思いっきり労ってあげなくっちゃ!)


 セシリアはそう拳を握りしめた。

 ヴルーヘル学院の夏休みはあまり長くない。わずか二週間ほどだ。しかし、その短さ故にかゲームの中では夏休み期間はまるっと飛ばされていた。なので、キャラクターのイベント等もない。

 それはセシリアにとって、ひとときの休息期間を意味していた。


(男装もしなくて良いし! いろいろ気にする必要もないし! 久々に姉弟水入らずで過ごすのも良いかもしれないわよね!)


 そう考えるとわくわくが止まらない。少し前に話していた『みんなでセシリアの屋敷に行こう』計画も潰えたようだし、リーンが二、三日屋敷に来ることになっているが、それ以外の期間はゆっくりと二人で過ごそう。セシリアはそう考えていた。



 そうは問屋が卸さないのが、この世界である。

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